第15話
「須賀!杉浦!お前らそんなところで何やってる!」
屋上から教室へ戻る途中、水泳部のコーチと遭遇した。
「昼飯食ってましたー!」
ええと、なんて言い訳考えてる僕の横で、祐太がバカ正直に答えてしまった。
「ちょっと、祐太……」
悪びれた様子の無い態度に、かえって僕の方がハラハラしてしまう。
「まったく……須賀はともかく、杉浦、お前がサボるなんて珍しいな。雪でも降らなきゃいいが……」
コーチは、でっぷりと膨らんだお腹を擦りながら、晴れ渡った青空を大袈裟に見上げて見せる。
今はこんな姿をしてるけど、学生時代のコーチはバリバリの競泳スイマーで、大会で何度も記録を残していたらしい。
そんな面影は、微塵も残っていないけどね……。
……しかし。
うちのコーチも含め、どこの学校のコーチも、こうしてぶくぶくと太ったヤツが多いんだろう?
僕もそのうち歳をとったら、こんなデブ親父になるのかな?
髪も薄くなったりしてね……。
うわ、やだな……絶対やだ。
酒もタバコも、それから暴飲暴食もしないようにしよう。
心の中で密かに誓いを立てながら、コーチのお小言をそっと聞き流す。
「あの、コーチ……6時間目始まってるんですけど」
祐太は、自分がサボっていた事など棚に上げ、滔々とお小言を並べるコーチの言葉を遮った。
「分かった、分かった、早く行け」
転んでもタダでは起きない祐太の性格を知ってるコーチは、面倒臭そうに手を振ると、その場に留まっている僕達を追い払う様な仕草をした。
「あー、それから杉浦……練習前に俺のトコ来い」
……2人でサボってるのに、僕だけ呼び出し?
「はい……」
何か納得いかないけど、とりあえず僕は教室へ戻ることにした。
6時間目が終わると、荷物をまとめ、コーチのいる社会科準備室へと向かう。
うちのコーチは社会科の先生で、日本史をメインで教えている。
練習に時間を費やしたいからと、体育学部に進み、そのまま体育教師になってしまう人もいる中で、競泳をやりながら、社会科の教員免許を取得するのはかなり大変な事らしい。
学校の先生の資格を取るには、沢山の授業を受けなきゃいけないし、教育実習にも行かなきゃいけない。
しかも、資格を取れたからからといって、そのまま先生になれるわけじゃない。
なんだかんだ言って結構頑張ってるじゃん……うちのコーチって、なんて思いながら社会科準備室の扉をノックした。
「失礼しまーす」
扉を開けると、中にいる先生達の視線がこちらに注がれる。
十畳ほどの広さがある準備室は、現在3人の先生で共有していて、積み上がった資料が今にも崩れ落ちてしまいそうな机の持ち主が僕のコーチ、大山先生だ。
「おう、杉浦。待ってたぞ」
入り口で立ち止まっていた僕を手招きすると、壁に立て掛けてあったパイプ椅子を広げる。
「まあ座れ」
……座って話すという事は、話が長くなるって事だよな。
うんざりした気持ちで椅子に視線を落とすと、ゆっくりと腰掛けた。
「緑茶とコーヒーしかないんだが、どっちにする?」
「えっとじゃあ、お茶下さい」
山積みの資料とお城の模型、埃の被った地球儀、食玩と食べ散らかしたお菓子の袋……そんな物に目を奪われながら適当に返事をすると、ごちゃごちゃした机の端に緑茶の入った湯呑茶碗が置かれた。
「頂きます……」
……何の話だろ、お茶まで出されちゃったし。
熱いお茶をすすりながら、目の前の椅子に腰を下ろしたコーチをチラリと盗み見る。
「で……杉浦、お前何か悩んでるだろ?」
……祐太に続いてコーチまで。
立て続けに同じ質問をされたせいで、僕は口に含んだお茶を噴出しそうになった。
「ど、どうしてそう思うんですか?」
「うーん、そうだな……。最近のお前、しけた面して泳いでんだよな」
コーチは、丸く茶渋の着いたマグカップからコーヒーをすすり、黙ったままでいる僕の様子を伺っている。
