世界Ⅱ
電車は住宅街を通り過ぎ、大きな川を渡る橋の上を進んでいた。
都心へと繋がるこの車両は通勤時は人でギュウギュウ詰めになるのだが、この時間帯は乗客もまばらで、朝の熱気を僅かばかりも残す事なく静寂に包まれている。
彼女は空いた席には座らず、乗車口に少し背をもたれかけさせて流れる景色を漠然と見据えていた。少年は背伸びをして、陽光に照らされてキラキラと光る川面を眺めている。
彼女は再び、先日の三木医師との会話を思い返していた。
◆◆◆
「はあ、やっぱ涼しいねぇ!」
ここじゃ息が詰まるでしょ?と近くの喫茶店を提案した三木医師だが、本当は自分の方が“適切”に温度管理された病院よりも、冷房がガンガン効いた場所に来たかったのだろう―と、彼女には分かっていた。
「アイスコーヒー、二つね」
常連なのか、手馴れた様子で注文を告げると奥のソファへ腰を下ろす。
三木医師は30代半ばの女性で、彼女にとっては大学での先輩にあたる。
もともと学部が違うため医学の知識が全く無いと言っていい彼女だが、心療内科医として若くして単身渡米し、海外の先進医療を独自に学んできた三木が優秀である事は聞き及んでいる。
「はぁ、なんでこう毎日暑いかね」
手に持った書類を団扇代わりにして、シャツの胸元をパタパタとやる仕草を見ると、とても同性とは思えない。
「昨日ね、宮野さんと少し話せたよ」
「…え?」
唐突に三木が切り出し、彼女は呆気に取られた。
宮野―とは、彼が勤めていたゲーム会社の開発部署長の名前で、彼とは直属の上司にあたる。
「なんかまだバタバタしてるみたいだけど、何とか時間作ってもらったのよ、彼の仕事のこと、会社のこと、例のゲームの事も一通り聞いたわ」
例のゲームとは、彼が開発に携わった、いわゆるVRと呼ばれるもので、数年前までは次世代ゲームとして持て囃されていたが、今となっては様々なジャンルのものが世間に溢れている。
「これは私の推察だけど…」
テーブルにアイスコーヒーが運ばれてくる。三木はそこで言葉を区切った。
店員を見送り、一息ついてから三木は続けた。
「彼はおそらく、まだゲームの世界に取り残されている可能性があるわ」
カランと、氷が溶ける音が響く
衝撃的な言葉に、彼女はその一言一句を理解するのに精一杯だった。
「それって、どういう…」
「彼が進めていた、VRゲームのデバック中の脳波データを宮野さんに貰ったの、その解析結果が今の彼の日中の脳波データとほぼ一致するのよ」
「で、でも、頭の装置はとっくに…」
彼のゲームがその他のVRと一線を画したのが、プレイヤーの意識状態にあった。
プレイヤーは眼下までをすっぽり覆う専用の機材を装着し、半ば強制的に睡眠状態に導く事で、現実とは全く別の世界を体感する事ができる。
プレイヤーの顕在意識のもとゲームを追体験する今までのそれとは違い、完全な睡眠状態―いわば潜在意識下のゲームへの没入は、法的な規制はないもののその開発難度となによりも脳への影響が医学的に解明されていないため、どのゲーム会社も開発に二の足を踏んでいた。
「そう、あれは事故当時に既に取り外されている、でも、脳波だけは変わらずゲームプレイ時と同じ数値を示しているの」
「どういう事ですか…」
彼はその日、ゲームの最終デバックを行っていた。
海外で行われる、業界最大のゲームの見本市への出展時期が差し迫っていたこともあり、その作業は規定のプレイ時間を大幅に超えていた。
デバックは10数名によるチームが編成され、その主任でもあり、ゲームの最重要パートでもある終盤からゲームクリアまでのデバックを担当した彼の肩にかかるプレッシャーは計り知れない。
作業は一昼夜を超えて日増しに増えていった。
残すは彼の、エンディングイベントのデバックを残すばかり。
そんな時、事故が起きた。
マグニチュード7を超える巨大地震が都心を襲ったのだ。
耐震システムが整備された都市では破壊的な被害は出なかったものの、一部高架線の鉄塔が被害を受け、本社開発室の地域一体が一時停電状態になった。
それはほんの僅かな、時間にすれば数分程度の暗闇であったが、その僅か数分間が、彼の脳に影響を与えた。いや…“与えなかった”と言うべきか。
通常、ゲーム没入のためのVR装置は、こうした停電等のトラブル回避のため内部電源を搭載している。しかし長時間に及ぶデバック作業に弊害となるため、彼は外部からの電源供給に切り替えていた。さらに災害時の非常電源が正常に作動しなかった事も災いした。
ともあれ、彼のVR装置はその数分間、完全に電源が遮断され機能停止状態となったのだ。
