【49章】嫉妬は甘く香る
それは唐突に。
アルカセル王子は、父親が苦手である。
何故なら、母親である正妃をあまり大事にはしていないからだ。
「ごきげんよう、王子殿下」
にっこり微笑む女性は、側妃の一人。名前は知らない。
当たり前のように王である父の腕に細く白い腕を絡ませているのが、アルカセルには不愉快だった。
それでも優しい笑顔を浮かべて、穏便にやり過ごす。
「ごきげんよう、マダム」
「しばらく異国の地へ滞在なさっていたとか? どのような暮らしでしたの?」
「ええ、レダの王宮でおよそふた月程ですが……中々有意義な時間でしたよ」
「まあ……かの国は今、あまり安定していないとお聞きしておりますわ。よくご無事で……!」
どこまで演技か知らないが、心配そうな顔をされても、アルカセルには響かない。
「ご心配ありがとうございます。ですが、思う程危険でもありませんでした。若き王に優秀な部下、それに……いえ、これは私事でした。失礼」
「あら、何があったの? 是非、お聞きしたいのだけれど」
いいから早く立ち去って欲しい、と思っていると、父親が口を開いた。
「そのような話は後でゆっくりするが良い。行くぞ」
「分かりましたわ。では、これにて」
「ええ。それでは僕も、失礼致します」
――そう、さすがに言うわけにはいかない。彼らの事は。
父はどのみち知っているだろうが、側妃になど、自分からは絶対に教えたくなかった。
アルカセルは、懐に入っていた封筒を引き抜きながら歩き出す。
中身は自分の書いた伝言ではなく、別の物が入っていた。
『最短時間で王に会わせろ』
そんな走り書きが、黒く薄い、しかも紙ではなく石で出来た小さなそれに書かれている。
ご丁寧に、彼の王のサイン入りで。
要求は呑むからとっとと先へ行かせてくれ、ということか。
そもそもここに来たのも、王としての仕事であり、短期留学のようなものらしい。
かといって急いだところで躓くだけなのだが、時間が無いせいか、焦っているのだろう。
「さて、そろそろ到着するはずだけど……?」
向かっていたのは王城の正門前である。
寄越した馬車は時間をきっかり守る為、何かトラブルが無い限りは遅刻しない。
とはいえ、先刻の父を見る限り、到着したとしてもまともに歓迎する気など無さそうだ。
(ライラ姫を連れて来た時も、最低限の挨拶だけ。……念のためとはいえ、僕の部屋のすぐ隣にして正解だろうな)
レダの王女である婚約者は、正妃であるアルカセルの母親と馬が合ったらしく、ちょくちょく二人で話しているらしい。
何を話しているのかはともかく、自分の母と形だけでも仲良くしてくれるのはありがたかった。
そして、アルカセルが正面玄関を出ると。
「――だーかーらー、荷物くらい自分で持つってば!」
「…………その状態では、あいつに会う前に転ぶだろうが」
「転ばないように細心の注意払ってるよ!」
――賑やかな口論が、さっそく飛び込んできた。
「……あのう、王子殿下。先ほど到着した方々なのですが……揉めているようでして」
門番がずっと見ていたのか、困惑気味にアルカセルに声をかける。
これは自分が何とかするしかないらしい、と苦笑して、アルカセルは彼らの元へ歩き出した。
「人の家の前で痴話喧嘩を見せるのが、レダの風習だっけ?」
「あっ、王子!! お久しぶりです!」
嫌味混じりの言葉に、深い青のドレスをまとった女性が振り向く。
「……喧嘩はしていない」
げんなりしているのは、レダの王だ。
どちらもこの国で言う正装を身にまとっているが、向こうでの姿を見慣れたせいか、若干の違和感は拭えない。
(特にリルだね。どうも、想像したより重いイメージを与えちゃったか)
この色を選んだ理由もあるが、もう少し彼女には明るい色の方が良かっただろう。
「わざわざご足労願ったところ悪いんだけど、今日すぐには父上に会えない」