「どんなメニューでも、文句一つ言わず黙々とこなすお前の姿は、他のヤツらの手本になるし、俺の指示に従うところも素直でいい。だけどな……それが俺には理解出来ん。俺がお前くらいの頃は、何でも吸収してやろうっていう貪欲な気持ちと、無理難題を押し付けてくる先輩やコーチへの反抗心でいっぱいだった。俺に限らず、思春期の子供なら、大なり小なりそんな気持ちを持ってるもんだ。なのにお前ときたら……」
困ったものだとでも言いたげな表情をして、食べかけのお煎餅を口に放り込んだ。
「あれだけ練習してるんだ。やる気になればもっと速く泳げるはずなのに、お前はそれを見せようとしない。誰もが出たがる大会のメンバーから外されても、全く悔しがらない。だけど水泳は嫌いじゃないみたいだし……」
さすが、長年水泳に携わってきただけの事はある。
僕が嫌々泳いでるわけじゃないって事も、ヤル気を見せないって事も、全部お見通しなんだ。
「どんなに練習したって速くならないのは、僕にそれだけの実力が無いからです。大会のメンバーから外された事、少しは悔しいと思ったけど、それも今の僕の力なんだと思って諦めました。だけど泳ぐ事は好きだから続けられてるんです」
そう……僕は水泳が嫌いなわけじゃない、むしろ大好きだ。
大好きだからここまでやって来れたし、これからも続けていくつもりだ。
「それと……やる気がないわけじゃないんです。僕は人より目立ちたくないだけなんです……」
僕を縛り付ける人はもういないのに、未だにその影が僕を縛るんだ……。
僕の言葉を聞いたコーチは、ボールペンで自分のおでこをコンコンと叩きながら、何事か考え込んでしまった。
「目立ちたくない……か。どんな理由があって、目立ちたくないのかは聞かないが、お前のその態度、十分目立っていると思わないか?」
……僕が目立っている?
いつも一歩引いて、みんなと直接向かい合わない様にしてきたつもりなんだけど……。
「個性を主張してるって言いながら、結局周りと同じ事してる奴って多いよな?借り物の個性は、所詮借り物でしかないから、学校という枠の中じゃ、周囲と同化して埋もれてしまう。俺たち教師からしたら、そんなヤツほど個性のない生徒に見えてしまう。でもまあ、それが今時の若者ってヤツだ……。だけどお前の場合はちょっと違う。無理に目立たない様にする事が、却って周囲の注意を集めてるように見えるが……。本当に目立ちたくないと思うなら、むしろ周りに合わせて流されればいい」
……そういうものなのか。
それって、今まで僕がやってきた事と正反対じゃないか。
よかれと思ってやってきた事が、全部裏目に出てるなんて……滑稽だ。
「コーチ、お願いがあります」
誰からも束縛されず、自分の意思で行動する、それが自由だと思ってた。
言いたい事言って、やりたい事やれる、そんな生き方に憧れてた。
「僕はもっと自由に泳ぎたいんです。今の泳ぎは、型にはめられた様で窮屈です。しばらく僕の好きなように泳いでも構いませんか?」
どうやら僕は勘違いをしていたらしい。
自由というものは、縛り付けるものがあるからこそ欲するものであって、何のしがらみも無ければ、それを欲しいとは思わないのかもしれない。
もしかしたら僕は、とっくに自由になっていたのかもしれない。
周囲に流されず、自分の信念でここまでやって来れたのだから……。
「分かった」
コーチは僕の願いを聞き入れてくれ、早速今日から試せとアドバイスしてくれた。
「ありがとうございます」
深々と頭を下げて準備室を出ると、駆け足で部室へ向かった……。
『水族館の調教イルカが、大海原に出て行くのか……どんな泳ぎを見せてくれるか、楽しみだな』
ドアから出て行く生徒を見送りながら、心の中で声援を送った。