「お前を愛するつもりはない」と冷たく言い放った旦那様。私があなたを庇って余命一ヶ月だと知った瞬間、氷の仮面を割って子供のように泣き叫ぶなんて知らなかった
【第一幕:氷の世界と、名ばかりの妻】
「勘違いするな。これは単なる政略結婚だ。私がお前を愛するつもりは、この先一切ない」
それが、私の夫となった人からの、最初の言葉だった。
王都でも一、二を争う名門、アークライト公爵家の現当主、ユリウス・アークライト。
プラチナブロンドの美しい髪に、絶対零度を思わせる氷のように冷たいアイスブルーの瞳。
その整いすぎた容貌と、一切の隙を見せない冷徹な振る舞いから、社交界では『氷の公爵』と呼ばれ恐れられている御方。
薄暗い初夜の寝室。
窓から差し込む青白い月光に照らされた彼は、私を一瞥もすることなく、淡々とそう言い放った。
彼の声には、怒りも、軽蔑も、そしてもちろん愛情も、何の感情も籠っていなかった。ただ、事実を告げるだけの、無機質な響き。
「はい、承知しております。ユリウス様」
私は、ただ静かに頭を下げ、小さく微笑んで頷くことしかできなかった。
私の実家である侯爵家は、長年の放満経営により多額の借金を抱えていた。
その借金を肩代わりする条件として、魔力も乏しく、容姿も平凡な私が、公爵家へと嫁いできたのだ。
愛など最初から期待できるはずもない、完璧な政略結婚。
けれど、彼には言えない秘密があった。
私は、彼をずっと前から愛していたのだ。
数年前の建国祭の夜。
迷子になり、貴族の子供たちからいじめられていた私を、偶然通りかかった彼が助けてくれた。
「名乗るほどの者ではない。だが、泣く必要はない。君は何も悪くないのだから」
そう言って、泥だらけだった私に差し出してくれた真っ白なハンカチ。
その日から、彼はずっと私の初恋の人だった。
だから、彼に愛されなくてもよかった。
冷たい言葉を投げかけられても、寝室を別にされても、使用人たちから「愛されない飾り物の奥様」と陰口を叩かれても。
同じ屋敷に住み、彼の淹れるお茶の用意をし、彼の帰りを待つことができる。彼の支えになれるのなら、それだけで私は幸せだった。
しかし、そのささやかで穏やかな絶望すら、長くは続かなかった。
結婚から半年が過ぎた、初冬のある日のこと。
領地の視察に同行した帰りの馬車で、私たちは賊の襲撃に遭った。
暗闇の森の中、護衛の騎士たちが次々と倒されていく。
「エラーラ、私の後ろから離れるな」
ユリウス様は剣を抜き、私を背に庇って賊と対峙した。
その背中はとても大きく、頼もしかった。
しかし、賊の一人が放った短剣が、異常な軌道を描いてユリウス様の死角から迫るのを見た瞬間、私の思考は真っ白になった。
暗闇に不気味に光る、紫色の瘴気を纏った刃。
あんなものを受ければ、ただでは済まない。
「ユリウス様っ!!」
私は考えるより先に、彼を突き飛ばすようにして前に出ていた。
直後、焼け火箸を押し当てられたような激痛が、私の右肩を貫いた。
「がっ……ぁ……!」
「エラーラ!!」
ユリウス様の悲痛な叫び声が響く。
私は地面に崩れ落ちながら、氷のような冷たさと、炎のような熱さが同時に全身の血管を這い回るのを感じていた。
賊は怒り狂ったユリウス様と、駆けつけた援軍によってすぐに討ち取られた。
「しっかりしろ! なぜお前が前に出た! なぜ……っ!」
血だらけの私を抱き起こし、ユリウス様が叫ぶ。
その瞳には、初めて見る焦燥の色が浮かんでいた。
「……だい、じょうぶ、です。かすり傷、ですから……」
私は痛みを堪え、気休めの治癒魔法を自分の傷口にかけた。表面の血だけが止まる。
「ほら……痛く、ありませんわ」
そう言って笑ってみせたが、私の心臓は嫌な音を立てていた。
体内で蠢く、おぞましい魔力の残滓。
それは、かすり傷などではなかったのだ。
【第二幕:余命一ヶ月の決断と、別れの嘘】
数日後。
私はお忍びで、王都の裏路地にある闇医者を訪ねていた。
公爵家の専属魔導士に見せれば、事態が明るみに出てしまうからだ。
「……『死の呪い』ですね。間違いない」
白髪の老医者は、私の肩に残る紫色の痣を見て、重々しく首を横に振った。
「呪いはすでに全身の魔力回路を侵食しています。……持って、あと一ヶ月でしょう。現代の魔法では、これを解呪する方法は存在しません」
「……そうですか」
私は自分の膝の上で、ギュッと両手を握りしめた。
涙は出なかった。
ただ、ああ、やっぱり、という納得だけがあった。
ユリウス様が助かったなら、それでいい。
私の命なんて、元々大した価値のないものなのだから。
しかし、問題があった。
ユリウス様は、氷のように冷酷に見えて、その実、誰よりも責任感が強く、領民や身内を大切にする人だ。
もし、私が彼を庇って呪いを受け、あと一ヶ月で死ぬと知ったら?
