貴方と花束を戦場へ
ルヴィア・エルグレインは、王国一の悪女と呼ばれていた。
平民や下級貴族を見下し、婚約者である第一王子のレオニードを振り回す傲慢な令嬢──それが世間の彼女に対する評判だった。
だが、それはすべて作られた仮面だった。
──戦火の匂いが迫っていた。
隣国が国境に軍を集結させ、開戦は避けられぬ情勢。王族たちは士気を高めるため、自らも最前線へ赴くことを決めていた。
当然、王太子であるレオニードも先陣に立つ予定だった。
だが、ルヴィアは知っていた。この戦いは泥沼化し、先頭に立つ者の生存率は極めて低いということを。
「……あなたなんて、大嫌いですわ」
玉座の間でそう吐き捨てた瞬間、重苦しい沈黙が広がった。
驚愕する廷臣たち、怒りを浮かべる国王、そして信じられないというように目を見開くレオニード。
「理由を聞こう、ルヴィア」
「婚約者として、あなたが死ぬ姿を見たくありません……とは、言えませんわね。そんな殊勝な性格ではありませんもの。
本音を申せば──血と泥に塗れた男など興味ありませんわ。未来ある殿方は、もっと綺麗であるべきでしょう?」
その言葉は、氷の刃のように鋭く、彼の胸を貫いた。
そして彼女は婚約破棄を宣言し、玉座の間を去った。背中に、侮蔑と失望の視線を浴びながら。
──誰も知らない。
あの夜、ルヴィアが一人きりで泣き崩れていたことも。
彼を守るために、悪女を演じたことも。
◇
戦が始まると同時に、ルヴィアは姿を消した。
世間では「恐怖のあまり国外へ逃げた」と噂された。
だが実際には、彼女は男装し「ルーク」という偽名で志願兵として従軍していた。
兵士たちは気づかなかった。細身ながらも俊敏で、誰よりも仲間思いな若者が、かつての悪名高い令嬢であることに。
そして戦場で、何度も彼──レオニードの命を救った。
「……また助けられたな、ルーク」
「たまたま近くにいただけです、殿下」
軽く笑いながらも、ルヴィアの胸は締めつけられていた。
彼は気づかない。隣で笑う兵士が、かつて愛した婚約者であることに。
それでいい。気づかれずに済むなら、それが一番いい。
最終決戦の日、敵軍の大将が放った矢が、レオニードの胸を狙った。
ルヴィアは迷わなかった。
彼の前に飛び出し、全身で矢を受け止めた。
「ルークッ!?」
血を吐きながら、ルヴィアは微笑んだ。
ああ、この顔を見られるのも、これで最後──。
「……殿下、どうか、生きてください」
その言葉を最後に、彼女は動かなくなった。
戦は勝利に終わったが、彼女が戻ることはなかった。
ルヴィア・エルグレインは、戦後しばらくして戦死者の名簿に記載された。
死因は「行方不明中、戦場で消息を絶ったため」と。
逃亡者の悪評はそのままに、誰も真実を語ろうとはしなかった。
──ただ一人を除いて。
◇
それから数年後。
王都郊外の小さな墓地に、一人の青年が毎年訪れていた。
立派な軍服を纏ったその姿は、かつての王太子、今は国王となったレオニードその人だった。
「……ルヴィア」
墓石に刻まれた名に、そっと花を置く。
彼の瞳は赤く、唇は震えていた。
「全部、知ってしまった。お前が……俺を守るために、あんな言葉を吐いたことも。
戦場で……俺の目の前で死んだ“ルーク”が、お前だったことも」
彼は膝をつき、声を殺して泣いた。
あの日の言葉が胸を締め付ける。
『あなたなんて、大嫌いですわ』
「……馬鹿野郎。そんな嘘、俺は望んでなかった」
墓前に額を押し当て、かすれた声で告げる。
「愛している。ずっと……今でも、これからも」
風が吹き、花弁が舞った。
それはまるで、彼女が微笑んでいるかのように、優しく彼の頬を撫でた。
◇
国王はその後も、毎年この墓を訪れ続けたという。
民はそれを「かつての婚約者への贖罪」と噂したが、彼にとってはただ一人の愛を語る時間だった。
──けれど、それを知るのは、墓の下で静かに眠る“嘘つき悪役令嬢”だけだった。