第7話
「次の上からキック10本ーッ!」
大きくて良く通るコーチの声が、プール内に響き渡る。
大会間近となり、練習は追い込み状態で、いつもハードな内容練習は、更に厳しさを増している。
部員達は上がった息を整えながら、無言でプール脇の時計に目をやる。
プールサイドの大きな時計の針が60を指すのと同時に、ビート版を手にした部員達が一斉に水中へと飛び出していく。
キックとは、ビート板につかまってバタ足のみで進む練習。
一見楽そうに見えるけど、キックだけを推進力とする泳ぎのため、見た目以上にキツくて、せっかく整えた息もあっという間に上がってしまう。
正直言って、僕はこの練習があまり好きではない。
僕が一番得意な泳ぎはブレスト(平泳ぎ)だけど、この練習ではフリー(クロール)のキックで泳がされる。
フリーはスイマーとして基礎の泳ぎだけど、実は僕にとっては苦手種目。
この練習になるといつもうんざりしながら、あっという間に溜まる乳酸と、上がっていく息に必死で耐えていた。
好きでなくても練習だから仕方がない、やるしかないんだと自分に言い聞かせながら、みんなに遅れをとらないように必死で喰らいついて行く。
進学校であるうちの学校の方針で、部の活動時間は最大2時間迄と決められている。
それに対し批判する生徒もいるけれど、時間が決められているからこそ、その中でいかに効率良く練習をするか、というのが各部の課題であり、その課題をクリアできた部だけが全国レベルへと上がっていける。
今日もきっちり2時間のキツイ練習を終えると、いつものように祐太が誘ってきた。
「なぁートモーッ、腹減ったー。なんか食って帰ろうぜ!」
練習後の間食を何よりも楽しみにしている祐太は、ダウンもそこそこにさっさとプールから上がってしまった。
大食漢の祐太は部活帰りにバーガー類などを食べた後でも、家できちんと夕飯を食べるんだ。
それなのにまったく太らないといのは、それだけ練習がきついという証拠だろう。
『はやく、はやく』と急かしながら、僕の腕を掴んで無理矢理プールから引き上げようとするから、僕は掴まれた腕を引っ張り返して逆に祐太をプールへ落とそうとする。
「うわッ」
そうやってふざけあっている僕達に、ザパッ!という音と共に激しく水が掛かった。
それはいつもの様に居残り練習をする純が、ターンで撒き散らした水飛沫だった。
水泳選手にとって背が高いということは、それだけで有利な材料となる。
長い手足で水を捉え、大きな掌で確実に水を掴み、前へ前へと進む姿は実に優雅で美しい。
それとは対照的に、身体の小さな選手は、身体の大きな選手と同じ動きをしても、前へ伸ばした腕も、蹴り下ろす足も短いから、進む距離も当然短くなってしまう。
それを補う為に少しでも多く水を捉えようとすると、ついつい忙しない泳ぎ方になってしまうんだ。
なのに、僕より小さな身体をしている純の泳ぎは、実に大きく、のびのびとしている。
基礎をきちんと踏まえた上で培われたその泳ぎは、手首や足首の動きが繊細で、しっかり捉えた水を逃さず、確実に前へと進む。
身体の大きな先輩方に混じって泳いでいる時、小さいはずの純の身体がやけに大きく見えるんだ。
コーチはこれまで、純に何度か細かいフォーム修正を要求した事がある。
ひねくれた性格の純でも、そういう時だけは素直に言われた事を試してみる。
けれど、自分に合わないと分かれば直ぐに、『これは自分には合わないから』とはっきり告げ、元のスタイルに戻してしまう。
そんな純とは対照的に、僕はいつもコーチの言いなりで、例えそれが自分に合わなくても、それで良いんだと自分に言い聞かせ我慢してしまう。
そして自由に泳ぐ純の姿を見るたび、僕は自己嫌悪に陥るんだ……。
『コーチの言う通りやっているのに、 どうして僕より自由にやってる奴の方が速いんだろう?』
純の泳ぐ姿に、ふとそんな疑問が湧いた。
黙々と泳ぎ続ける純を見つめていると、早く帰ろうと祐太が急かす。
「ごめん、今日は居残り練習してく……」
純の泳ぎを目で追いながら、急かす祐太にそっと告げた。
「……分かった」
先輩やコーチに促されない限り、居残り練習なんてした事の無い僕の言葉に、さして驚く様子も無く祐太は頷いた。
「じゃ、頑張れよ……先帰るわ」
「え……?」
それだけ言い残すと、祐太は部室へ戻っていった。
居残り練習なんて事を言い出したから、てっきりからかわれると思ったのに、あまりにもさっぱりとした祐太の態度に僕は拍子抜けしていた。
「さて、やるか……」
祐太の引き締まった後姿が見えなくなると、僕はゴーグルを掛け直して練習を始めた……。