(……あの人は、一生自分を責め続けるわ)
政略結婚の妻とはいえ、自分の身代わりで死なせてしまったという事実は、彼の心に永遠の枷をはめてしまうだろう。
彼には、これから先、本当に愛する人と出会い、幸せな家庭を築いてほしい。
私のせいで、彼を不幸になんてしたくない。
だから私は、彼に嫌われようと決めた。
心の底から軽蔑され、「死んで清々した」と思われるくらいに、最低な女になろうと。
その日の夜。
私は、今まで一度も着たことのないような、胸元の大きく開いた派手で下品な真紅のドレスに身を包み、彼の執務室のドアを乱暴に開けた。
「……何の用だ。ノックもせずに」
書類から顔を上げたユリウス様は、私の異様な出で立ちを見て眉をひそめた。
「もう、限界ですわ。こんな冷たい方との生活なんて」
私はわざとらしく鼻で笑い、彼を見下ろすように腕を組んだ。
そして、用意していた『離縁状』を、彼の机の上に叩きつけた。
「他に愛する方ができましたの。さっさとそれにサインしてくださいませ。あなたのその氷のような顔、もう見たくもありませんわ」
「……何だと?」
ユリウス様の声が、一段と低くなった。
室内が、文字通り凍りつくような殺気に包まれる。
「私の言葉が聞こえませんでしたの? あなたの相手をするのはもう退屈だと言っているのです。もっと情熱的で、私を愛してくれる殿方を見つけましたのよ」
心が、ギリギリと悲鳴を上げている。
嘘よ。嘘よ。私が愛しているのは、世界中であなただけなのに。
ユリウス様のペンが止まり、その美しい顔が怒りと、そしてほんのわずかな……悲哀に歪んだように見えた。
絶対零度のアイスブルーの瞳が、私を射抜く。
「……そうか。お前も、私を見捨てて、置いていくのだな」
ギリッと音を立ててペンが握りしめられ、彼は何も聞かずに、乱暴に離縁状にサインをした。
「出て行け。二度と私の前に姿を現すな」
「ええ、喜んで。さようなら、つまらない旦那様」
私は踵を返し、執務室を出た。
ドアが閉まった瞬間、堪えきれなくなった涙が頬を伝い落ちた。
足から崩れ落ちそうになるのを必死に堪え、私はその日のうちに荷物をまとめ、屋敷を後にした。
心の中で「愛しています、どうかお元気で」と、血を吐くような思いで別れを告げて。
【第三幕:崩れ落ちる氷と、残された真実】
(※ここからはユリウス視点)
エラーラが屋敷を出て行ってから、二週間が過ぎた。
「……クソッ」
執務室のデスクで、私は苛立たしげにペンを投げ捨てた。
書類の文字が全く頭に入ってこない。
『他に愛する方ができましたの』
『あなたのその氷のような顔、もう見たくもありませんわ』
彼女が最後に放った言葉が、何度も何度も脳裏をループし、その度に心臓をえぐられるような痛みが走る。
政略結婚だった。愛するつもりなどないと、初夜に告げたのは私だ。
それでも、彼女はいつも私のそばにいた。
不器用で、感情表現が苦手な私のために、いつも温かいお茶を淹れ、仕事が遅くなれば必ず起きて待っていてくれた。
いつしか私は、彼女のその控えめな笑顔に、静かに惹かれていたのだ。
だが、それを言葉にすることはできなかった。
『氷の公爵』などと呼ばれ、常に完璧であることを求められてきた私は、他人に甘えたり、愛を伝えたりする方法を知らなかったのだ。
そして、彼女は去った。
私の退屈さに愛想を尽かし、他の男の元へ。
当然の報いだ。そう自分に言い聞かせても、胸に空いた巨大な穴は塞がることはなかった。
その時だった。
「旦那様! 大変です、これをご覧ください!!」
普段は礼儀正しい侍女のアンナが、血相を変えて執務室に飛び込んできた。
その手には、見覚えのない古いノートと、赤黒く染まった何枚ものハンカチが握られていた。
「何だ、騒々しい。それは……血か?」
「奥様のお部屋を整理しておりましたら、暖炉の裏の隠しスペースから見つかったのです! これは……奥様の日記です!」
アンナはボロボロと涙をこぼしながら、ノートを私の机に置いた。
嫌な予感が全身を駆け巡る。
私は震える手で、そのノートを開いた。
