おのひと
「あ」から始めたのは二日前の月曜日。安藤くんと池田くんを通り過ぎ、大沼くんで三人目。体育で気怠くなった体を椅子に預け、一様に背を向けたいくつかの学生服の向こうに大沼くんを見る。短髪の少しも変わったところのない後ろ頭に、丸いフォルムを描く頬。鼻の少し下のほうで止まった眼鏡は俯き、熱心に板書を写しているようで肩がわずかに揺れていた。教室のブラインドが風に煽られて虫の羽音のように高く鳴り、大沼くんはノートから目を離さないまま、彼の頬を打とうとするそれを手の甲で押さえていた。
私がこの悪趣味な遊びを始めたのは二日前。ルールは簡単で、出席番号順に好きな人を決めて、小さなことでいい、どこか素敵なところを見つけてその日一日の自分を騙すのだ。一日目は放送部の安藤くん、二日目はサッカー部の池田くん、「う」と「え」を抜かした三人目が大沼くんで、今日の私は午前中の授業が終わりかけた今になってもまだなりきれずにいる。
ふと見ると、大沼くんは右手に顎を乗せ、なんだか間の抜けた表情で黒板を見上げていた。手のひらに押し上げられた唇は捻じ曲がり、白い肌に大きな手のひらがミスマッチで、私は彼が女の子に少しも人気がないことを知っている。シャープペンシルのキャップで唇の下をなぞりながら思案していると、教師が抜き打ちの小テストの旨を告げ、慌てて英単語帳のページを捲った。
小テストを回収する途中、大沼くんの筆箱に付いていた青のめがね型ストラップが目に入った。福井県の祖父の家に帰省した時、姉と連れられて行った体験工房で作ったものと同じだとすぐに気づく。
「それ、私も持っている」
弾かれるようにして顔を上げた大沼くんと目が合った。話しかけるつもりはなかったが、無意識に言葉が口をついていた。周囲の席の数人が興味深げに私たちを注視する中、私たちは数秒の沈黙を共有し、私は鳴ったチャイムに急かされるようにして大沼くんの席から離れた。
中学高校一貫のこの学校で、私と咲子ちゃんはこの春初めて同じクラスになった。私と彼女は言葉を交わしたことがなかったから、特別目立ったところのない私のことを彼女は知らなかっただろうけれど、私にとっての咲子ちゃんは最初から「西澤くんと付き合っている女の子」だった。私と西澤くんは家が近所の幼なじみで、小学校を卒業するまではクラスメイトにからかわれるほどの親しい友人だった。私の過剰な自意識のみせる錯覚でなければ、お互いを異性として意識していると感じる瞬間もあったと思う。
中学校に入って新しい人間関係に飲み込まれ、気恥ずかしさから西澤くんと話せなくなって数年、おとなしくて目立たないと思っていた西澤くんに彼女がいると聞いたときは驚いた。「四組の太田さんって子なんだって」。そう私に教えたのは誰だったか忘れてしまったけれど、その咲子ちゃんと今では昼食で机を向かい合わせにする仲なのだから、成り行きというものはわからない。そして私はずっと、西澤くんへの気持ちを断ち切れずにいる。
ホームルーム後、手早く荷物をまとめた私は掃除の始まった教室を出て、廊下で立ち話に興じるクラスメイトの間をすり抜けた。生徒用玄関のそばの階段を早足で上り、図書室と理科実験室の前を過ぎる。照明の落ちた美術室のドアを後ろ手で閉め、喧噪を遮るとほっとして深く息を吐いた。教卓前のホワイトボードには新任の美術教師の丸い字でコラージュについての解説が並んでいて、戯れにその端を指で擦った。放課後は誰もいない美術室で宿題をしたり本を読んで過ごすのが常だった。
定位置の廊下側の一番後ろの椅子を引き、半分ほど読み進めた、図書室で借りた本を鞄から取り出す。紙の間に入れた紐を引き上げ、文字を追いはじめてしばらくすると、渡り廊下を隔てた音楽室から吹奏楽部の音合わせが聞こえた。トランペットが一人、時折音をはずしている。楽団出身で熱心だと聞く顧問の国語教師の指示なのだろう、合奏はたびたび止み、ばらばらと崩れ落ちるように止んでいく音の中にいつも最後まで残っている音がひとつ、小さな自己主張なのだろうか。ふと咲子ちゃんのことを思う。吹奏楽部でクラリネットを吹く咲子ちゃんはソロを任されるほどの腕前で、練習が終わるといつも西澤くんと連れ立って下校することを私は知っている。思い浮かべた光景を打ち消してページを捲った。
さようなら、と女生徒の声が廊下に響き、次いで応える教師の声を聞いた。はっとして時計を見るともう下校時刻に近く、読み進めた本のページに紐を挟む。子どもじみたいくつかの足音が忙しなく階段を降り、笑い声が遠のいた。美術室の窓からは生徒用玄関を見下ろすことができる。窓を開け放して冷えたアルミのサッシに手を掛け、咲子ちゃんを探すと、色素の薄い髪を耳の横で編み込んだ、彼女の小さな頭をすぐに見つけた。西澤くんを見つけた咲子ちゃんは小さく手を振って駆け寄り、並んで歩き出したその背が遠くなるころ、遠慮がちに西澤くんの腕を取った。
宿題に指定されたワークブックを机の中に入れたままにしていたことに気づき、逡巡の末教室へ駆けた。日が沈みかけた校内はすでに暗く、緑に点灯する非常口の表示が廊下に色を落としていた。机上に鞄を乗せると同時にドアが開き、肩を跳ねさせる。大沼くんが外の明かりを背に受けて立っていた。目の端で質量を増していた涙を隠そうと慌てて顔を逸らすが、彼の顔には困惑が見えたから、もうそれも遅かったのだろう。
「あのストラップ、中野さんも持っているの?」
見なかったふりをして立ち去ると思ったのに、意外にも大沼くんはか細く言った。擦り気味の特徴的な足音が近づく気配がした。うん、と頷いた私の声は鼻声で、慌てて鼻をすする。
「行ったの?鯖江のあそこ」
「行ったよ、去年」緊張感の薄い大沼くんの口調に苛立ちながら答えた。
「鯖江に僕のばあちゃんちがあるんだ」
「私も同じ。ねえ、悪いんだけど、その話は今度にしてくれる?急いでいるから」
冷たく言ってしまったのは、普段を装うことが辛かったからだ。それきり背を向けて帰り支度を始め、玄関口で生徒を追い立てる教師の声が遠く聞こえた。
「前から思っていたんだけど」大沼くんが言った。「授業中に掛けている眼鏡、どうして普段は掛けないの?似合うのに」
らしくない気遣いのつもりなのだろうか。何も知らないくせにと思うと無性に腹が立ち、ワークブックを入れ終えたばかりの膨らんだ鞄を叩く。「あなたに言われてもうれしくない」。頬に残っていた涙を手のひらで拭って大沼くんを睨むと、面食らったように目を泳がせた彼は寂しそうな笑みを浮かべた。私はすぐに後悔した。
「ごめん」
「いいよ。気にしない」
「私、馬鹿みたい」吐き捨てるように言って俯く。「本当、馬鹿みたい」
大沼くんも私も少しの間黙っていた。運動場の明かりに照らされ、床に落ちた影が大きく動いた。頭上の気配に身を縮ませ、その正体を窺い見る。授業中に同じものを見た記憶が鮮明に浮かんだ。大沼くんの格好悪いくらい白い肌と、ミスマッチな大きな手。それが嘘みたいにすっぽり私の頭を覆ったのを感じて、涙が滲んだ。