第八話・オヤジの教え
ふにふに、ふにふに。
手に触れるなにやら柔らかい感触に、ラフィンは意識をゆっくりと浮上させる。
手の平にすっぽりと収まる正体不明の柔らかい物体は、触れていると妙に気持ちがいい。
なんだろう、こんな柔らかいものを枕元に置いた覚えはない。ラフィンはそう思いながら伏せていた目を静かに開けた。
寝起きゆえに定まらない焦点を、何度か瞬きを繰り返すことで合わせていく。耳には心地好い鳥のさえずりが届いていた。
「……ラフィン」
「……」
手の平に触れていたもの。それは、隣で一緒に寝ていたアルマの――
「うわああああぁッ!? おま、おま……っ、バカアルマ! 殴ってでも起こせよ!」
「い、いや、せっかく気持ちよさそうに寝てるのに……」
「だからって黙って胸を揉ませとくやつがあるか! なにをされるがままになってんだよ!!」
「べ、別に触られて困るものじゃ」
「俺が困るわ!!」
その正体は、現在は少女になっているアルマの絶壁と言われた胸だった。
あまりの衝撃にラフィンは弾かれたように身を起こすと、勢いよく後退る。その拍子に寝台から落ちたが「寝ながら親友のおっぱいを触っていた」という事実は痛覚よりも大きかったようだ。落ちて床に強打した尻になど今は構っていられない。
アルマは寝台から落ちたラフィンを心配して覗き込んでくる、だが今は正直やめてほしい――ラフィンはそう思った。
昨夜、あのまま眠ってしまったアルマを抱きかかえて彼の家で勝手に休ませてもらったが、アルマは一人暮らしだ。寝台などひとつしかない。
こうなってしまう前はよく一緒に寝ていたこともあり、深く考えぬままラフィンはアルマと共に寝台に潜り込んだのだが。
「(やっぱ、やめときゃよかった……寝ながら親友の胸触ってたとか最悪だろ、俺……)」
そんな心情も露知らず、アルマは朝からどんよりと重い空気を背負うラフィンの頭をよしよしと撫でていた。
普通の少女ならば激昂するだろうに、元が少年であるためか、アルマにはどうにも羞恥心が欠けている。ラフィンはそう思った。
* * *
「よお放蕩息子、朝帰りとはイイ度胸だな。昨日の晩はお楽しみでしたってか?」
「そんなワケねーだろ!」
「アルマちゃん、かわいそうに……朝になってアルマちゃんがいないからどうしたのかって、パパと話してたのよ。でもまさかラフィンに……」
「いや母さん違うから、なにもしてないから。そんな汚らわしいものを見るような目で息子を見ないで」
ラフィンがアルマと共に自宅に帰り着くと、開口一番でガラハッドがそんな言葉を向けてきた。母クリスも本気なのか悪乗りなのか定かではないものの、今にも泣き出しそうな表情で見つめてくる。
アルマはアルマで今朝の一幕を思い出したのか、どこかおかしそうに笑う始末。
しかし、ガラハッドは一通り揶揄して満足したらしく、ラフィンとアルマ二人の無事を確認して安堵を洩らしたあと、座していたソファから立ち上がる。
「アルマちゃん、悪いんだが母さんと二人で買い物に行ってきてくれ。俺はこのバカ息子に説教せにゃならん」
「あ……はい、買い物は大丈夫ですが、ラフィンは本当になにも……」
「ハッハッハ、コイツにそんな根性がないことくらい俺も母さんもちゃんとわかっとるよ、大丈夫だ」
ガラハッドの言葉にアルマは申し訳なさそうにラフィンを見つめていたが、やがて小さく頷くとクリスに促されて自宅を出て行った。
クリスとアルマがいなくなったことで、ラフィンは恐ろしいものでも見るように父を横目に見遣る、あの二人はガラハッドのストッパーのようなものだ。父は母には優しいし、アルマのことも非常に可愛がっている。
だが、ラフィンは一人息子ということもあってか、厳しい時はこれ以上ないほどに厳しかった。
ガラハッドは改めてソファに腰を落ち着かせると、無言でテーブルを叩く。向かい合う正面の席に座れ、と――そう促しているのだ。その表情は険しい。
暫しの躊躇の末、ラフィンは促されるまま父と向かい合う形でソファに腰を落ち着かせ、怒鳴られるよりも先に口を開いた。
「オ、オヤジ、俺は本当になにも……いや、不慮の事故でアルマの胸は触ったけどそれ以上のことは本気でなにも――」
「ほう? 父さんの話はそれじゃないんだが、まさか自分から告白するとは」
「は? え?」
「ほおおぉ、アルマちゃんのおっぱいを触った? どうだった、柔らかかったか?」
「な、な、バ……っ!」
思わぬ父の返答と反応にラフィンは双眸を丸くさせると、次の瞬間には耳や首元までを朱に染め上げた。
ガラハッドはそんな息子をニヤニヤと企み顔で眺めていたが、程なくして真剣な面持ちに戻ると静かに口を開く。
「……ラフィン、アルマちゃんの旅のことなんだが」
「え? あ、ああ」
「いつ発つかはもう決めたのか?」
「食糧以外のものはもう揃えたんだ、だから後でアルマとその話をしようとは思ってるけど……どうかしたのか?」
普段は自分を揶揄してくるばかりの父が真面目な表情を浮かべている様子に、ラフィンは怪訝そうな面持ちで率直に問いかけた。
昨晩の火災のことも気にかかる、なにかわかったのだろうか――そう思ったのだ。
「うむ、宿屋の娘さんのことは知ってるな?」
「宿屋の娘って……カネルのことだろ。アルマをいじめる親玉だ、知らないワケないさ」
「……昨夜の火災な、あの子がやったものかもしれん。酒場の裏にあるタルや木箱に、火を起こすクラフトの祈りを捧げてたって目撃情報がいくつか上がってるんだよ」
「な、なんだって……!?」
その言葉にラフィンは思わず目の前のテーブルに両手をつき、腰を上げた。
昨夜の火事は、カネルが引き起こしたもの――全く予想だにしない言葉に驚くなと言う方が無理な話だ。カネルはアルマをいじめる嫌な子供だと思ってはいたが、そのようなことまでするのかと。
ラフィンは複雑な表情を浮かべながら、座したままの父を見下ろす。
「俺だって半信半疑さ、だが……見た奴が何人もいる以上は放ってもおけんだろう。だからお前はアルマちゃんを連れて早々に発った方がいいと思ってな」
「……なんで?」
「なんでって、あのお嬢ちゃんはお前を気に入ってるから自分の守護者にしたいんだぞ。あの子にとってアルマちゃんは邪魔者なんだ、だからいじめるんだよ」
「……俺、気に入られてたのか。アルマと仲良いから突っかかってくるのかと思ってたんだけど」
「女ってのはそういう面倒くさい生き物なんだよ、覚えとけこのニブちん」
吐き出すようにそう告げると、ガラハッドはそこでようやく座していたソファから腰を上げた。そして壁に立てかけてあった剣を手に取ると、裏庭へ繋がる扉を顎で示してみせる。
――出ろ、という合図だ。
ラフィンはそんな父を目を丸くさせて眺めるが、不思議そうな息子の様子にガラハッドは片手で己の頭をかきながら告げた。
「旅に出る前に、お前に教えておかんとならんモンがある。出ろ、お前はアルマちゃんのガーディアンなんだろ」
その言葉にラフィンは暫し呆然と父の背中を眺めていたが、数拍の沈黙の末に後を追いかけた。




