【39章】戯れが残す痛み
それは、想像以上のもので。
――まるで、長い夢の中に居たような感覚だった。
甘い霧の中を誰かに延々と歩かされるような、自分の意思ではどうにもならない感覚。
それが、昨晩を境にすっぱりと消えたのを、目覚めたライラは実感していた。
「……ううん、もう朝かのう?」
窓が無いから分からぬ、とぼやくと、昼でもなお暗い部屋の中で、かちりとランタンが灯った。
「おはよう、ライラ姫」
婚約者のアルカセル王子が、そこに居て。
彼は他国の王族なので、本来ならここに居るはずがない、とまで考え、記憶を手繰り寄せようとして頭の奥がひどく痛む事に気付いた。
「……何じゃ、頭が痛むのう」
「洗脳の後遺症かな? 気分はどう?」
「…………洗脳?」
「覚えていない? アリスィアの洗脳を受けた君は、兄であるイシュトを殺そうとしたんだけど」
遠慮なく事実らしき中身を述べる彼に、ライラはしばらくして――唐突に記憶の糸が、網目のように繋がった事に気付いてまた頭を押さえた。
「く……そうか、妾は……ずっと操られておったのか」
「うん。となると、洗脳は解けたかな」
洗脳されていた時の自分は、どうなっていたのだろう。
少なくともまともな思考は与えられていないはずだ。そうでなければ、記憶がところどころ抜け落ちたりなどしていない。
「そうじゃの。頭痛以外は何も問題ないが……そなた、寝ておらぬのか」
彼を見ると、何となく、美麗な顔に隈が見える。
顔は彼の自慢だったはずなのだが、よほど心配だったのだろうか。
「まあ、一晩くらいならね。それより、起きたなら女官長さんを呼ぼう。近くに控えているらしいから」
「……分かった。頭痛止めと、そなたには酒入りの茶じゃな」
「あれ、僕を眠らせるの? せっかく元に戻った君と、話が出来るのに」
「茶を飲んでもまだ起きられるようなら、子守歌代わりにでもせい」
置いてある鈴を見つけて鳴らすと、扉が開いてメーディアが入ってくる。
「お呼びでしょうか」
「久しいのう、メーディア。早速で済まぬが、頭痛に効く薬と酒入りの茶を用意せよ。妾は少々、頭が痛いのじゃ」
「……酒入りのお茶は、どなたが?」
「ああ、僕だよ。ライラ姫が寝ろって言うから、その為にね」
「かしこまりました。……姫様、よく、お戻りになられましたね」
「うむ。以後、よろしく頼むぞ」
一度出る前、メーディアの眦に涙が浮かんだのが、ランタンの灯りに光って見えた。
ある程度の記憶は残っているが、それはどこか乖離しており、ライラは客観的に記憶を辿りながらアルカセルに言う。
「そなた、よく妾にあれだけ言われて懲りぬな」
散々な暴言の数々は、普通の男ならまず諦めて遠ざかるだろうと思えるような中身だった。
自分が口にしていたのが恐ろしいとさえ、ライラには思える。
だが、アルカセルはしらっとそれに返してきた。
「おかしいなとは思ってたからね。リルが居なかったら、もっと時間をかける予定だったよ」
「リルか。あの者はほんに、よう信じてくれたものじゃ。後で礼をせねばのう」
霧の中で彼女だけが、はっきりとその存在を示していたのも覚えている。
「そのリルだけど、今のライラ姫から見て、どう思う?」
「……ちと、危機感が足りぬな。これまでも陥れられる機会は多かったようじゃ。兄上が無駄に堪えてくれたおかげで、まだ無事というだけでのう」
「手が出せないのを情けないとは言わない? イシュトの事」
「……ふん。あの兄上が、リルへの情だけで手を出さぬと思うてか?」
頭が痛いままのライラは、寝台のクッションに体を沈めたまま、気だるげに笑う。
恐らく里琉は、まだ気付いていないはずだ。
兄が、本当の意味で優しいわけではないということに。
「兄上もまた、理解しておるのじゃ。リルが兄上の裏側を知らぬままであるとな。そして、それを見せとうないとも思うておる。……先に進めるはずがなかろう? 寝台の上でさらけ出されるのは、互いの体のみではないのじゃからの」