とりあえず先に言うべき事を告げると、里琉もイシュトも目を丸くした。
「え、どうしてですか?」
「……とりあえず最大の理由は何だ?」
「父上がそのつもりになってない」
答えを怪訝そうな二人に返す。
正妃そっちのけで側妃を連れて歩き回ってる以上、他国の王に会わせるわけにはいかない。
が、正直に言うわけにもいかないので、そう誤魔化した。
「挨拶は形だけでもしてもらうけど、話がつくまでは滞在してもらう事になるよ。……とはいえ、何とか近日中に叶うよう、交渉してみるから」
「そうしてくれ」
「え、滞在? ……お城に、ですか」
「不安になる事はないよ。よほどの事が無ければ、禁止するようなものなんてないからね」
そもそも、城の主が乱れた生活を堂々と行っているのだ。禁止も何も決めてもらいたくない、とアルカセルのみならず思っている。
だが、それでいて国の仕事は出来るのだから、本当に納得いかないものだ。
「というわけで、ようこそテアへ。歓迎するよ、レダからのお客人」
アルカセルはそう言って彼らを迎え入れた。
彼らにはきっと、刺激的な日々になるだろう。
「というわけで早速だけど、イシュト。リルの荷物持ってね。リル、君は歩くことに専念。ドレス慣れしてもらわないと困るよ。あと、ドレスは日替わりで用意するから」
「はっ!?」
「……だから言っただろうが」
ひょいと荷物を奪うイシュトを見る限りでは、一応大丈夫そうだ。
問題は彼女の方かもしれない。
「あ、あの、出来れば王様に謁見するまで、レダの格好の方が……」
「……あのね、リル。ここはテアの王族が住まう城だよ? 普段からドレスを着てもらうのは、うっかりばったり父上に会った時に、出来る限りの粗相が無いようにして欲しいからなんだけどな?」
ここまで言わないと、彼女は納得してくれなかったりするのだから、厄介である。
「…………そ、そうですか……分かりました……」
渋々、と承知する彼女にドレスを与えるのはいいが、本当ならイシュトがこういう時こそ何かしらフォローするべきなのだ。
(まあ、さすがにまだ無理かな。……今は、だけど)
「というわけで、荷物はイシュトに任せて、リルは僕がエスコートしてあげるね。その分だと、もしかしなくてもイシュトはエスコートしてくれなかったんじゃない?」
「……ひ、必要ありませんから」
びく、と一瞬だけ怯えたような反応を見せる彼女は、すぐにアルカセルの言葉を否定する。
――傷ついているのなら、言わなければ伝わらないのに。
「レダじゃエスコートなんて風習も無いしね。というわけで、今日は僕がお手本になるよ」
「…………ちなみに、お断りは?」
「すると、僕の評価が周囲から引き下げられる」
悪意が無い限りそんな事はしないだろう、という意味を込めて微笑んで見せると、里琉はやはりどこか不満そうに、差し出したアルカセルの手を取った。
途端にイシュトから、嫉妬に近い視線が投げられるのが分かる。
「……僕もライラ姫以外は出来ればエスコートしたくないから、なるべく大人しくしていてね。そうそう、書庫は開放してあるし、君が好きな鉱石の本も揃っているよ」
「…………お気遣い、痛み入ります」
悔しそうな里琉の礼には、くすりと笑ってみせた。
「退屈はさせない。ここでの生活が楽しめるなら、ね」
「…………宿でのような嫌がらせは除外しろ」
「あれ、結局どっちが使ったの? 一緒に寝た? 何度か一緒だったことがあるからいいかなって思ったんだけど」
苦い声のイシュトに、からかうように質問を飛ばすと、里琉がそれにぴしゃっと返してくる。
「事情により一緒に寝る事になりましたが、無駄に広いベッドのお陰で全く問題ありませんでした」
「…………ふうん?」
予想外、と言えばそうかもしれない。
「君が肯定するとはね、リル」
「嘘をつく程のやましい事はしていませんから」
