第1章:別れの酒と告別の雨
シカゴ・ジョンのアパートメント / 深夜
──銃声。爆発音。土砂降りの雨。
「ジョン、援護しろ!──畜生ッ!」
血まみれの瓦礫、土煙、雨。
倒れていく仲間。
銃声の合間に響く兵士たちの悲鳴──
「ケイン、撤退だ!──ケイン!」
──カルサジ渓谷、あの日の悪夢。
⸻
ジョンは息を荒げ、冷や汗でぐっしょり濡れたシャツのまま跳ね起きた。
部屋の中は静寂に包まれている。
窓の外、シカゴの夜景がぼんやりと光を放っていた。
胸の奥に重い痛み。
幾度となく繰り返される悪夢。
呼吸を整えようと、ジョンは無言で拳を握り締めた。
彼はベッドサイドのスマホに手を伸ばす。
画面には1件の未読メッセージ。
マーカス:
「兄貴!今夜飲みに行くぞ。例のバー。断ったらぶん殴るからな。」
ジョンは無表情のまま、ふっと小さく鼻で笑った。
その軽さが、今は唯一の救いだった。
「…まったく、お前は…」
久々にわずかに緩んだ口元。
唯一、心を許せる相手。それがマーカスだった。
──夜 / シカゴ・バー「ルースレス」
古びたネオンサインの下、ジョンは重い足取りで店に入った。
店内にはいつものブルースが流れ、湿ったウイスキーの香りが漂う。
「おせーぞ、兄貴!」
既にカウンター席に座り、手を振るマーカス。
人懐っこい笑顔。明るい声。無精髭の奥の目が少しだけ赤い。
ジョンは無言で隣に腰を下ろす。
店員は何も言わず、常連二人のグラスを差し出した。
マーカスは早速グラスを掲げる。
「とりあえず、生き延びた祝杯だ。乾杯。」
ジョンもゆっくりグラスを持ち上げる。
「……乾杯。」
グラスが軽くぶつかり、カランと乾いた音を立てた。
しばらく取り留めもない話が続く。
だがジョンは、マーカスの奥底にある疲弊を感じ取っていた。
──笑顔の裏に滲む、僅かな目の陰り。
──夜も眠れずに苦しんでいることを、口に出さず隠そうとしている。
──だが兄弟のようなこの二人に、言葉は要らなかった。
ジョンはグラスを見つめながら静かに言った。
「無理はするな。」
マーカスは一瞬だけ目を泳がせ、それでも明るく肩をすくめた。
「何の話だよ?俺は絶好調さ。
…ま、仕事はちょっと厄介だけどな。だが大丈夫だ。」
その言葉が嘘であることも、ジョンには痛いほど分かっていた。
ジョンの口元がわずかに緩む。
「お前は強がりが下手だ。」
「ははっ、それはお前が強がりのプロだからだろ。」
二人はグラスを合わせた。
沈黙が心地良い、戦友だけの静かな時間だった。
マーカスが話題を切り替えるように言った。
「そういや、妹のエミリーがまたバカみたいに忙しくしてる。
今度大学で発表だとか言ってた。まあ、あいつも強い奴だよ。」
「元気そうで何よりだ。」
「もし俺に何かあったらさ…ジョン、頼むな。」
ジョンは小さく眉を動かし、まっすぐマーカスの目を見据える。
「そんなことは起きない。」
「…わかってるよ。念のためってやつさ。」
しばし無言。
だがその沈黙こそが、二人の強い絆を物語っていた。
「まあいい、今夜は酒だ。戦争の話はやめようぜ。」
「…そうだな。」
カラン──グラスの音がまた静かに鳴った。
⸻
──これが、最後の夜だった。
── 数日後。早朝、ジョンのアパートメント。
けたたましい電話のベルが鳴り響いた。
寝起きのままジョンが受話器を取る。
電話の向こうから、懐かしい声が響いた。
元・中佐、サム・トレーガー。
『…ジョン…悪い知らせだ。マーカスが…亡くなった。』
時間が止まった。
耳鳴りのような静寂の中で、ジョンは絞り出すように言った。
「…どうして…」
『自動車事故だ。トラックに追突されたらしい。…すまない。』
ジョンの心臓が重く沈んでいく。
何も信じたくなかった。ただ現実が冷たく突き刺さってきた。
⸻
── マーカス・レヴィン告別式。シカゴ市民墓地。
灰色の空。冷たい雨。黒い傘の列。
ジョンは呆然と立ち尽くしていた。
周囲には軍時代の仲間たち、大学関係者、親戚、知人──
その中でエミリー・レヴィンが静かに近づいてきた。
「ジョン…」
彼女の目は赤く腫れていたが、内側に強い怒りの光を宿していた。
「…兄は…ただの事故なんかじゃない。」
ジョンは眉をひそめた。
「どういう意味だ?」
「兄は最近、何かを調べていた。…危険なことを。私にも詳しくは教えてくれなかった。でも…『もし何かあったら、ジョンに頼れ』って。」
エミリーは小さな封筒をジョンに差し出した。
中には、わずかな手がかり──
USBメモリ
メモ用紙に走り書きされた文字列:「L.F. / Enzo / Shipment 47」
「…これが兄の遺品に残されてた。」
ジョンは黙って封筒を握りしめた。
胸の奥に、静かに黒い炎が灯る。
誰が、なぜマーカスを殺したのか。
真実を暴くまで、止まる気はなかった。
その夜 、USBは暗号化され、ジョンには今は解けないが、部屋の片隅で、マーカスのメモをじっと見つめていた。
L.F.