本来、そこで覚醒し、意識は現実世界へと戻る…はずだった。
「彼は、彼の脳は、電源供給が絶たれた後も、独自にゲーム世界を構築しているのかもしれないわ」
「そんな…」
「当時、作業チームの一人であった開発員の記録によると、彼のゲーム没入時間は30時間を超えていたそうよ、これは規約で定められた1日の推奨プレイ時間のおよそ15倍、もちろん、途中途中で休憩等は挟んでいたでしょうが、おそらく彼の脳は既に現実と仮想の区別がつかなくなっていたはず」
「じゃあ、あの地震と停電は…」
「直接的な原因とは言えないかもしれない、でもその事が潜在意識下でのVRゲームの世界と、朦朧とした顕在意識の中で脳が作り上げたゲームの世界をリンクさせてしまった…。そして、装置を外してしまった以上正式な手順を踏んで覚醒状態に戻す事は出来ないわ」
「……」
氷は既に溶けきって、グラスに滴る雫がテーブルに僅かな水溜りを作る。
三木は微温くなりはじめたアイスコーヒーを持て余すように、ストローでクルクルとかき混ぜる。
「あの人を…夫を元に戻す方法はあるんでしょうか」
「彼の脳波は、確かにゲームプレイ中を指し示している、でもそれには時間的な制限があるの」
「え?」
「一日の間、その間の5,6時間程度、彼の脳波は通常の睡眠状態に戻っているの」
「それって」
「その間だけ、もしかしたら彼の意識は微かに現実世界へ戻ろうとしているのかも」
「だ、だったら!」
「ダメよ、その時に外的に…それこそ無理やり揺り起こそうとしようものなら、覚醒時に記憶障害を引き起こす可能性が高い」
「それじゃあ、どうすれば!!」
彼女が無意識に上げた大声に、他の客が何事かとこちらを伺う。
三木は彼女を制するように、キッとその瞳を見つめる。
「落ち着いて…。私の推察が正しければ、彼が現実に戻るには、彼自身が“今いる世界が仮想世界だ”と認識する必要があるの“戻るべき現実がある”と―」
「…私に、私たちに出来ることは無いんでしょうか?」
「彼を現実に気づかせる方法は何も特別な事柄でなくてもいい、彼が経験してきた、それこそ『日常』のありふれた些細な出来事が、彼を目覚めさせる手がかりになるかもしれない」
「些細な…出来事」
「彼が何を思い、仕事に打ち込んできたのか、あなた達家族にどんな想いを抱いていたのか、それだけじゃない、彼が日常で感じていた、風景、匂い、感触、その五感で感じ取った全ての事象が目覚める鍵になるのよ」
「あの人の日常…」
しばらくの沈黙の後、三木が腕時計に視線を落とす
「そろそろ、戻りましょう」
「…はい」
彼女の肩の上にポンと手を掛ける。
「大丈夫、彼を信じなさい」
推察から始まった話だったが、三木は彼女を励ますように、確信的にそう告げた。
◆◆◆
車両は既に、都心のビル群へと呑み込まれていた。
病院は、彼の勤めていた会社の目と鼻の先にある。
彼が、毎朝、毎晩眺めていただろう景色。
いや、ラッシュ時の喧騒の中ではそんな余裕すら無かったかもしれない。
(あの人の日常…)
家族が住む家は、都心から電車で一時間以上離れた郊外よりさらに奥にある。
美咲は都会のゴミゴミしたのが嫌いだからな―と、
彼はもっともらしい理由をつけていたが、本当は彼だって人混みが大の苦手な事ぐらい彼女は知っている。
真面目で我慢強い人だったから、満員電車で酸欠で倒れ駅の医務室に運びこまれても、家族に心配させまいと黙っていたことも知っている。
それでも彼は不平や不満を唯の一つも彼女に言った事はない。
しかしそれが、逆に彼女の心の底に澱のようにドロドロと溜まるストレスの原因でもあった。恵人が産まれ、育児に追われるようになっても、そのドロドロは洗い流される事はなかった。
『なんだか“毎日”を繰り返しているみたい』
以前、一度だけ彼にそう告げた事があった。
彼は、怒るでも、諌めるでもなく、少し俯いて悲しい目をしていたのを、彼女はよく覚えている。
(あの人は、幸せだっただろうか…)
「…ママ」
「え?」
少年が服の裾を引張ている。
「次で、降りるんだよ」
「あ、ええ、そうね」
首から下げた、彼への『贈り物』が、少年の胸でキラリと光る。
彼女は屈んで、それを手に取る。
…コチ…コチ…コチ
「ママ?」
「ん?」
「パパ、帰ってくる?」
…コチ…コチ…コチ
「大丈夫、帰ってくるよ」
そう言って彼女は優しく少年を頭をなでた。
大丈夫
どんなに繰り返しの毎日でも
どんなに小さな幸せでも
この手からこぼれ落ちないように、育んでいける。
私たち家族は、ちゃんと歩いていける。