仮にそれでも手を出すなら、兄が里琉に求める価値などその程度、ということだ。
もっとも、今更押し倒したところで、今の里琉ならば遠慮なく突き飛ばしてくれるに違いない。
「うん、元のライラ姫だ」
嬉しそうにアルカセルが頷くと、扉がちりんと鳴らされて開いた。
「お待たせ致しましたわ。それと……」
「俺だ」
茶の用意をしたメーディアと共に、当の兄であるイシュトがやってきた。
「む? リルはどうした?」
「寝ていたから置いてきた。……後で来るだろう」
「てことは、何も無しかぁ」
この場に居ない功労者は、まだ夢の中らしい。
アルカセルの言葉に、イシュトは苦々しく返した。
「あってたまるか。……むしろ、半分以上嫌われた」
「当然じゃの。見栄ばかり張るからじゃ」
薬湯を引き寄せてゆっくりと飲み下しつつ、ライラはしらっと言い切る。
半年以上会っていなかった兄とはいえ、里琉から聞いていた話を総合するなら、とにかくいい所だけ見せようとしていた、と考えるのが筋だろう。
そうでなければ、いくら何でも二十歳の女性がころっと騙されるわけもない。
「脳筋の兄上にしては、頑張った方ではあるがの。せいぜい、名誉回復に励むが良い。して、妾への沙汰はいかほどじゃ?」
口直しのお茶を飲みながら、にっこりと母親仕込みの艶やかな微笑みを浮かべてやると、兄はげんなりと嘆息して呟く。
「……元のお前は数倍質が悪い……」
「そうやって愚痴ってると、余計にリルから嫌われるよ。まあ僕も、多少のお咎めは考えてたし、内容次第ではライラ姫とリルを連れてテアに逃げ帰るけどね」
「そいつはともかくあいつはやらん」
「ほう。まだ諦めぬか」
予想外にも、兄の方は諦めていないらしい。
それはそれで結構だが、今の里琉では告白しても無駄だろう。
ここで話す内容を聞く限り、兄の本質に対して、若干ながらも冷静に見るだけの目はあるようだ。
「沙汰はお前が王族としての務めを果たす事のみにする。……でないと、あいつが怒るからな。あとはアリスィアを排除すればいいだけだ」
「…………脳筋と言われる所以じゃの。何を寝ぼけておるのじゃ? アリスィアは捕まってはおらぬ。その上、アリスィアは叔母上の忠実なる部下じゃ。……このまま、事が上手く運ぶわけがなかろうて」
考えが足りない、と言外にこき下ろすと、更に苦々しい顔になる兄は、口をつぐむ。
「ほんに困った王じゃのう。父上よりも思慮が足りぬのでは、宰相も不安じゃろうな」
「だからリルを引き込もうとしているんだろうね。彼女はいずれ居なくなる。そうなる前に、帰れなくなるように仕向けたいようだから」
ライラには里琉の事情は分からない。だが、これまでの彼女を考えるなら、何かしら特別なものを持った存在であろうということは、うかがい知れた。
「無駄じゃ。……宰相もまた、見えておらぬ。リルの抱える闇を」
洗脳が解けた今、ライラには彼女が抱える寂しさ、辛さなどもはっきり見えるようになっている。
里琉自身がそれを誤魔化したくて、兄を好いていたような部分もあっただろう。
だが、それも終わりのようだ。
「この王宮、この世界の誰もが、リルの闇を払う力を持っておらぬ。リルの底抜けなお人好しは、その闇を隠す為の擬態じゃ。拠るべき存在の居らぬ世界で、孤独を何よりも恐れるは当然であろう?」
本来ならとっくに見切りをつけていてもおかしくないくらい、この国は終わりに傾いていたのに。
それを、彼女はただ必死に支えて、失わないように耐えて、それで自分が傷ついて、その傷も覆い隠して。
きっとそうしないと、自分の存在意義を見失いそうだったのだろう。
「…………ああ」
「本当なら、イシュトがその拠りどころになるべきだったんだけどね。王様歴一年未満じゃ、ちょっと無理があったかな」
「……妾が不甲斐ない部分もあったのう。しかし、妙じゃ。妾がアリスィア如きの言葉で、そう簡単に洗脳されるはずはなかったのじゃが」