――そして正直だ。気の毒な程に。
彼女はこの王城と相性が悪いだろう。何故なら。
「出来れば、ちょっとくらいはやましい関係になって欲しかったなぁ。……この城で暮らすのに、清廉さは必要ないから」
「……お前がこちらで滞在していた時に、必要以上にうるさかったのはそれか」
「ライラ姫の状態が洗脳時のままだと、結構まずかったんだ。君達が先か、僕たちが先か。それだけだったんだよ」
――綺麗な彼らの関係は、付け入れられる隙そのものなのだから。
タダほど高いものはない、と里琉は窓の外を眺めつつぼやく。
この王城に滞在して三日。未だに王は謁見してくれない。
否、そこはまあ仕方ない。実際忙しいはずだから。だが、それ以上に気になっている事がある。
最初の挨拶の後、何度か姿を見かけたが――その度に、連れている女たちが違うのだ。
どうやら、正妃の他に側妃を何人も囲っていて、日替わりで連れ歩いていると言う。
そして正妃はそんな王を見たくないのか、ライラの所に入り浸りだそうだ。
正妃はたおやかな女性で、王子ともどこか似ているが、蔑ろにされているのが辛いのかもしれない。
(そういえば、何で王子以外の女性は子供居ないんだろう。居てもおかしくないんだけど)
事情は知らないが、王子に同情してしまう程の酷さであることは実感した。
同時に、王子がライラだけを見ているのは、父親を反面教師にしているからだろう。
する事が特にない里琉は、結局、書庫を頻繁に覗いている。
この国は貿易を要としているだけあって、すごい数の蔵書だ。
鉱石関係の本を数冊借りて、あてがわれた部屋でそれを読むのが午後の時間の潰し方になりつつある。
だが、懸念はいくら払っても足りない。
「……あ、まただ」
この部屋の窓からは、迷路のような庭園を一望できる。
正直、見てはいけない類のものもたまに見てしまうが、それよりも。
「……イシュト、侍女の人に声かけられてる」
呟く声が、どこか嫉妬めいているのが自分で分かった。
暇な上に読書にも興味を示さない彼は、午後は大体庭園で散歩している。
里琉もついて行けばいいのだろうが、彼の方が強いし、一人になりたくて散歩しているのかもしれないと思うと、強くは言えず、見送るばかりだ。
なのに、王城の人間が堂々と声を掛けているのだから、本末転倒な気もする。
「…………やっぱり、これはあれかな。ここの王様が平然と女の人をとっかえひっかえしているせいで、倫理観がおかしくなってるのかな」
「当たり。他国の王族の妾なんて、この王城では優良物件だよ。狙わないはずがない」
「王子」
独り言を聞かれて、しかもそれに返されるとは思わなかった。
普通に入って来た王子は、窓の外を一緒に眺める。
「君がイシュトを一人にするから、とっくに彼女たちは君とイシュトの仲なんてその程度だと信じてる。……いいの?」
「……付き合ってませんので、私に口を挟む権利はありません」
からかわれてたまるか、とばかりにぴしゃっと言い返すと、アルカセルは驚いた顔を向けた。
「……何で? だって君、イシュトの事を好きだよね?」
「関係ないですから」
「嫉妬しないの?」
「ここに来てから、何度も見かけています。その度に陛下が断っているのも分かりますし、仮に側妃を立てるにしても、今の陛下ならば軽率な判断はなさらないかと」
焼きもちを焼かないと言えば、嘘になる。
だが、表に出してはいけないと、自分を叱咤して里琉は抑え込むのだ。
それにはアルカセルが苦言を呈した。
「どうだろうね。イシュトはつい最近まで、洗脳されていたんだよ? それも、自分を否定する方向の。それなのに他国に来た途端、女性が何人も声を掛けてきてちやほやしてたら……イシュトだって、揺らぐんじゃないかな?」
「……だとしても、それを私が止める権利など、ないので」
アルカセルの懸念は、確かに否定出来ない。
