8. ステップ4
要は二日酔いで頭痛のする中、枕のわきに置いてあるスマホで時刻を確認した。画面に表示された時刻は八時半。夜遅くまで飲んでいて、それから風呂に入り寝たので多少睡眠時間が短かったが、遅刻するわけにもいかないのでズルズルと起きだし、研究室に向かう準備をした。
「おはようございます」
実験室に到着したのは十時少し前。遅刻せずに済んだ。実験室には新庄、大西、菅谷の姿があった。川本の姿はなかった。
「山野君、おはよう」
新庄が実験をしながら挨拶をしてきた。要はちょっと気まずい思いをしながら、自分の実験台に向かった。
「早速だけど、山野君。昨日までの実験ってどんな感じだったかな?」
「4-エトキシカルボニル-2-メチルチアゾールの合成を百ミリグラム(100mg)スケールで一回、一グラム(1g)スケールで一回、十グラム(10g)で一回の計三回で行いました。収率はどのスケールでも変わりませんでした」
そう報告すると新庄は、
「じゃあ、実験のコツはつかんできたかな?今日からは本番に移りますか」
そのセリフに要は疑問を持ち、新庄に問うと
「4-エトキシカルボニル-2-メチルチアゾールは、あの抗生物質の中に含まれていなかったよね。今までのは実験に慣れてもらうための練習実験だよ。今日からは全合成に使うフラグメント合成の本当の実験開始だよ」
確かに新庄の卒論発表ではチオアセトアミドを原料としたチアゾールは存在しなかった。カギとなる三つのチアゾール環がピリジン環の他はL-アミノ酸が原料となる四つのチアゾール環からなる抗生物質であった。では今までの苦労は?と思うとやはり「氷華の魔女」と呼びたくなった。その様子に新庄は、
「ごめんごめん。からかうつもりじゃなかったんだよ。高い試薬を使って失敗を繰り返していたんじゃやる気なくすじゃない。やはり初めは実験成功したいじゃない。流石にあの実験で失敗したらどうフォローすればいいか分からなかったけど」
それは確かに納得する話ではあった。
「さて、気を取り戻して、四つのチアゾール環のうち一番簡単なL-イソロイシンを原料としたチアゾール環の大量合成をしてもらおうかな。いきなり大きなスケールで始めてもいいけど、失敗するといやでしょう。まずは二百ミリグラム(200mg)スケールから始めてみて。私の卒論を聞いていたら工程は分かると思うけど、実験操作は分からないだろうから、実験操作はこれを参考にして」
と、新庄の卒論を渡された。
工程としては、L-イソロイシンのアミノ基をBoc (ターシャルブトキシカルボニル)基で保護し、カルボキシル基をアミド化してからカルボニル基をLawesson’s Reagent(ローソン試薬)でチオカルボニル基に変換してから、出来たチオアミド基とブロモピルビン酸エチルをと縮合させるHantzsch法(ハンチ法)を用いてチアゾール環を生成させて終了となる四工程(4ステップ)の合成ルートである。
L-イソロイシンのBoc化はTHF/H2O(テトラヒドロフラン/水)中、K2CO3(炭酸カリウム)存在下(炭酸カリウムを塩基として用いる)、(Boc)2O (ジターシャルブトキシカルボン酸無水物)を反応させてN-BocーL-イソロイシンを得ると書いてあった。今回の反応では水系の反応なので、塩化カルシウム管を用意する必要はない。
要は(Boc)2Oを冷蔵庫から室温に戻す間に、室温棚からL-イソロイシンと炭酸カリウムを用意した。アミノ酸は室温で安定なので、いつも室温保存の棚に置かれている。炭酸カリウムも室温で安定なので、室温保存の棚にある。L-イソロイシンを二百ミリグラム(200mg)をナスフラスコに計り取り、水を十ミリリットル(10ml)加え、撹拌子を入れドラフトチャンバー(実験室に設置してある局所排気装置)の中でスターラーを用い攪拌させた。
そこに炭酸カリウムを加え溶かし溶解させ、テトラヒドロフランに溶解した(Boc)2Oを滴下して反応させていった。
「時間空いているかしら?」
隣の実験台の新庄から声を掛けられた。
「今、反応中なので時間はありますが」
そう答えると、先の折れたパスツールピペットを渡された。
「これをもってついてきて」
要は新庄の後を追い、学生実験室についていった。
「このガスバーナーを使ってパスツールピペットを伸ばしてキャピラーを引いていくわ。よくみていてね」
新庄はドラフトチャンバー内にあるガスバーナーに火をつけ、酸素ボンベで酸素を送り込み強力な炎を起こした。両手でパスツールピペットを持ち、炎の青い部分にパスツールピペットの中心を当てパスツールピペットが赤くなり柔らかくなったところで思いっきり引っ張った。そうすると面白いようにキャピラリーが引かれていた。
「この間言った通り、自分で使うキャピラリーは自分で引くことになるから覚えてね。とりあえず見様見真似でやってみて」
