第11話
僕の通っていたスイミングスクールには、プールの様子を眺める事が出来る観覧席が設けられていた。
熱心な親御さんの中には、ガラス越しのプールに向かって、『もっとキックしろーッ!』とか、『腕の掻きが悪いーッ!』などと、周囲の迷惑など顧みず大きな声で叫んでる人もいる。
そういった行為は、同じ観覧席に腰を下ろす親御さんは元より、練習指導をしているコーチや僕達にとってもかなり迷惑な行為となっていた。
ザワザワ騒がしい観覧席の一角では、とある母親グループが子供達の練習そっちのけで何やら盛り上がっていた。
「杉浦さんの所、最近経営状態が良くないらしいわよ」
「ええッ!本当ですか!?」
「トモ君の練習代も出せない様な状態なんですって」
「そうなのー、だからトモ君練習来ないのね」
「もしかして、この前の全国大会お休みしたのも?」
「交通費無かったからだったりして!」
人の不幸は蜜の味……。
どこからともなく流れ出したのは、地元の名士杉浦家の財政状況に関する噂……。
この不穏な流言の出所はもちろん……祐太のママさんだ。
大会を欠場した僕の事を聞いてきた他のママ達に、
「うーん、杉浦さんのところも色々あるみたいで……。その影響でトモ君も……って、いけない!他の方には言わないで下さいね」
たったこれだけの話が、1日足らずであっという間に広まった。
しかも相当な尾ヒレを着けて……。
『他の方には言わないで』……この一言がつくだけで、人の口は2倍、いや3倍は軽くなる。
特に暇をもてあましている主婦達の間では……。
「ママ、変な噂流しただろ」
スイミングから帰った祐太は、荷物を下ろす間も惜しんでキッチンへ向かう。
スイミングの帰り道、祐太は他のスイミング仲間に、『トモ君はお金がないから練習に来ないの?』と質問された。
「何のことかしら?」
詰め寄る祐太を前にしても、動じる様子を見せないママ。
「だってみんなが……」
「しーらない、ママは余計なことは言ってません」
だって勝手に噂が広まっているだけだもの……いつも天使のように優しいママの笑顔が、その時だけは悪魔に見えた。
そんな笑顔を見せ付けられたら、『この人に逆らってはいけない……』と、本能的に悟ったのは言うまでもない……。
どんなに頑張ったって、おばあ様にとって『水泳』は、所詮『水遊び』でしかないんだ。
いずれ辞めさせられるだろうと思っていた僕は、自主的に練習を休んでいた。
再びおばあ様から呼び出された時は、最後の審判が下るものだと思ってた。
「智弘さん、何故水泳教室を休んでいるのですか?」
冷ややかな表情と、感情のこもらない声に威圧された僕は怯えていた。
「それは……お兄様の勉強の邪魔になるといけないと思ったので……」
おばあ様の視線に射竦められた僕は、消え入りそうな声で答えた。
「将弘さんへの気遣い大変結構です。しかし、あなたが水泳を辞める必要はありません。このまま続けなさい」
「え、あの……」
予想に反した言葉に、僕は戸惑いの色を隠せなかった。
「ただし、大会など人目を惹くような行為は慎みなさい」
それだけ言うと、おばあ様は唇を固く結び、それ以上語ることは無いという目で僕を見た。
「わ、分かりました、ありがとうございます」
畳におでこを擦り付けるほど深くお辞儀をして礼を述べると、おばあ様の気が変わらないうちにと、慌てて部屋を後にした。
「うちの財力を持ってすれば、庭先にプールを作ることだって可能な事です。智弘さんが水泳教室に行かないというだけで、あんな噂が立つなんて……杉浦家も甘く見られたものだわ、今に見てらっしゃい!」
今回の事が切欠となり、おばあ様の経営に対する意欲は更に強くなった……。
翌日から、僕はスイミングの練習に復帰した。
ガラス張りの観覧席を見上げると、祐太のママさんが僕に手を振っているから、それに応えるように僕も大きく手を振り返す。
何がおばあ様の気持ちを動かしたのか……僕にはさっぱり分からなかった。
だけど、僕から水泳を取り上げないでくれたこと……それが何よりも嬉しかった。
「ずっと休んでたから、心配したぞー」
含みのある笑顔を浮かべた祐太が、ママさんに手を振りながら側に寄ってきた。
「うーん……なんかね、お教室は辞めなくていいっておばあ様が……」
頭の上に沢山の疑問符を飛ばしてる僕を見て、祐太の顔に益々笑みが広がる。
「やっぱり、うちのママに任せてよかっただろ?」
「う、うん……」
得意気な顔でそう言うから、僕はつられて頷いた……。