Enzo
Shipment 47
ジョンは古いノートPCを開き、情報収集を始めた。
「…L.F.──ラフォルツァ。」
裏社会に精通する人間ならすぐに辿り着く名前だ。
イタリア系犯罪組織・ラフォルツァは近年急速に勢力を伸ばし、表向きは完全に合法ビジネスで固めつつある。だが内部は麻薬、武器、人身売買、政治献金…
腐った連中の巣窟だ。
次に──Enzo。
ジョンは、軍時代に築いた非合法情報ネットワークへアクセスする。
ダークウェブの裏掲示板、諜報時代のコンタクトたち、旧知の元CIA協力者──
一人の情報屋が応えた。
「エンツォ・デルヴェッキオ。ラフォルツァの幹部の一人。裏物流部門の実質責任者だ。港湾、空輸、密輸船──大抵こいつが噛んでる。」
ジョンは瞬時に組織の構造図を頭の中で組み上げる。
エンツォ → 複数の現場責任者 → 実働部隊
「エンツォに直接は危険すぎる。まずは下から叩く。」
「Shipment 47」
ジョンは軍用時代のロジスティクス経験を活かし、港湾記録・荷役ナンバー・不正通関記録を丹念に洗った。
これは──単なる闇物流のナンバー管理コードにしか見えない。
「要はラフォルツァ内の物流コードだ──エンツォの縄張りってことか。」
彼はノートPCを閉じた。
次に手を出すのは──エンツォの腹心たち。
⸻
港湾管理局の裏名簿。
密輸案件の摘発歴。
闇金の貸付帳簿。
──そこで一つの名が浮上する。
ニック・カプート。
「……お前か。」
港湾倉庫の責任者。エンツォ直属。
物流の汚れ仕事を一手に引き受ける男。
密輸、裏取引、時には証拠隠滅も請け負う冷酷な実働部隊長。
ジョンはマーカスの死にラフォルツァが絡んでいる可能性を掴んだと同時に、頭の中にもう一つの危険信号が点滅していた。
…エミリー。
マーカスの唯一の肉親。
そして、自分にとっても家族同然の存在。
「……狙われる可能性がある。」
ジョンは即座に動いた。
夜半。エミリーのアパートは静まり返っていた。
ジョンは警戒しつつ周囲を確認し、ベルを鳴らした。
「ジョン?」
エミリーは驚いた表情で玄関を開ける。
「こんな時間に…?なにかあったの?」
ジョンは一瞬だけ迷ったが、表情を変えずに短く答える。
「少しの間、安全な場所に移ってもらう。」
「え…?なにそれ──」
「今は説明できない。だが…君がここにいるのは危険だ。」
エミリーは困惑しながらも、ジョンの異様な緊張感に気づいた。
幼い頃から彼を知る彼女には、ジョンの「ただならぬ目」の意味が分かる。
「……わかったわ。」
わずかに震えた声で、エミリーは頷いた。
「兄さんがいなくなってから、正直私もずっと不安だった…。ジョン、あなたを信じる。」
市街地から少し離れたジョンの隠れ家──かつて軍の同僚が使っていた廃倉庫跡の一角。
最低限の設備は整っている。監視カメラ、武器庫、非常用電源…。
エミリーはそこで新しい現実を受け入れ始めていた。
一方で、ジョンは着々と次の準備を進める。
武器の整備。
監視装置の確認。
地図と物流ルートの整理。
「これから、出るの?」
エミリーが小さな声で訊ねる。
ジョンは無言で頷いた。
「……危ない目に遭わないで。兄さんを…あなたまで失いたくないの。」
エミリーの瞳に浮かぶ涙。
だが、同時にその奥には静かな怒りが滲んでいた。
兄を殺された悲しみが、ゆっくりと怒りに変わりつつある。
ジョンはそんな彼女をしばらく見つめ──不器用に頭を撫でた。
「大丈夫だ。必ず戻る。」
重い軍用コートを羽織り、ジョンは静かに隠れ家を出る。
エミリーはその背中をじっと見送る。
──私は兄を守れなかった。
今度は…ジョンまで失わないで。
扉が閉じる音だけが、静かに鳴り響いた。
BLACK FALL、開幕。