「ん?」
確か大元は、五年ほど前だったはず。
兄の不祥事があったのと前後し、アリスィアが近付いて来たのが始まりだ。
問題は、両親や兄が警戒していたその女官に、ライラがあっさりと心を許してしまったその理由だが。
「……むむ、頭がまだ痛むのう。……どうも、思い出せぬ。五年前が果たして、本当に原因じゃったのか?」
「何を言っている? お前がアルカセルの口づけを受け、それを拒否したからだろう」
「拒否自体がおかしいと言うておる。妾は女王になるべく最初は育てられておったのじゃぞ? 兄上が急に叔母上に婚約を破棄されてしもうたせいで、妾はアルカセルの婚約者となったのじゃ。その妾が、口付け如きで取り乱し、あまつさえ他国の王族を冷遇するなど、本来ならあってはならぬ」
「うんうん、それでこそライラ姫だ。その理路整然とした物言い、やっぱりいいなあ」
茶に仕込んだ酒のせいでふんわりした声になるアルカセルに、ライラはそっけなく言い返す。
「酔っぱらいは寝ておれ。……恐らく、兄上の婚約破棄は当然の結果であったろうが、そうなるとアリスィアよりも先に叔母上を疑うべきじゃったかのう」
「何だと?」
アリスィアではなく、その裏で糸を引く叔母、つまりリカラズの王妃が、最初にライラに仕組んだ何かがあったと考えるべきだろうか。
「ううむ……そこが分かればのう。何しろあの叔母上は、妾の体をそういう目で見ていたような変態じゃ。何をしてもおかしくはないでの」
「だが、お前はまだ幼かっただろう。覚えていないのであれば、無理に思い出すな」
「……妾が良しとせぬのじゃ」
兄は考えを諦めるのが早いが、ライラはとことん追求型だ。
納得できるまで考え尽くすのが本来の性分である。
しかし、先刻まで眠っていたはずなのに、再び睡魔が訪れてライラはクッションに沈み込みながら告げた。
「ふむ……薬が効いて来たようじゃ。妾は一度休む」
「……分かった。また後程、話を聞く。それとライリアーナ、…………すまなかった」
最後に付け加えられた謝罪にライラは目を瞬かせ――くすっと笑う。
「ほんに、リルは良き女子じゃのう」
一連の事で兄が謝るとは思っていなかっただけに、彼女の言葉は相当に効いたのだと分かる。
ふわあ、とあくびをして、アルカセルが言った。
「僕も眠くなってきたよ。……じゃあ、ライラ姫。一緒に寝ようか」
「寝台が狭い。却下じゃ」
「…………しょうがない、近くの部屋を借りるね。鍵は悪いけど、閉めておくよ」
「うむ。そうじゃ、リルが来たら食事にするでの。そなたらも同席せい。……リル次第では兄上抜きになるがの」
命の恩人である里琉は、今や丁重に扱わねばならない特別な存在だ。
クッションに身を預けながら眠りに落ちるライラの耳に、わずかな鍵の音がしたのであった。
結局、里琉が起きたのは昼前で、今日は仕事も休み、という宰相の伝言もあり、急いで着替えてライラの部屋へと向かった。
鍵は開いていたので、すぐに扉の向こうへ飛び込む。
「ライラ!」
あれからどうなったのか。洗脳は解けたのか、イシュトはちゃんとライラに謝ったのか。
それらを含めて、全部知りたくて。
だが。
「……騒々しいのう」
里琉の急いだ心とは真逆で、ゆったりと気だるげに、部屋の主が声だけで出迎えた。
窓の無い部屋は昼間でも暗い。
だから、ランタンが要所に置いてあって、部屋を照らしているのだが。
「妙齢の女子が、あまり忙しなくするものではないぞ?」
奥の寝台、クッションがこれでもかと敷かれたそこに、王女は寝そべっている。
だがその雰囲気は昨晩までと全く違い、そしてよく見れば格好も全然違っていた。
「ら、ライラ……だよね?」
思わず確認するほどに、今の彼女は化粧ばっちりで、アクセサリーも服も芸術品のようなこなし方で身に着けていた。
今の彼女なら王族であり、年頃の少女でもあると分かる。
