第8話
すうと息を吸い込んで身体を水に沈める。
スカーリングしながら水平姿勢をとると、プールの壁を蹴って泳ぎ出す。
肌の表面を滑る水の感触を楽しみながら、ひとかきひとかき、ゆったりとしたフォームで泳いでいくと、ゴーグル越しに見える青味がかった世界で、弾ける水飛沫が白く輝く。
ゆらゆらと揺れる水に身体を委ねていると心が解放されていくような気がして、『僕は本当に泳ぐのが好きなんだ』と改めて実感する。
けれどもし『競泳が好きか?』と聞かれたら、僕は何と答えるのだろう?
熱気に包まれた会場。
緊張感溢れる召集所。
長く伸びるホイッスルの音。
スタートする瞬間の集中力。
泳いでいる時の景色。
ゴールに触れた瞬間の達成感……。
人と競い合う事は好きではないけれど、ひとつの事に向かって頑張るという行為は好きだ。
そうか……僕は≪競泳≫ ではなく、≪大会≫が好きなんだ。
練習と違う雰囲気の中で泳ぐと、普段の僕とは違う自分に出会えるし、例えどんな結果が出ても、それが今の僕の力なんだって、自分の存在を確認できるから……。
だけど周りのみんなは違う。
『誰々にだけは絶対負けない!』とか、『絶対表彰台上がってやる!』なんて言いながら、コンマ1秒でも速くなろうと必死で練習している。
彼らの練習は≪競泳≫、つまり競い合って泳ぐためのものであって、楽しんで泳ぐ為のものではないんだ。
そんな彼らの姿を見ていると、『昔のスポ根マンガみたいだ』なんて思ってしまう。
僕はというと、泳ぐことが好きだから練習に参加してる。
例えキツいメニューだったとしても、それは一時の我慢。
どんなにキツイ練習でも、終わってしまえば、またすぐに泳ぎたくなってしまうんだ。
たまたまヒトよりちょっとだけ泳ぐのが速かったから、運良く大会にも出場出来た。
リレーのメンバーにも選ばれた。
だけど『泳げればそれでいい』なんて気持ちでいるから、真剣に泳ぐみんなとの間には自然と温度差が出来て、どうしても浮いた存在になってしまう。
ヒトと競い合う≪競泳≫に力を入れる気になれないのは、僕の性格からくるものなのだろうか?
仲間から浮いてしまった自分を感じると、『熱くなるなんて僕らしくない、僕には僕のペースがあるんだから』なんて強がってみせる。
だけどそんな強がりも、祐太の前では通じない。
『だったら部活なんて辞めちまえ、そしたら好きな様に泳げるぜ。だけど俺はおまえが居ないと寂しいな』
なんてクサイ台詞で僕の居場所を作ってくれる。
身に付いてしまったこの習慣……目立たないこと、我慢すること。
幼い頃から杉浦の家で影のような存在として育てられてきた僕に、光を当ててくれたのは祐太だった。
『この世の中に僕なんて必要ないんじゃないか』
そんな風に思ってきた僕をここまで引っ張ってきてくれたのは、屈託ない笑顔と優しさを持つ祐太だった。
祐太がいるから頑張れた。
祐太がいるから僕は僕でいられる……。
祐太への感謝の気持ちでいっぱいになった僕は、なんだか泣きたくなってきた。
今なら泣いても誰にも気付かれない。
ええい、泣いてしまえ!
なんて思っても、泣きながら泳ぐなんて苦しくなるだけだから、ゆったりした泳ぎから徐々にスピードを上げていき、最後はダッシュしていた。
「はあはあはあ……」
無心でダッシュし続けたら、腕が重くなるほど疲れてしまったけれど、泣きたかった気持ちはどこかへ消えてしまった。
プールの壁に寄りかかり、上がった息を整えていると、何本目かのサークルを終えた純が戻ってきた。
「はあはあ……」
お互い無言のまま、荒い息遣いだけがプールに響く。
「あの……」
息を整えた純が徐に話しかけてきた……。