そこには、エラーラの丸みを帯びた綺麗な文字が並んでいた。
『○月×日
ユリウス様が賊から私を庇ってくれた。嬉しかった。
でも、彼を狙った刃が迫った時、私は無我夢中で前に出ていた。
彼が無事で本当によかった』
『△月□日
闇医者に行った。死の呪い。余命一ヶ月だと言われた。
帰り道で一人で泣いた。もっと、彼と一緒にいたかった。
彼のお茶を淹れたかった。彼の声を聞きたかった』
『×月○日
今日、ついに血を吐いてしまった。呪いの進行が早い。
体が痛くて、夜も眠れない。
でも、ユリウス様には絶対に知られてはいけない。
彼が自分を責めるのだけは見たくない。
嫌われよう。最低な女を演じて、彼から離れよう。
彼には、いつか本当に愛する人と幸せになってほしい。
さようなら、私の愛しい人』
「――――っ!!!」
ガタンッ! と音を立てて、私は椅子から立ち上がった。
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。
呼吸の仕方を忘れたように、喉がヒューヒューと鳴る。
「あの日、奥様が受けた傷には『死の呪い』の痕跡があったと……専属魔導士様も、なぜあの時気付かなかったのかとご自分を責めておられます……! 奥様は、旦那様の身代わりとなって……!」
アンナの泣き叫ぶ声が、遠く聞こえた。
「あいつは……エラーラは、私を裏切ったのではなかったのか……? 男などいなかった。私を、庇って……一人で、死のうとしているのか……?」
パラパラと落ちたハンカチには、べっとりと彼女の血が染み付いていた。
これを吐きながら、彼女は一人でどれほどの恐怖と痛みに耐えていたのか。
それなのに私は、彼女を軽蔑し、冷たい言葉を投げつけ、追い出したのだ。
「ああ……ああああっ!!」
視界が歪む。
氷の公爵と呼ばれた私の目から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちていた。
後悔と、絶望と、己への激しい憎悪が渦巻く。
「旦那様! どちらへ!」
「馬を出せ!! 今すぐだ!!」
私は上着も羽織らず、狂ったように馬小屋へと走り出した。
彼女の実家には戻っていないと報告は受けている。
心当たりは一つしかなかった。北の果てにある、彼女の母親の遺産である、誰も使っていない古い別荘。
「エラーラ! エラーラァァァッ!!」
降り始めた粉雪の中、私は血を吐くような思いで馬の腹を蹴った。
頼む、間に合ってくれ。
私からすべてを奪ってもいい。命も、魔力も、地位もくれてやる。
だからどうか、彼女だけは連れて行かないでくれ!
【第四幕:吹雪の果て、溶け出す氷】
(※ここからはエラーラ視点)
「……げほっ、ごほっ……」
北の地の別荘は、凍えるように寒かった。
窓の外では、猛烈な吹雪が吹き荒れている。
私の意識は、もうほとんど途切れかけていた。
ベッドに横たわる私の体は骨と皮だけになり、髪は真っ白に色を失い、視力も数日前から完全に奪われていた。
息をするだけで、喉と肺が焼け焦げるように痛い。
(ああ……いよいよ、お迎えが来たみたい……)
痛みも次第に薄れていく。
冷たい闇の中に沈んでいく感覚。
最後に思い出すのは、やはりあの人のことだった。
ユリウス様。今頃、どうしているかしら。
私のことなんか忘れて、公爵としての職務を全うしているといいな。
どうか、笑っていてほしい。
その時だった。
バンッ!! と、乱暴にドアが蹴り破られる音がした。
冷たい風と共に、誰かが部屋に転がり込んでくる気配がする。
「エラーラ!!」
その声に、私は幻聴だと思った。
死ぬ間際に、都合のいい夢を見ているのだと。
「……ユリウス、様……? どうして……」
ドサッとベッドの脇に何かが膝をつく音がした。
そして、私の震える骨ばった冷たい手を、ひどく温かい、大きな手が両手で包み込んだ。
「すまない……! すまなかった……!!」
ポタ、ポタと、私の手に熱い雫が落ちてくる。
それは次第に大粒になり、止まることなく降り注いだ。