というか、それまでの彼女の精神が、洗脳によって幼くされ過ぎていた、と言うべきか。
「何じゃ、化粧もしておらぬとはのう。そなたの肌は綺麗じゃが、素顔を見せるのは、好いた男の前でだけにするが良い」
こいこい、と手招きする王女は、自分が化粧してやろうというつもりなのか、既に起き上がって下地の瓶を手にしていた。
「え、あの、えっと??」
「早うせぬか」
「……はい」
有無を言わさぬ迫力で呼ばれたので、仕方なく傍に寄って寝台の端に座ると、頬に触れた王女は気付いたように目元を軽くなぞって。
「む、そなた泣いたのか。兄上に酷うされたのならば、妾に遠慮なく言うが良い」
「なな、何もないよ!?」
「知っておる。そなたに嫌われた、と少々落ち込んでおったからのう」
下地の瓶を一度置き、化粧水に持ち替えつつ静かに教えてくれるライラの言葉に、里琉は驚いた。
別に嫌ったわけではないのだが、そう取られてしまったのだろうか。
「……して、そなたは兄上が嫌いになったか?」
「えっと、その前に、ライラがまずどうしたの? 一晩ですごい大人びてるけど……」
「思考を止めた妾の方が、そなたの好みじゃったかのう?」
化粧水で軽く肌を冷まし潤し、そして下地を丁寧に塗られていく。
「ううん、こっちのライラの方が安心する」
目の前の混乱をまず片付けよう、とライラに化粧を施されながら告げると、ライラは伏せがちな瞳だけで笑みを浮かべた。
「兄上の事は安心出来ぬと気づいたようじゃな。良い、恋から目覚めた女子ほど、冷静なものもないぞ」
「……えっと、イシュトって本来、そんなに頭良くない……?」
出来れば認めたくなかったが、そう思わざるを得なくなってしまったのだ。
里琉も頭がいいわけではないので、非難するつもりはない。
ただ、立場が絶対的に違い過ぎるので、見過ごせないだけである。
「戦いにおける兄上は知略も使えるのじゃが、政となるとそうもいかぬ。今後は存分に兄上の粗探しをするが良い」
言葉と同じくらい存分にファンデーションをきっちり塗りこめられているが、念入り過ぎではなかろうか。
「あ、あの、ライラ。落とすの大変だからあんまり濃いのは……」
「駄目じゃ。妾はのう、そなたを磨いてみたいのじゃ。せっかく元に戻ったというに、妾の楽しみを奪うでない」
以前のライラがそんな事を言わなかっただけに、驚愕は未だ収まらない。
ともあれ、気の済むまでやらせるしかなさそうだ。
「して、本来の兄上はやはりそなたの気に召さぬか?」
話を戻され、里琉は戸惑いながらも否定を返す。
「……ううん。何だろう、前よりは手放しで褒められないけど……それでも、一緒に居る事が嫌じゃないんだ」
「何じゃ、嫌ってはおらぬのじゃな。ほんに兄上は女子の心を解せぬのう」
「勘違いされてるのかも……。いや、でもそれでいいかな。いずれは居なくなるんだし」
「居なくなるのか?」
「……後で、話すよ。とっても大事なことだし」
今のライラなら、きっと教えても大丈夫だろう。
そう思って、里琉は約束する。
「ふふ。そなたの信頼を得られるのは、嬉しいものじゃ。兄上ほどの偏見は持たぬから安心するが良い」
イシュトは偏見持ちだったらしい。だが、残念なことに納得はしてしまった。
その間に口紅が塗られ、最後に少しだけ、煌めく粉を仕上げに付けられる。
「……ふふ。見事じゃ。しかしこの格好ではちと合わぬのう」
嬉しそうなライラが鈴を鳴らすと、ややしてメーディアがやってきて。
「お呼びでしょうか、姫様。……あら、リル」
「お、お邪魔しております……」
「メーディア、妾とお揃いにしたいのじゃ。服と宝飾品を用意せよ」
「かしこまりましたわ」
にっこり微笑むメーディアを見る限り、メイク自体に何の問題も無いらしい。
むしろ嬉しそうということは、外見的なものに厳しいメーディアの基準をあっさり超えた仕上がりというわけで。
(化けてるの!? これ完全に別人みたいなビフォーアフターが完成しちゃってるわけ!?)
