(読み切り)吾輩はタコである
吾輩はタコである。名前はもうない。
「うう……おなかがすきましたぁ……」
傍らの少女は、さっきから同じことを繰り返す。
レディよ。さっきから吾輩を見る目がおかしいぞ。足だけならセーフではない。聞こえているぞ。慎みたまえ。
……吾輩を入れた壷がガタガタと揺れるのは、禁断症状であろうか。
人間には車酔いというものがあるが、どうやらレディは、吾輩にもそれを経験させてくれるようだ。
なんたる寛大さ、慈悲深さであろう。欲を言えば、手を揺らす速度がもう少し緩やかな──赤子をあやす慈母のゆりかごのような速度であれば、なお快適なのだがね。
「旅に出れば色んなところのおいしいものが食べられると思ったのに……」
かわいいレディ。お目付役を買って出て正解だった。
まったく旅に出るなりこの調子だ。やはりこの娘には向いていない。
『レディ。やはり、今からでも屋敷に戻るべきではないか。お父君も──』
吾輩はテレパシーでレディに語りかける。
「やですっ! 父様には、もうほとほと、愛想が尽きましたっ!」
『公爵閣下は素晴らしいお方だよ、レディ──』
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一週間──この世界の暦では五日と二日──ほど前、吾輩は突如として爆発的な知性を獲得した。
そこは公爵家の台所、色とりどりの食材が集う場所。美食のため世界各地から集められた新鮮な動植物が所狭しと並べられたワンダーランド。
自分の手を見て足を見て(いずれも脚だ)吾輩は状況を即座に把握した。
──このままでは吾輩、食べられてしまう。
《今から三分後。コックに全身バラバラにされて、酢漬けにされて、うら若きレディに「おいしいですわ!」と素敵な笑顔で言われる》
吾輩が自身の命の危機を認識するや否や、吾輩の脳内に鮮烈なビジョンが走った。
これは──予言だ!
かつて海産物界で高名なパウル師は、人間どもの玉蹴り遊びの勝敗を予測し、連中に高い知性と教養、そして予知能力があることを見せつけた。
彼の偉業は高く知れ渡り、現時点で地上を支配していた人間たちもトロフィーを贈るほどだった。
吾輩がかの高弟パウル師に並んだとは言わないが、おそらく命の危機に瀕して、吾輩もまたその能力に目覚めたといったところだろう。
「ふんふふーん♪ 今日はー、なっにをー、つっくりっましょっうかー♪」
調子の外れた鼻歌と、カツカツとした足音。
この空間を支配する殺戮者が来る。
『やあ、お勤めご苦労。貴方は、知的存在に対して躊躇なく害意を振るえる人間だろうか。そうであるなら一旦矛を収め吾輩の話を聞いてもらいたい。そうでない、善良で心優しく勤勉なプロテスタンティズムの精神をお持ちなら──ご主人にお取次願いたいのだが、よろしいかな?』
女コックは大声をあげた。
『公爵閣下、このような体勢で大変申し訳なく思う。何しろ、吾輩はタコなのでね』
「あ、ああ……」
壷に入った──抜け出そうにも、狭さと心地よさがあってなかなか抜け出せない──吾輩を見下ろすは、恰幅のよい中年男性。
彼がこの屋敷の主であることは一目でわかった。タコは目がいい。深海に生息しているにも関わらず過剰に進化したその目を以て我々を異星からの侵略者であると称する者もいるが一体どこでその事実を──事実を、無根である。
「な、何を望むのだ。化け蛸よ……!」
『なに、吾輩が貴方に語りかけているのは、大した理由ではない。領地領民家人朋友に向ける愛を、ほんのひと匙でよいから、吾輩に分けてはくれまいか』
「ど、どういうことだ……?」
『つまり──吾輩、まだ食べられたくないのだ』
「そ、そうか……。いや、私もお前を食べたくはない。呪われそうだ」
『あいにく呪詛の類には見識が浅いのだが、吾輩の要求とあなたの要求、みごとに合致するようだ。となると、交渉は成立ということだね?』
「うむ……で、出ていってもらえるか」
『もちろん構わないとも。ああ、その寛大さに吾輩は感謝の意を禁じ得ない! どうか、吾輩にできることであれば、命を失わぬ限り、何でもさせてもらおう!』
「今すぐ出てってくれればそれでいい」
『なんと無欲! ケルト・ギリシャ・ローマ・中国、世界の英雄たちは数限りなく名を遺しているが、貴君ほど欲のない、高潔な、腹の出ている者はいなかったろう!! ああ、吾輩は貴君の力になりたい。貴君の手となり足となり──吾輩には脚しかないか。だが、あなたの望みがここを出ることなら、ああ構わない、構わないとも。今すぐにでも出ていって差し上げよう。それっ──』
──出られない。
『……いやすまない。本意ではない、ただちに出ていこう。ふんっ──』
──びくともしない。
『いや困った。これは実に恥ずかしい話なのだが──いや、恥ずかしい話というのは友誼を結ぶにちょうどいい話題か。前置きとして、これは貴君の同情や憐憫を買おうという意図はない。吾輩は貴君を尊敬しているが、媚びを売ろうという気もない。よろしいか? ──吾輩、つぼから抜けだせない』
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ああ、思い返すも恥ずかしき記憶よ。
あれから吾輩は公爵閣下の信頼を勝ち得て、こうしてご令嬢のお目付役にまで抜擢されたのであるが──若き日の記憶というのは、いかな立場となってもフラッシュバックして自分を傷つけてくるもののようだ。
思わず吾輩の顔も赤くなって……茹でられているではないか!?
『レディ! レディよ!! まだ天の陽は高く我らが中空にあり、風呂の時間にはまだ早い! そうは思わないだろうかっ!?』
「あ、タコさん。なんだ、まだご存命だったんですね?」
『そうとも。吾輩まだ寿命ではない。一般的にマダコは3年から5年が寿命であると言われているが──や、やめたまえレディ。その指を折る仕草が吾輩には邪悪なものに見えて仕方がない!』
「はーい。まだってことですよね。まだって」
『まだを強調するのはやめたまえ。だいたい吾輩、埋葬方式は水葬がよいのだが──』
《物陰から盗賊が出てくる。彼らはレディの美しさに見とれながら、金品を要求してくる。吾輩差し出される。なんやかんやあって死ぬ》
──命の危機に瀕して、予知が来た。
『レディ。それよりも戦闘だ。相手は盗賊三体。そこの物陰に姿を潜めている。吾輩を壷から出してくれたまえ。何せこのねぐらは快適で、吾輩の自由への渇望、その意志すらも奪ってくるのでね』
「はいっ! いってらっしゃいませ、タコさん!」
さて……。
──彼女には、どこで諦めてもらおうか。
公爵閣下から娘の目付役を仰せつかった吾輩は、盗賊を八つの健脚で蹴散らしながら、これからの旅を思うのだった。
「続けないのか、これ」
「どう考えても一発ネタっすよこんなん」