廻転Ⅳ
王都カルテアは東西南北、一番から十七番までの街区があり、それらに囲まれるようにして貴族街と王城が存在する。居住区と王城一帯はネメス運河によって隔たれており、そこに架かる4本のネメス大橋のみが王城へと至る路となっている。
小道を幾つか曲がり大通りへと出る。王都の玄関口である一番街方面とは真逆にあるセレス十三番街は時間帯を問わず人通りが少ない。
太陽は既にかなり高い位置にあった。陽光が容赦なく照りつけ、胸当ての内側で汗が体を伝う。
緩い勾配がかかった坂道をしばらく進むと、にわかに商店や屋台が顔を出し始める、チラホラと馬車や荷車の往来も目立ってきた。
何の変哲もない、通い慣れた道だ。『前回』も『前々回』も、その前も、ずっとその前も。
すれ違った少女が小石につまづく事も
小鳥が道端で水浴びしている事も
舞い上がる木の葉の行き先さえも
予め決められた『今日』の象徴。
なのに、なぜだろうか?ここまで心がザワつくのは…何もかも、全て同じなはずなのに。
(何が違う?)
その答えは唐突に俺の前に姿を現した。
王城を一周するように流れるネメス運河。
そしてそれを分断するように架かるネメス大橋。その直前の広場で俺は棒立ちになっていた。
(これは、どういう事だ)
ザッザッザッザッ―
眼前に広がるのは、人、人、人。
生気をまるで宿さない瞳はただ一点を見据え、立ち止まる者も、言葉を発する者もいない。
ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト、ヒト
数百…数千…広場に際限なく溢れる人の波は、その全てがネメス大橋へ、そしてその先の王城へと流れていく。
ザッザッザッザッ―
不規則に波打つ無数の頭部に、微かな目眩と吐き気を感じる。休むことなく繰り出される両足から放たれる靴音が幾重にも重なり、まるで怪物の嘶きのように低くくぐもったそれは次第に俺の耳と脳を犯していく。
(そんな…こんな事は前回は無かった)
ネメス大橋を渡った先にある王城区画は公王の居城の他、行政区と貴族街しかなく、一般市民がこの橋を通る事はまず無い。時間帯から見ても、“いつも”なら数える程度の人間しか居ないはずなのに。
ザッザッザッザッザッザッザッザッ――
心臓の鼓動が高鳴る。
瞼の裏がチリチリと痛む。
指先が軽く震えはじめる。
ザッザッザッザッザッザッザッザッ―
気づけば、後方からも無数の人の群れが押し寄せている。それは絶妙な間合いで俺を避け、そしてまた橋へと流れていく。まるで濁流の中、岩場に取り残された小動物のように。肌に纏った小刻みな震えはやがて全身を支配していた。
「…お、おい!!」
乾いた喉から精一杯の声をあげる。
「何があったんだ!!なぁ!!?」
「いったい『今日』何があった!!?」
ザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッ―
両腕で震える体を抱きながら張り上げたその疑問も、冷めた一瞥と怪奇さを増す足音によって群衆の波に掻き消されていく。
「なぁ、誰か答えろよ!!おい!!!」
怒りと恐怖に変わった感情は、誰に向けられる訳でもなく身体の周りをグルグルと逆巻き霧散していく。
ザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッ
涙が頬を伝う。
『今日』が変貌を遂げようとしている。それでも群衆は無機質に、そして冷徹に進んでいく。
(俺は一体“今日”に何をした!?)
(今までの“今日”と何が違った!?)
様々な感情が綯交ぜになりグチャグチャになった頭で、俺はつい先ほどまでの記憶を必死に思い返した。
ザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッ
ザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッ
(何があった!?何があった!?何があった!?)
『左手に残った感触』
『白木蓮の香り』
ザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッ
ザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッ
ザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッ
ザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッ
『赤い小箱』
『絵本を読む少年と老婦人』
ザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッ
ザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッ
ザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッ
ザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッ
『痩せていく体』
ザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッ
ザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッ
ザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッ
ザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッザッ
『懐中時計』
………
…コチ…コチ…コチ…
いつの間にか、周りの音は消えていた。俺はとうに膝を突き、ただ過ぎ去る群衆を眺めるだけの体勢になっている。
…コチ…コチ…コチ…
俺はそっと懐に手を入れ、『それ』を取り出す。
…コチ…コチ…コチ…
左手にすっぽり閉じ込めて、少しだけ目を閉じる。その音と心音が共鳴するかのように、徐々に鼓動が治まっていく。
…コチ…コチ…コチ…
右手でゆっくりと蓋を開け、変わらず時を刻む秒針の後を追うように、そっと表面を撫でる。
…コチ…コチ…コチ…
ふと、左手の中指の腹に違和感を感じた。
文字盤を裏返すと真鍮製の裏盤面に、何やら文字が刻まれている。
…コチ…コチ…コチ…
再び、少しずつ早くなる鼓動
小さく、しかし丁寧に刻まれた、たった三行の文字と…
…コチ…コチ…コチ…
(そうか、そうだった)
…パチン
それを懐へと戻し、俺は立ち上がった。
もう体の震えはない、恐怖も、怒りも、悲しみもない。
一歩一歩確実に、力強く、目の前の群衆へと歩き出す。