それはそれで大問題だろう、と里琉は慌てたが。
「ほれ、鏡じゃ」
あっさり手鏡を渡すライラに促されて覗き込んだその中には――エキゾチックな美人が居た。
「誰だこれ!?」
「そなたじゃ」
くすくす笑うライラは、優雅に化粧道具をしまう。
むしろ一発で里琉だと分かる人間の方が少ないような気がする。
「わ、私こんなに作り込めないよ!?」
「妾が教えるぞ?」
「うう……でも別に、仕事にここまでは……」
「何じゃ、これから仕事か?」
「今日は休みって言われてる……けど」
予定と違うので、一旦部屋に戻ろうかと思ったが、しばらくは無理そうだ。
そうしていると、着替えとアクセサリーを抱えたメーディアがやってきて。
「お待たせ致しましたわ。さあリル、服を脱いで」
「……ナチュラルに着替えさせようとするの怖いです、メーディアさん」
嬉々として参加しようとしている辺り、普段の里琉がよほど不満らしい。
だが、逆らう術は全く持ち合わせていないので従う事にした。
お揃いになると、余計に自分が女らしさとは程遠いと分かって里琉はショックを地味に受ける。
「あの……貧相にしか見えないんですが」
「問題ない。そなたは細身じゃからの。腰を強調すれば良いのじゃ」
「どうせこの部屋はランタンしかないもの。気にするだけ損よ。たまにはおしゃれをしなさい」
と言いながらメーディアが巻いてくるスカートは、幾重もの薄いシフォン生地でしかも長い。
その割にスリットが深く、下手な体勢を取ると色々と目に毒な光景だ。
「…………ふうむ。下着も変えるか?」
とんでもない発言をするライラは大真面目なので、里琉は慌てて拒否を示す。
「ちょちょ、それはさすがに!!」
「しかしのう、これでは少々見えてしまうではないか。そもそもそなた、何故このような色気のない下着なのじゃ。もっと細身の物を身に着けよ」
「これ、この辺に布巻けばいいだけだと思うのに!?」
「言うと思ったので下着もご用意いたしておりますわ。これが終わり次第、昼食に致しましょう」
そしてメーディアの用意周到さに関しては、もはや何も言えない。
「ご飯!」
だが、すっかり空腹になっていた里琉は、喜んで着替えに応じた。
「む、訊くのを忘れておった。リル、そなた兄上が同席するのは嫌か?」
「へ? 何で? 別にいいけど」
嫌ではないが、イシュトの方がそれこそいいのだろうか、と思ったその問いの直後、ライラはふっと笑みを浮かべて。
「メーディア、近くに部屋を用意せよ。そこで食事じゃ。兄上とアルカセルを呼ぶが良い」
「はい、かしこまりましたわ」
それは綺麗な笑顔で告げた王女を見て、里琉は彼女の真意を悟る。
「……まさか、最初から」
「何の事かのう。妾は「忘れておった」と申したはずじゃぞ?」
どっちが真実にしろ、返事は覆せないらしい。
「ふふ。兄上がどんな顔をするかのう。鉄面皮とまではいかぬが、あまり表情を出さぬ兄上が驚く様は見たいものじゃ」
「……え、イシュト昨夜、ちょっとだけ笑ってたよ?」
「そなたはほんに、兄上を素直にさせられる事は上手いのう。妾に謝るよう言うたのは、そなたじゃろう?」
「あ、謝った? 良かった」
謝れと言って本当に謝ってくれるとは、実は期待していなかっただけに、里琉も安堵する。
ライラの手に引かれつつ、足元に気を付けながらゆっくり歩いて用意された部屋へと向かうと、そこには。
「あ、来たね」
「…………!?」
しれっとして出迎えたアルカセル王子と、里琉を見て何故かショックを受けたようなイシュトが先に来ていた。
「何じゃ、待たせたと申すか?」
「リルを見れば大体は察しがつくよ。最初からそうしていれば、面倒もなかったのに」
「……何のお話ですか?」
出来るだけライラの陰に隠れようとするが、身長差であまりうまくいかない。
アルカセルはそれを見越したように里琉を見て言った。
「心配しなくても、ライラ姫と比べるつもりはないよ? それより歩きにくそうだし、近いからここに座りなよ」
「…………いえ、ライラと一緒に居ます」