「なぜ、なぜ言わなかったんだ! 私のために、君はこんな……こんなになるまで……っ!」
「あ、あ……」
幻聴ではない。
あの、決して感情を表に出さず、氷のように冷徹だったユリウス様が。
私の手を握りしめ、ボロボロと涙を流し、子どものようにしゃくりあげて泣き叫んでいるのだ。
ぼやけた意識の中で、その事実だけがハッキリと理解できた。
「泣かないで、ください……。私は、あなたの盾になれて、幸せでした……から……」
「馬鹿なことを言うな! 君がいなくて何が幸せだ! 私は……私はずっと、君にどう接していいか分からなかっただけだ! ずっと君を見ていた! 惹かれていた! 愛している、愛しているんだエラーラ!!」
彼の痛切な叫びが、吹雪の音を掻き消して部屋中に響き渡る。
『愛している』
その言葉を聞けただけで、私の人生のすべてが報われた気がした。
「頼む、私を置いていかないでくれぇっ! 代わってくれ、神様! 私の命を、魔力をくれてやる! だから彼女を助けてくれ!!」
額を私の手に押し付け、慟哭するユリウス様。
私は最後の力を振り絞り、もう片方の手で彼の冷たい頬に触れた。
「……ありがとう、ございます。私も……ずっと前から、愛して、いま……した……」
言葉を紡ぐ力は、そこで途切れた。
指先から力が抜け、私の手はベッドへとおちていく。
静かに目を閉じ、私は深い闇へと沈んでいった。
「エラーラ? エラーラ!! いやだ、あああああああっ!!!」
ユリウス様の絶叫が、遠く、遠くへ離れていく。
その瞬間だった。
ユリウス様の瞳から零れ落ちた涙が、私の胸元に落ちた。
そこから、眩いほどの『金色の光』が爆発するように溢れ出したのは。
【最終幕:奇跡、そして春】
「エラーラ、少し風が冷たくなってきた。肩が冷えるだろう。ショールをかけよう」
「ふふ、ユリウス様。私はもうすっかり元気ですし、そんなに着込んだら雪だるまになってしまいますわ」
あれから、一年。
私たちアークライト公爵邸の中庭には、美しい春の花が咲き誇っていた。
あの吹雪の夜。
私の死という極限の悲しみと、失いたくないという強烈な愛の渇望が引き金となり、ユリウス様の中に眠っていた『聖なる魔力』が覚醒したのだ。
建国以来、数百年現れなかったという伝説の聖魔法。
その金色の光は、私を侵していた絶対の『死の呪い』を瞬く間に浄化し、私の命をこの世界に繋ぎ止めてくれた。
奇跡的に命を取り留め、長い療養期間を経て完全に健康な体を取り戻した私は、今、温かな陽射しの下でお茶を飲んでいる。
ただし、以前の結婚生活とは全く違う状況で。
「駄目だ。君はもう少し自分を大事にしなさい。……あの夜、君が息を引き取った瞬間の絶望を、私は一生忘れない。また私を置いていかれたら、今度こそ私は狂ってしまう」
そう言って、ユリウス様は背後から私をきつく抱きしめ、私の首筋にすりすりと甘えるように顔を埋めた。
「ユ、ユリウス様……っ、使用人たちが見ておりますわ!」
「見せておけばいい。私がどれほど妻を愛しているか、世界中に知らしめるべきだ」
氷の公爵の面影は、もはや微塵もない。
今の彼は、王都でも有名な『超・愛妻家』として、暇さえあれば私にくっついて離れない、過保護で甘すぎる旦那様になってしまったのだ。
少しでも私が咳をすれば国中の医者を呼び寄せようとし、私が庭を散歩するだけで護衛を十人もつけようとする(さすがにそれは全力で止めた)。
夜の寝室では、まるで私の存在を確かめるように、何度も何度も愛を囁きながら、私を甘く、深く抱きしめる。
「……本当に、どこにも行きませんよ。私はずっと、あなたのそばにいますから」
私は後ろを振り返り、彼の美しいプラチナブロンドの髪を優しく撫でた。
ユリウス様は、氷が溶けたような、蕩けるように甘い笑顔を浮かべる。
「ああ。愛しているよ、私のエラーラ」
彼が落とした優しいキスに、私は幸福な微笑みで応えた。
もう、すれ違うことはない。
凍てついていた私たちの時間は完全に溶け去り、今はただ、この上なく温かで、永遠に続く春の陽だまりの中にあった。
(了)




