第4話
子供の頃から祖母に言われた続けた言葉があった。
『智弘さん、あなたは次男なんですから長男を立てなさい。 何事も我慢しなさい』
物心ついた頃から、それは子守唄のように、呪文のように繰り返され、幼かった僕の心はその言葉に縛り付けられていった。
『我慢、我慢、我慢……』
長男より目立つな、長男より騒ぐな、長男より欲しがるな……。
数えだしたらキリが無い、我慢の連続。
兄貴の将弘は、僕にとって決して嫌な兄ではなかった。
しっかり者ではあるけれど、元来の温和な性格のせいか、他所の長兄のように兄貴風を吹かせることもなく、兄弟喧嘩をした記憶もほとんど無い。
兄貴は兄貴で、『将弘は長男なんだから』という名目の下、『こうしなさい、ああしなさい』と大人たちに口煩く指図されてきた。
そんな兄貴の姿を見てきたからだろう、僕が色々な事を我慢できたのは……。
僕の育った杉浦家は、先祖代々、どんなに出来の悪い人間でも長男が必ず家督を継ぐことになっていた。
いわゆる≪男系継承≫っていうやつなのかな?
一時期世間で騒がれてたように、うちもそれを頑なに守ってきたらしい。
次男として生まれた僕は、長兄に万が一の事があった時の為にと、影武者のように兄と同等の躾を受け、育てられてきた。
杉浦の家は、大きなお屋敷にはじまり不動産、地元の関連事業諸々に関わっているけれど、≪男系継承≫……そんな時代錯誤な習慣のせいで、何度も経営危機に陥った事があるらしい。
しかし、その度なんとか持ち直してきた。
今こうして杉浦の家が事業を続けられているのは、経営する会社のほとんどを親戚縁者が支えているから。
傾いた会社が潰れてしまえば、一族郎党みな路頭に迷うことになる。
そうならない為にと、みんなが頑張ってくれたからなんだ……。
三男の章弘は、将弘兄さんとは5歳、僕とは3歳違い。
祖母からしたら『可愛い孫』という対象であったらしく、傍から見ていても相当な溺愛ぶりだった。
両親もまた、何の重圧をかけなくても済む、一番下のやんちゃな男の子にかなりの愛情を注いでいた。
章弘はそんな大人たちの愛情に応えるかのように、自由奔放に育っていった。
自由闊達に過ごす章弘の姿を目にするたび、何度羨ましいと思ったか分からない……。
常に影のような存在として育ってきたせいかもしれない。
僕はたまに思うことがあるんだ。
『いっそ、女の子に生まれたほうが幸せだったかも』……と。
僕がまだ、幼稚園児だったある日のこと。
お絵かきの時間、僕たちは黙々と≪母の日用≫のお母さんの似顔絵を描いていた。
僕はお絵かきの時間が大好きだった。
真っ白な画用紙の中、思いのままに描き出す世界を、誰も咎める事が無かったから……。
その日僕の向かいの席に座っていたのは、クラス一の暴れん坊、祐太だった。
「おまえのかあちゃん、へんなかおー!」
そう言うと突然、僕の描いていた絵を真っ赤なクレヨンで塗り潰してしまった。
それはあっという間の出来事で、先生が気付いた時には呆然とする僕の目の前に、出来の悪いクリスマスの包装紙みたいな真っ赤な紙だけが残っていた。
「だめよ、祐太くん。ほら智弘くんに『ごめんなさい』しなくちゃ」
先生は祐太の横にしゃがみこむと、厳しい声で諭しはじめた。
「やだね」
先生の言葉に耳を貸すことなく、頑なに謝罪を拒否する祐太。
その態度に業を煮やした先生は、祐太の頭を無理矢理下げさせた。
「やめろよー!」
両手をばたつかせ抵抗する祐太を、先生は尚も謝らせようとする。
僕は自分の描いた絵が、自分だけの世界が壊されたことに傷付き、何も言えずただ呆然としていた。
そんな僕の様子にやっと気が付いた先生が、
「ごめんね、トモ君。先生も一緒に描いてあげるからね。だから、もう一度書き直そうか?」
と、慌てて新しい紙を持ってきた。
先生と一緒になんか描きたくない、でも新しい紙が欲しいなんて言っちゃダメなんだ……。
それに、僕が怒ったら祐太くんがこまるかも……。
小さな僕の頭の中では、そんな思いが駆け巡っていた。
「……このままでいい」
僕は俯きながら、小さく呟いた。
泣きもせず、俯いたままじっと画用紙を見つめ続ける僕をじれったそうに見ていた祐太は、
「いくじなし!」
と叫ぶと、自分が書いていた似顔絵も僕の絵と同じ様に真っ赤に塗り潰してしまった。
「せんせー、ぼくにも新しい紙ちょーだい!」
ぷくぷくした手を真っ直ぐ伸ばし、祐太は何事も無かったように先生から新しい紙を受け取ると、僕と自分の前に画用紙を置き、
「……ごめん」
と小さく呟いて、黙々と絵を描き始めた。
その日から僕と祐太は『ともだち』になったんだ……。