堂々と王の隣に座れと示す王子の嫌がらせにまで、付き合う義理はない。
「気の利いた言葉も言えぬ男の隣なぞ駄目じゃ。今日のリルは妾に可愛がられるでの」
「それは残念。僕はライラ姫の隣が良かったんだけど」
「リルを喜ばせられぬ男に振りまく愛想は無いぞ?」
そしてライラが遠慮なく彼らをこき下ろす。
クッションがいっぱいのソファに座ると、里琉は思わず手近にあったクッションを前に持ってきて抱えてしまった。
「む、何をしておる?」
「……駄目?」
それを取り上げようとするライラに思わず懇願の目を向けると、彼女はぴたりと手を止め。
「ふむ、そなたがそう言うのであれば仕方あるまい」
あっさり引き下がると、そのまま隣に座り、そして言った。
「しかしそれでは料理が食べられぬであろう? 妾が手ずから食べさせてやるぞ」
「え」
クッションを手放すか、年下女子に餌付けされるかの二択を迫られる。
だが、里琉はあまり迷わず、後者を選ぶ事にした。
「……いいの?」
「そなたこそ、妾で良いのか?」
イシュトにしてもらってもいいのではないか、と目で問われたが、絶対に嫌だ、と目で返す。
「ライラ姫、僕には?」
「兄上にでも頼め」
「俺が断る」
「僕も遠慮しようかな」
便乗しようとした王子に、どぎつい返答をかます王女である。
男同士ではさすがにこちらも目の毒になるので、しなくていい。
そうしていると食事が運び込まれ、一部に激辛料理が混ざっている事に里琉は気付く。
「あ、あの、ライラ……」
「心配するでない。ほれ、口を開けよ」
「……うん」
どうやら、いじめのように辛い料理を突っ込まれる事は無さそうだ。
ぱく、と食べたその煮込み料理は、辛みはあるが気にならない程度で。
「わ、美味しい!」
「そうであろう? そなたは辛いものが苦手じゃと、妾は知っておるぞ」
にこにこと匙を運ぶライラの言葉に、よく覚えていたな、と里琉は感心した。
「それと、そなたはこれも好きであろう? ほれ、アズールの実入りのパンじゃ」
好きなのはアズールの実で、クルミによく似た食感が里琉は気に入っている。
焼き菓子に入ってれば喜んで食べるが、お茶をした時に見られていたのだろうか。
小さ目に千切られたそれを口にすると、香ばしさがふわりと広がった。
「……うう、美味しい」
「リルって顔に出るよね。分かりやすくて面白いよ」
「そうじゃろう、可愛かろう?」
いや、そこ訊くところじゃないから、と突っ込みたいが、パンを食べているので言い返せない。
「で、同意すればいいのか?」
「しても良いぞ? やらぬがの」
「しなくていいです」
要らないところで空気読もうとしなくていい、と里琉は内心思いつつも、パンを飲み込んでからイシュトにそう告げる。
「上辺だけの言葉は要らないってさ」
「女子をその程度でしか扱えぬ男になぞやらぬわ」
はい、あーん、と次の匙を与えられ、大人しく食べる。
これは酸味が効いていて、なかなか美味しい。
さっきからあまり食べる事が大変でないと気付いて、ふと里琉は彼女に問いかけた。
「ライラ、もしかして……結構気を遣ってくれてる?」
「当然じゃ。食べやすいであろう?」
「……うん」
小さ目に切られた食材のお陰で、口の周りが汚れる事がほとんどない。
化粧直しは出来るだろうが、時間がかかりそうなのでありがたかった。
「リル、間違ってもライラ姫に本気にならないでね?」
「……私にそういう気はありません。ご心配なく」
何を失礼な、と思ったが、そう見えたのかもしれないのできっぱり否定しておく。
「分かっておるから、妾もこうしておるのじゃ」
ライラも同じく否定してくれているので、全く問題はないだろう。
と。
「……リル」
「はい? ――むぐっ!?」
不意に呼ばれて振り向くと、開いた口に匙がいきなり突っ込まれた。
イシュトがいつの間に傍に来ていたようだが、全く気付けなかったらしい。
「俺は仕事に戻る」
匙をぽいと空の器に投げ入れて、イシュトはそのまま戸口へと向かう。
「あれ、話は?」
「後程そいつから聞く事にする。その方が早いだろうからな。……ではな」