要は新庄と席を変わりキャピラリーを引いていった。初めは感覚がつかめず太いキャピラリーや細すぎるキャピラリーを引いていったが、十分ほどすれば使えそうなキャピラリーを引けるようになっていった。
「これで当分の間使う分は出来たわね」
新庄はガスバーナーを止め、二人は実験室に戻ることにした。
キャピラリーを引き終えて、反応時間がちょうど一時間になったころTLCで反応を追跡することにした。新しく作ってきたキャピラリーで、原料と反応液のスポットを打ち展開溶媒で展開していった。展開を終えたら、今回のスポットはUVランプでは反応しないので。リンモリブデン酸溶液に浸けホットプレートで焼くと青く反応したスポットが出てきた。N-Boc-L-イソロイシンらしきスポットが出てきたが、L-イソロイシンのスポットも出てき、まだ原料が残っていることが分かったのでこのまま室温で反応をし続けることにした。
ちょっと暇そうにしていた時、新庄から論文を一つ渡された。
「四月から不斉反応研と合同でゼミを開き、勉強会や雑誌会が開かれるからその順にこの論文を読んでおいて。本来は自分で論文を探して読んでレジュメを作って発表するのだけど、まだどの論文を読めばいいか見当がつかないでしょう。だから貴方に適切な論文を探しておいたわ」
そう説明されると、渡された論文は、チアゾール環がいくつかある抗生物質の論文であった。
そうこうしていると時計は一時を指しており、みんなで学食に行く時間になった。
学食に行くとき菅谷が横に並んできた。
「昨日は部屋提供してくれてありがとう」
要はこの時、新庄と菅谷が同じ高級マンションに入って行ったことを思い出し、
「菅谷さんてお嬢様なんですか?新庄さんもですけど」
「私はお嬢様なんかじゃないよ。梨香ちゃんは本物のお嬢様だけど」
「そうなんですか?」
「あれ、要君知らないの?同じ高校だったのに」
「知りませんでした」
「じゃあ、菅谷さんはモデルをしていた時に稼いだお金で高級マンションに住んでいるんですか?」
「違うよ。梨香ちゃんとルームシェアしているんだよ。聞いてない?」
「いや、聞いていませんけど」
「まあ、あまり話すことでもないか」
と菅谷は言い残すと、新庄と並んで歩き始めた。
要は、学食から戻りBoc化反応をTLCで追跡した。今度は原料のスポットは消失していて反応を終了することにした。ロータリーエバポレーターでテトラヒドロフランを留去して、残渣を酢酸エチルと水で分液ロートへ移し、アミノ基がBoc化されたことにより酸性になるため、pHを酸性にして酢抽出した。酢酸エチル層を硫酸マグネシウムで乾燥させてから濾過しエバポレーターで減圧濃縮を始めた。濃縮を終えると固体状の粗体が得られた。それをシリカゲルカラムで精製して精製液をまたエバポレーターで濃縮した。得られた精製物をデシケーターに入れたら十九時になっていたので帰り支度を始めた。そうしたら菅谷に呼び止められた。
「要君、うちの研究室は十時間勤務だぞ」
そういわれたものの、区切りよく終わってしまったので戸惑っていると、
「うそうそ、ちょうど終わったらいいのよ。私たちはまだまだ帰れないけれど。ただ私たちこれからなじみの定食屋に行くんだけど一緒に行かない?要君もそのうち利用することになるだろうから。ねえ、梨香ちゃん」
と新庄に話を振っていた。新庄は「そうね」とうなずくだけだった。
大学から歩いて十分くらいのところに学生向けの定食屋があった。メニューを見ると値段は学食よりちょっと高いくらいで、外食としてはだいぶ懐に優しい価格で、量も学生の腹を満たすには十分な量であった。
「ねえ、梨香ちゃん。要君、梨香ちゃんがお嬢様だってこと知らなかったんだよ。梨香ちゃんと要君の中ってそんな感じなの?」
「私、別にお嬢様じゃないって」
「うそうそ、地元の薬問屋の一人娘がお嬢様じゃなければ誰がお嬢様っていうの」
「確かに従業員数は多いみたいだけど、そんなに大してお金ないよ」
「その感覚はおかしい、どこの家庭で、3LDKの高級マンションを娘の下宿先にするかなぁ」
「そ、それは」
「それで、部屋が広すぎるから一緒に住んでと、入学前に私に泣きついてきたくせに」
「確かにそんなことも」
「ってか、薬問屋のお嬢様だったんですか、新庄先輩は?」
要がようやく口をはさんだ。
「最近はドラックストアも展開しているらしいけど」
新庄がそう返すと、菅谷は
「ねぇ、お嬢様でしょ。でも家を継ぐのが嫌で薬学部に入らなかったんだよね」
と話し始めた。白桜大学には生命科学部の他には、薬学部と看護学部、社会科学部があった。
「流石に梨香ちゃんが薬学部に入っていたら、私同じ学部になれなかったかも。家継がないって決心してもらってどんなにありがたかったことか。でもよく考えると家を継がないといった娘に、親が学費とマンション用意したわね。普通出してもらえそうもないけど」
「えっと、実はおじいさまがだしてくれて・・・」
新庄はとても恥ずかしいようで小さくなっていた。