プロローグ:カルサジ渓谷
── 午前4時23分、カルサジ渓谷、座標:北緯35度41分 東経42度10分。
夜明け前の冷たい砂漠に、無線のノイズが静かに流れ続けていた。
「ケイン。前方クリア、進出開始する。」
耳元のマイクから親友マーカスの声が届く。ジョン・ケインは頷いたが、声は返さなかった。代わりにM4カービンの安全装置を外し、闇に溶け込むように一歩進んだ。
オペレーション名:サイレント・スコーピオン。
目標は、武装テロリストの集落とされるカルサジ渓谷の小村。その壊滅だった。
上層部は「確実な諜報に基づく正当な作戦」と命じた。だがジョンの内心には、微かな違和感が燻っていた。住民の避難情報は確認されていない。哨戒ドローンの映像にも、民間人らしき影が映っている。
「ケイン、ターゲットポイント到達まで残り100メートル。分隊はフォーメーション・デルタで進行中。」
再びマーカスの冷静な報告。
夜の闇に、遠くで犬の鳴き声が響いた。乾いた砂利を踏みしめる兵士たちの足音さえ、神経に触れる。
突然、無線がザッと鳴った。
『本部より全ユニットへ──交戦許可。全目標、殲滅せよ。繰り返す、全目標、殲滅せよ。』
その瞬間、胸の奥にあった予感が現実に変わった。
ジョンの脳裏に浮かんだのは、先ほど見た子供の影。女の子だった。手を引かれた母親が、物陰に隠れるようにしていた。
──違う。ここは本当に敵地なのか?
「マーカス。」ジョンは初めて声を発した。「後退を──」
だがその時、最初の砲撃が始まった。
地響きと共に村が炎に包まれ、悲鳴が夜空を切り裂く。
マーカスが叫んだ。「違う!やめろ!ここは──!」
機銃掃射、爆発、銃声、断末魔。
無線の向こうで誰かが叫んでいる。「民間人だ!民間人がいるぞ!」
だが本部からの返答は冷酷だった。
『任務続行。躊躇は許されない。全標的を排除せよ。』
砂塵の中で、ジョンは血の匂いを感じた。
火の手が上がる小村。少女の泣き声。マーカスの怒声。味方の砲撃。敵の反撃。
──それが「カルサジの夜」だった。
二人は、生き残った。
だがそれは、生き延びたのではなく──背負わされたのだった。