何だそれは、と思いつつ咀嚼していたそれは、次第にぴりぴりした痛みから、びりびりしたものへと変化していき。
「…………っ、か、辛いぃっっ!?」
火を吹きそうなその痛みに慌てて何とか飲み込むと、けほけほと咳き込みながら里琉は手元の水差しから慌ててコップに水を注いで飲んだ。
「うわ、リル真っ赤だよ?」
「大丈夫か、リル!?」
一体何を食べさせられたのかは分からないが、いくつかある激辛料理の一つだろう。
まさかこんな形で嫌がらせをされるとは。そもそも、何が気に入らなかったのか。
混乱している里琉の傍で、料理を確認したライラが苦い声で呟いた。
「……よりにもよって、ポアラの種入り料理を食わせたようじゃの」
「激辛確定のこれだよね? イシュト、ああ見えて結構嫉妬深いのかもね」
見るからに真っ赤な料理は、全力で辛いアピールをしているので、ライラはきっと避けてくれていたに違いない。
「嫉妬……? 妹が友達と仲良くしてるのを見てそう思うとか、ちょっとさすがに考えたくないんですけど」
んぐんぐと二杯目の水を飲みながらそう王子の言葉に返すと、王子は苦笑してその料理を一口食べ、軽く咳き込んだ。
「うん、辛いね! ライラ姫、イシュトへの嫌がらせはほどほどにね?」
「味音痴のそなたがその反応か……むむ、兄上が素直になるのは、リルと二人きり限定かのう」
それ以前に、イシュトはそこまで素直だったっけ、と疑問を抱く。
「ほれ、茶じゃ」
「ありがとう、ライラ。…………イシュトは素直なわけでもない、と思うよ」
熱いお茶の方がすぐ辛みが抜けるらしい、というのは知っていたので、ありがたく頂いた。
その上で訂正を示すと、ライラは肩をすくめて呟く。
「そなた、やはり鈍いのう」
「だからこじれたんだろうね。……それにしても、イシュトは辛いのが相変わらず好きだね?」
「…………げ」
よく見ると、大半の激辛料理は彼が平らげたらしい。
色々と大丈夫か心配にはなるが、そういえばワートマールは苦手だったな、と思い出した。
「苦いのとか、あと甘いのも苦手なのかな」
首をかしげて呟くと、ライラがそれに頷く。
「そうじゃぞ? ふふ、ドジで有名な女官に甘い焼き菓子を作らせた事が母上はあってのう。それを食べさせたところ、兄上は一枚で白旗を揚げたそうじゃ」
「……そこで塩と砂糖を間違えるドジはしなかったんだね、その女官」
「うむ。母上が見張っておったからの」
見張ってなかったら、さぞかし大変な目に遭っただろうな、と里琉は内心でそっとイシュトに合掌した。
とはいえ、この激辛料理に関しては後で文句を言うべきかもしれない。
「ところでこの後、僕も話を聞いていいかな?」
「それは構わぬ。というか、そなたも聞いておかねば困るのであろう」
物分かりのいいライラになった事で、どうやら物事が一気に進みそうである。
お茶を飲みながら、里琉はまだ痛む唇に触れて。
(……あれ、もしかしてさっきの匙って…………間接キス?)
うっかりそんな事に気付いた里琉は、慌ててお茶を飲み干した。
「どうしたのじゃ?」
「…………大方、イシュトの行動が今更効いてきたんじゃないかな?」
「くっ、王子、そこは止めるところでは!?」
「僕が止めるわけないだろう? ライラ姫を独占していたんだから、君」
気付いていたのに止めなかったのは、王子の意趣返しだったらしい。
つくづく、困った王族男子達である。
「後からじわじわする攻撃とか質が悪い!!」
「そうじゃのう。しかし、王族なぞこんなものじゃぞ」
「むしろお遊びに近いよね。本気出したイシュトが、こんな可愛い悪戯程度で済ませるわけがないし」
まだ上があるのかよ、と里琉はげんなりした。
「そっちは本気出さなくていい!!」
「ふふ、どうやら当分は波乱気味じゃのう。風の嵐は誰に追い風となるやら」
外は相変わらず晴天だが、風は強い。
もう少しだけ食事を続けながら、里琉はイシュトの考えが全く分からなくなってしまっている事に、更に戸惑いを抱くのだった。
それに触れられないからこそ。