誰だって、自分を肯定してくれる相手が出来たら、嬉しいだろう。
だから、里琉は尋ねない。庭園でどんな話を侍女としたのか。何を言われているのかを。
王子がそんな里琉を見て、不思議そうに首を傾げた。
「止めていいんじゃないの? 君、護衛だよね?」
「……え?」
「悪い虫がつかないようにするのも、護衛の仕事だ。イシュトの心がまだ不安定なのは仕方ない。だからこそ、君が傍について、あくまでも彼は用事の為にこの王城に来ていると示さないといけないんじゃないかな?」
「…………それは」
仕事。そう言われてみれば、彼の傍を離れる事は、護衛という任務に反するのではなかろうか。
この王城ではドレス姿で過ごすから、移動もゆっくりになるし、いざという時に剣を抜く事が難しい。
そんな自分が近くに居たら、かえって足手まといになると思ってもいた。
だが。
「悠長にしていると、大事な花が虫に食われてしまうよ?」
くすくす笑うアルカセルが、庭園を指さす。
そこには、転びかけたのか侍女がイシュトにしがみついていて。
――一瞬、かっと頭が熱くなった。
体が勝手に、扉に向かって歩き出すのを、王子の声が軽く制止する。
「…………ん、どこ行くの? 一人で歩き回るのは君だって危ないよ」
「先ほど、王子が仰ったではありませんか。……職務を放棄するつもりか、と」
「ああ、それなら案内してあげる。近道があるよ」
――今の彼なら、抑止力になるかもしれない。
そう思った里琉は、大人しくアルカセルに案内してもらう事にした。
――毎日、どこに居ても、誰か女が声を掛けて来る。
イシュトは正直、うっとうしかった。
(どいつもこいつも、この国の王の影響を受け過ぎだろう)
見かける王は女を侍らせて歩き回っている姿ばかり。
仕事はしているらしいが、正妃はそんな王の傍に居るのが辛いのか、ライラの所で寂しさを慰め合っているという。
そこまではいい。だが、欲しいとも言っていない情報を土産に近付く侍女たちは、見返りに一晩の遊戯を求めているらしく、イシュトも断りながら、さすがにどうしたものかと考えあぐねていた。
(だからと言って、あいつを常に引っ張り回すわけにもいかないしな)
慣れないドレスを着ている彼女は、普段以上に大人しく、本ばかり読んでいる。
そんな彼女を散歩に連れ出しても、いつ転ぶか気が気でない。
だったら、大人しく部屋に居てもらった方がまだ良かった。
外にほとんど出ない分、他の男から声を掛けられる事も少ないだろう、という思惑もあったのだが。
「――聞いております? ねぇ……っきゃぁ!」
つん、と目の前でいきなりこちらに向かって転んできた侍女を、思わずイシュトは支えてしまう。
途端に、相手の侍女は目を潤ませた。
「ありがとうございます……」
ついでとばかりにしがみついてくる彼女を、慌てて引き離す。
「……離れてくれ」
「まぁ、申し訳ありませんわ。……ふふ、噂通りのお方ですのね」
「噂?」
「ええ。どんな女性を相手にしても、全くなびいて下さらない、鉄壁の貴公子様。その正体は、他国の王様だとお聞きしておりますわ」
「だったら、近づけばどうなるか、分かっているだろう」
リスクが高すぎる相手に、よく堂々と色仕掛けをしてくるものだ。
場合によっては、国に喧嘩を売る事になるだろうに。
だが、侍女は艶めいた顔を隠しもせず、くすくすと笑う。
「私達は、火遊びでも一向に構いませんのよ。他国の王様との一夜の関係。それさえも、ステイタスとして扱われるのですから」
「!!」
何だこいつは、とイシュトがわずかに怒りをおぼえる。
「退屈も不満も、私達侍女は受け止めて差し上げられますわ。どうか――気を楽になさって?」
伸ばされた手が、頬に触れる直前。
「その方から離れなさい。無礼者」
珍しい口調で、彼女がそこに居た。
しかも手には剣があり、剣先は彼女の首筋に向けられている。
「ま、まあ……!」
