17. ステップ11
この日の朝新庄は忙しかった。
「新庄先輩どうしたんですか?なんかいつもの倍速で実験仕込んでいるようですけど?」
「これから毎週金曜日は三年生の学生実験のTAのバイトよ。今日は一日学生実験室にいるから何か分からないことがあったら学生実験室まで来て」
と言いながら新庄は学生実験室へ向かった。要はL-セリンのメチル化反応を十グラム(10g)スケールで仕込み始めた。リフラックス(加熱還流)が始まったところで、昨日反応させておいたBoc化反応の後処理を始めた。テトラヒドロフランを減圧濃縮することで留去し、pHを酸性にして酢酸エチルで抽出し、硫酸マグネシウムで乾燥させた。酢酸エチル層をエバポレーターで減圧濃縮して酢酸エチルを留去して粗体を得た。得られた粗体をカラムクロマトグラフィーで精製し、精製体を得た。得られた精製体をデシケーターに入れ乾燥させた。ちょうどお昼時になって新庄が実験室に戻ってきた。
「山野君悪いんだけど、サンドイッチか何か買ってきてくれるかな?あと紅茶も」
そう言って新庄は要に千円札を渡して学生実験室に戻って行った。吉井教授は学生実験の指導をしているので、学食に向かうメンツは要と大西、川本と菅谷といったメンツである。吉井教授のお昼は菅谷が頼まれたようだ。
「菅谷さん、新庄先輩にお昼頼まれて、サンドイッチと何かって言われたんですけど、新庄先輩の好みわかりますか?」
「分かるよ。サンドイッチはレタスサンドだね。あともう一つはアンパンがいいかな。頭いっぱい使っているだろうから甘いものがいいかな」
「そうですね。ありがとうございます」
要は自分の食事を終えると、生協で新庄に頼まれたものを買い、研究室に戻った。学生実験室に行って買い物をしてきたことを伝えると、今は先生がお昼に言っているからあとから食べると返事があった。
新庄は学生たちに慕われているようで、引っ切り無しに質問を受けていた。あれは大変そうだなと思いながら実験室に戻って行った。TLCで反応を追跡したところ原料は消えており反応を終了した。室温に戻してから減圧濃縮してメタノールを留去し、pHをアルカリにして酢酸エチルで抽出し、硫酸ナトリウムで乾燥させ、酢酸エチルを減圧濃縮して酢酸エチルを留去して粗体を得た。粗体をシリカゲルカラムで精製して減圧濃縮で溶媒の留去を始めた頃には夕方になっていた。
研究室に行ってみると買ってきたパンと紅茶は食べた後があったので、昼食はちゃんと摂ったようだが学生たちからはまだ解放されていないようで、先生も戻ってきていない。用事はなかったがちょっと心配だったので学生実験室をのぞいてみると、まだ実験が終わる様子ではなく新庄は所狭しと動いていた。要を見つけたのか手を振って見せるだけの余裕はあったようだ。手を振られたので新庄のところまで歩み寄ると、
「どうかした?何か相談事?」
と新庄に言われ、
「いえ、なかなか戻ってこないので様子を見に来ました」
「ありがとう。あなたたちが学生実験の時はどのくらい時間かかった?」
「午後八時くらいでした?」
「やっぱりそうか~。私たちの時もそうだったからなぁ。仕方ないかもね、有機合成の実験は」
それもそうだよな~と要が考えているとき、新庄から、
「今日はどの辺までいった?」
と聞かれ、
「Boc化の後処理が終わって、今メチルエステル化のカラム精製が終わったところです」
「そう、ありがとう。この後はどうするの?」
「そうですね。帰るにはまだ早いし、もう一度メチルエステル化を十グラム(10g)スケールで仕込んでみます。そのころには濃縮も終わるでしょうから」
「分かったわ。頑張ってね」
新庄は要に微笑んでから、学生たちの方へ戻って行った。
要は新庄の微笑みが何からきたものか考えながら実験室に戻って行った。実験室に戻ると大西から声を掛けられた。
「お前と新庄ちゃんとコミュニケーション取っているか?」
「まあ、それなりには」
「そうか?俺から見るとあまりとれていない気がするが。普段実験以外のこと話していないだろうお前たち」
「確かにそう言われればそうですね」
「俺と川本みたいに馬鹿話しろとは言わんが、たった四人しかいない研究室だ。もっと会話をする心がけをした方がいいぞ」