驚いた侍女は手を遠ざけ、剣から離れるが。
「その方は、我が国の大切な宝です。くだらない戯れに付き合わせようなどと、不埒な事を考えるような輩には――」
剣先はまたすぐ、侍女の喉元を捉えて、それだけで彼女を縫い止めた。
護衛たる女騎士の役目を果たす自分の部下は、氷より冷たい目で侍女を見据えている。
そして同じくらい冷たい声で、釘を刺した。
「相応の代償を、頂く事になりますよ?」
ひ、と引きつった声を出す侍女は、青ざめて震え出した。
「もも、申し訳、ございませんっ……二度と、このような事は致しません故、どうか……」
「こらこら、リル。あまりうちの侍女を怯えさせないように」
アルカセルがそこに割って入り、里琉の持つ剣を侍女から器用に外した。
「君、もう行って。……それから、他の侍女に周知徹底させてね。今の」
だが彼女よりも数倍冷たく鋭い声と笑みを侍女に向け、言い放つ。
「優秀な君達なら、これ以上、僕に恥をかかせないでくれるよね?」
こくこくと頷き、侍女はその場から走り去った。
ややして、そのままアルカセルはイシュトへ視線を向ける。
「君もだ、イシュト。中途半端な拒絶は意味が無い。ここでもめ事を起こすと、信用にかかわるよ」
「……分かった」
元より、辟易していたところだ。
今後は里琉と行動した方が、互いの為だろう。
「はい、剣返してね。……やれやれ、本気で殺すかと思ってひやひやしたよ」
「殺しませんよ。外交問題に関わりますから」
アルカセルに剣を返した里琉は、未だに不機嫌そうである。
「……すまない」
手を伸ばした途端、彼女はそれを跳ねのけた。
「!?」
わずかな鋭い痛みと、じんわり痺れる指先が、動けない。
「ああ、失礼しました。――先ほどの侍女の方、香水がきつくて」
どうやら移り香が気に入らなかったらしい。が、それ以上に怒っているような気がした。
「っく……ははっ、あははははっ」
アルカセルがいきなり笑い出す。未だに彼の笑いどころが掴めない。
「着替えを用意してあげようか? イシュト」
「…………頼む」
早く終わらせてしまいたい、とイシュトはげんなりしながら、アルカセルのありがたい申し出を受ける。
その間に、里琉はどこから出したのか扇を広げて、口元を覆っていた。
「……何の真似だ?」
疑問符だらけのイシュトに里琉は答えず、アルカセルがその代わりに口を開く。
「香水の匂いが取れるまで、口を開きたくないってさ」
扇には別の香水か何かの匂いが付けられているらしい。ふわっと甘い香りがした。
そして里琉は一足先に歩き始めている。
「あれ、リル。一人で行動しちゃ駄目だって言ったはずだよ?」
「部屋に戻ります。それに、誰かさんと違って、虫も寄り付きませんから」
「……今の君なら、いいか。ちゃんと部屋に居てね」
「もちろんです」
振り向きもせず、彼女は行ってしまう。
あの不機嫌さでは、誰も声など掛けられまい。
歩き出したイシュトに、アルカセルがふと呟く。
「リルも女性だ。他の女の匂いを付けた男になんて、触られたくなかったんだろう」
「…………俺も早く落としたい」
里琉以外の女の移り香など、いつまでも残しておきたくは無かった。
「ついでに軽く湯も浴びる? 水がいいかな」
「……湯の方が落ちる気がする。気分的には水だが」
「じゃあ、どっちも用意しよう」
湯で落としたら、水を頭からかぶった方がいいかもしれない。
少なくとも、冷静になる時間と手段は必要だろう。
里琉が嫉妬して嬉しいと思ったなどと言えば、更に怒らせてしまうのは分かり切っていた。
だが。
「……イシュト。リルに理由を与えてあげた方がいい」
不意に、アルカセルが真面目な声で告げた。
どういう意味か、と思っていると、彼は続ける。
「君が声を掛けられても、止める権利なんて無いと彼女は思っていた。護衛という口実さえも、彼女には思いつかないみたいだ。……君を想うあまりに、君に近付けなくなっている」
「…………何故だ?」
近づいてくれて構わない。もっと触れたいのは、イシュトだって同じだ。
だが、アルカセルはそんなイシュトの思惑を知らず、責めるようなまなざしを向けて。
「気付かれたら困るからだよ。君の事が好きだって」
――とっくに通り抜けたはずの問題を、投げつけてきた。
「……いや、知ってるが?」
「ん? いつの間に?」
「ごく最近だ。……やっと、分かるようになった」
「ああ、洗脳が一部解けたからか。なるほど、今のリルは、とっくにバレてる隠し事を必死に抱えてる状態ってわけだね。じゃあ、いっそ暴き立てる?」
「お前……揉め事を増やしたいのか?」
今の彼女から気持ちを聞き出しても、いい結果になるとは思えない。
元より、イシュト自身が信じ切れていないのが現状だ。
「好きなのは分かった。だが、俺の何がいいのか、さっぱり分からん」
「うん、僕も同意するよ。君、いいところが少なすぎてフォロー出来ない」
肝心の部分に関してはアルカセルもお手上げらしい。
「だからこそ、彼女を離しちゃいけないと思うな。……理由なんて何でもいいよ。ただ、傍に居る事を当たり前にするんだ。そうでないと、彼女はいつか本当に居なくなる」
「……護衛以外の理由があるのか?」
「むしろ、何でそれを理由にしないの? 宰相さんだってそこ目的で二人だけにしてるんだと思ってたよ」
建前と本音を見分けろ、と言われ、イシュトはさすがに言葉に詰まる。
「口説き落とせ、とは言われていたが……」
「それなら、彼女に手を跳ねのけられるような行動は、しないようにね? 綺麗さっぱりあの侍女の匂いを落とした後、謝っておいで」
「分かってる……」
「あと、いい加減そのうじうじした部分は何とかしてね。たまに鬱陶しいから」
そのまま浴室に蹴り込まれたイシュトは、何とか香水の匂いを落として、新しい服に着替え、里琉の居る部屋に向かう。
扉を軽くノックしても、返事は無く。
「……リル?」
まだ機嫌が直っていないのだろうか、と思いながら扉を開けると、彼女は窓際にもたれて、椅子に座りながら眠っていた。
膝の上には本が開いたまま置いてある。
そっと近づいても、彼女は起きなかった。
「…………」
勝手に触れたら、また怒るだろうか。
そう思っても、手は勝手に彼女を求めて動く。
頬に、髪に、首筋に――唇に。
「……っ」
駄目だ、と自分を抑え込む。こんな事は卑怯だと。
第一、寝込みを襲うような真似をしたところで、彼女は許してくれないだろう。
「…………何で、お前は気付かないんだ……」
気付いてくれればいいのに、とイシュトは呟く。
抱きしめるのも、口付けも、その先さえも。
彼女が気付いてくれれば、連れて行ってしまうのに。
「……ん……」
その時、かすかに彼女の唇から声が零れ落ちて、はっとしたイシュトは彼女から少しだけ離れる。
ややしてゆっくりと目を開けた彼女は――怪訝そうに首を傾げた。
「イシュト? 何してるの?」
「……何でもない」
手のひらで顔を覆って、イシュトは短く返す。
「ふあ……風が気持ちよくて、寝てた……今、何時くらい……?」
「そろそろ夕刻に差し掛かるんじゃないか?」
「……うーん、じゃあ今日も収穫無し、だね」
軽く伸びをする里琉は、さっきまでの怒りが嘘のようだ。
「私、書庫に行ってこれ返してくる」
膝の上の本を閉じて言う彼女に、イシュトは咄嗟に「俺も行く」と言うが。
「何で?」
疑問を返された。
「…………まだ、怒ってるのか……?」
もしかして、と思って問いかけると、一度目を瞬かせた彼女は、笑顔になり。
「反省するまで、半径一メートル以内に近付かないでね」
氷のような一言を残し、部屋から出て行ってしまった。
――必死に謝って許してもらえたのは、三時間後。
だけどまとわりついて。