と指摘された。確かに大西と川本は色々趣味の話などで盛り上がってはいるが、要と新庄の間には見えない壁があるように実験以外の話はしていない。夕食や飲み会はするくせに込み入った話までいかない。むしろ菅谷とは話が弾むが。とすれば先ほどの微笑みは何の意味が込められていたのだろう。なぞは深まるばかりである。まあ、考えても仕方のないことだからと切り替えメチルエステル化をもう一度十グラム(10g)スケールで仕込むことにした。
午前中に反応が終わったメチルエステル体の精製体の濃縮が終わり、デシケーターに入れた。夕方に仕込んだメチルエステル化反応が終了したころに新庄が学生実験から戻ってきた。
「もうくったくた。バイト代割に合わないよ~」
「そんなに時給安いんですか?」
「違う、五時までは時給千円だけど五時以降はサービス残業」
「それはキツイですね」
「ねぇ、そうでしょう。でも学生たち可愛いからいいんだけど」
「可愛いんですか?」
「そりゃそうでしょ。右も左も分からない状態なんて可愛いでしょう」
「そんなものですかね」
「そうよ、山野君だって可愛いわよ」
「そんな、僕そんなに右も左も分からないわけではないと思いますけど」
「まだまだ一か月半でしょ。十分可愛いわよ」
要はからかわれている気持ちになってきたが、新庄が、
「あ~お腹空いた。山野君手空いてる?」
「空いてますよ」
「じゃ、いつもの定食屋行こう。今日朱美は用事でいないから」
そういうと新庄は要を強引に引っ張って行った。
いつもの定食屋で要はアジフライ定食を新庄はメンチカツ定食を頼んだ。
「いや~二年違うだけであれだけ体力有り余っているものなのね」
開口一番、新庄が言った。
「そんなに違いますか」
「ちがうちがう、やっぱり一年間椅子に座ったままだったと思い知らされたわ。明日の午後もスポーツ頑張ろう」
「明日は何をする予定なんですか?」
「それは決まっていないよ。体育館が取れればバレーボールかバスケットボールだし、晴れてテニスコートが取れればテニスだし、場合によってはグラウンド借りてソフトボールもあり得るから」
「ソフトボールもありなんですか」
「人数がそろえばね。他の研究室も合同でってことにはなるけど。昨年はソフトボールも何回かやっていたわよ」
「バドミントンはないんですか?」
「ラケットがないから駄目ね」
「それは残念ですね」
「ほんとね」
バドミントンの話になってから高校時代の話になっていた。新庄がどれだけ女子にもてていたとか、男子からは「高嶺の華」と言われていたとか。
食事が終わってからの実験室への道すがら新庄が要に、
「私のこといつまで先輩呼びなの?他の人にはさん付けなのに」
「だって新庄先輩は高校時代からの先輩ですし」
「いい加減、実験室の仲間だとは認識してくれないの?」
「いえ、認識はしていますけど」
「話していると何か壁を感じるのよね」
「そんなことは」
ないと要は思っていた。けれども新庄は壁を感じていてそれが嫌みたいで...
「新庄先輩は僕のことどう思っているのですか?」
「どうって、好きよ」
好きと言われて要は余計混乱してきた。あの「高嶺の華」の新庄先輩が僕のことを好きと言った。いったいどんな好きなのか?
「高校時代から貴方のこといいなって思っていたの。だけど勇気がなくて言えなかった。貴方が研究室に来てくれて嬉しかった。神様が私のこと応援してくれているのかと思ったくらいに。貴方が好き。私とお付き合いしてくれないかな」
「は、はい。僕でよければ」
要は何が起きているか、何を言われているのかをゆっくりと理解しながら返事をした。
「じゃあ、今から先輩呼びはナシよ」
「それだけは勘弁してもらえないっですか、名字だけで呼ぶのってやっぱり抵抗があるので」
「それじゃあ、研究室では先輩って呼んでもいいけど、それ以外は梨香子って呼んでね。要君」
新庄の言葉に要は真っ直ぐ新庄を見つめ
「はい、わかりました。それじゃあ、り、梨香子さん」
と答え。新庄は返って照れて、
「よろしい!さて早く戻って実験しますか」
と応えた。
「「それじゃ実験室に戻りますか」」
二人は実験室に戻り、それぞれの実験の後処理を始めた。




