6. ウィリアム殿下の事情
「事は貴女自身の仮婚約に関することですからね。すでにアンベイク侯爵は事情をご存じですが、侯爵様に限り、この件について話をすることを許可します」
先生はわたくしにそうおっしゃると、最後にウィリアム殿下に視線を向けました。
「ウィル、わたくし個人は、このようなテストには反対でした。あなたたち三人のためのテストなら、他にいくらでも方法があったのです。それを、あのボンクラが面白半分に許可してしまって……。貴方は、ローズの七年に及ぶ王子妃教育を無意味なものと断じ、冤罪による私刑を匂わせて彼女にショックを与えたのです。王族たるもの、臣下に頭を下げるべきではありませんが、今まで献身的に尽くしてくれた仮婚約者には、個人的に謝罪することが必要だと思いますよ」
先生にギロリと睨まれたウィリアム殿下は、軽く肩をすくめました。
「当然のことだ。マリーローズにはこれから事情を説明する」
「左様でございますか。では、わたくしはこれにて御前を失礼いたしますが――エミリー、貴女も一緒に来て、一部始終を報告なさい」
「はぁい」
なんともゆるい返事をしたエミリー嬢を連れて、アンヌ先生は報告のために生徒会室を去って行かれました。アンヌ先生が一連の出来事の『耳』ならば、『目』に相当する者がいるはずだと思っていました。どうやら、それはエミリー嬢のようですね。
静寂が訪れた生徒会室では、何とも居心地の悪そうなウィリアム殿下が、チラッとわたくしに視線を向けて、様子を窺っています。
アレクサンダー殿下が言及なさったように、国王陛下のお認めになった仮婚約を当事者であるウィリアム殿下が破棄宣言なさることは、反逆を疑われ、王位継承権を剥奪、悪くすると極刑もあり得る大罪となってしまいます。
アンヌ先生によれば、この騒ぎの発案者はウィリアム殿下だということでした。テスト参加者であるアレクサンダー殿下とわたくし以外の同席者全員が仕掛け人であるとすれば、いくらでももみ消しができる事案です。とはいえ、不測の事態もあり得ます。ウィリアム殿下はご自分の進退を危険にさらしてまで、何を証明なさりたかったのでしょうか――。
「マリーローズ。今回のことは、貴女を信じての行為だったが、私の一方的な押し付けで、貴女にはひどい屈辱を味わわせた。すまない……そして、仮婚約の破棄に応じてくれて、ありがとう」
ウィリアム殿下の濃紺の髪が、頭を下げることでサラリと流れて、わたくしはぎょっとしました。王族が臣下に頭を下げたこともさることながら、ウィリアム殿下が全てを覚悟の上でこの仮婚約破棄騒動に臨んだことを明言したためです。
「ウィリアム殿下、どうか頭をお上げ下さいませ。そしてどうかお胸の内のご事情をお聞かせいただけませんか?」
仮とはいえ、婚約を結んで七年。穏やかな情を育んできたなどと言いながら、わたくしはウィリアム殿下がこのような蛮行に及ぶほどお悩みになっていることを知らずに過ごし、また、相談していただけるほどの信頼を勝ち得てもいなかったことを心苦しく思いました。今からでも、できることはあるはずです。そのためには、ウィリアム殿下のお心を知ることから始めましょう。
「もちろんだ」
そうして語られた事情は、思いもよらないものでした。
「相手はエミリーではないのだが……実は、私には他に心を捧げた者がいる。マリーローズは素晴らしい女性だが、私と結婚しても、お互いに幸せにはなれないだろう。しかし、王族の仮婚約は、貴族たちのそれとは違う。何をどう理由付けしても、マリーローズからの破棄は王家への反逆と見なされ、私からの破棄はマリーローズの将来に影を落とす」
ウィリアム殿下はそうおっしゃって眉をひそめました。確かに、何らかの事情でこの婚約を破棄する場合、外交問題でも絡まない限り、臣下に過ぎないアンベイク侯爵家から仮婚約の破棄を申し入れるのは不敬になりますし、王家から破棄したとなれば、わたくしは『第一王子から捨てられた女』というレッテルが貼られます。しかも、もうすぐ正式な婚約をする年齢であることを考えれば、この先に選べる相手はかなり限られてしまうのですから、適齢期の令嬢の一番大事な時期を食いつぶした、目に見えない損害は大きいのです。
しかも、わたくしは来年には十八歳、一般的な貴族女性が正式に婚約を結ぶ年齢となります。一方のウィリアム殿下はすでに十八歳を迎え、今年で学園を卒業しますから、醜聞を最低限に抑えたうえでウィリアム殿下の有責で仮婚約破棄に至る事件を引き起こすためには、このタイミング、場所が最適であると判断し、国王陛下に許可をお求めになって事に臨んだのだということでした。
「このようなことを国王陛下がお認めになられたのですか!? けれど、それではウィリアム殿下は……!」
「いいのだ。全ては覚悟の上のこと。これによって、アレクには負担を強いることになるが……同時に、その苦労に見合う大切なものを手に入れるチャンスでもあると、私は思っているよ」
ウィリアム殿下に優しい目で見つめられたアレクサンダー殿下は、うっすらと頬を紅潮させて視線を外されました。その姿さえも微笑ましいと言うようにウィリアム殿下は笑み、さらに話を進めます。
「父上に仮婚約破棄を申し出たところ、側近たちの正体や学園内に潜伏する情報部のメンバーたちを明かされた。こうして私は今回の出来事に至ったのだ」
わたくしは、そう語るウィリアム殿下の瞳に真摯な思いを読み取り、今後、御身に降りかかる未来を含めて、本気でこの先に待ち受ける未来に向き合っておられることを悟ったのでした。
わたくしはそんなウィリアム殿下の決意に、ほっと安堵の思いを抱きました。冤罪を着せてわたくしを排除しようとするお姿には呆れ、腹を立てましたけれど、わたくしとしても愛ゆえの絶望はなく、むしろ安心したほどでした。ウィリアム殿下の恋のスパイスになるなど真っ平ごめんだ、そっちがその気なら、わたくしも自分の秘めた思いを開放してやりますわ、だなんて、暴力的な思考にも捕らわれました。それでも、ウィリアム殿下のご事情が分かれば、お互いの幸せへのドアが開かれたとしか思えず、わたくしはウィリアム殿下に深い感謝の念を抱き、わたくしはわたくしで、今できることをしようと深く心に誓いました。
「私は、将来は臣下に下り、許されるなら、王都から遠い地で国防にあたる任に就きたいと思っている」
きっぱりと言い切るウィリアム殿下に、それまで沈黙を保っていた騎士団長のご子息であるセドリック様が、力強く声を上げました。
「俺はどこまでもウィルについていくぞ」
「ありがとう、セディ」
がちりと片腕をお互いの肩に回す姿に、心を許し合った男性の友情を見たような気もするのですけれど……なんとなく彼らの視線に熱いものを感じてしまって、わたくしは独特の雰囲気にドキドキしてしまったのでした。
その様子に困惑していたのは、わたくしだけではないようでした。
「兄上……」
アレクサンダー殿下は言い淀んで言葉を探すと、きっぱりとこう口になさいました。
「ありがとうございます」
……ありがとうございます?
ウィリアム殿下が王太子を降りるお覚悟をなさったということは、国を担う重責がアレクサンダー殿下に圧し掛かることを意味しますのに。
アレクサンダー殿下はウィリアム殿下のことを、次期国王としても兄上としても尊敬なさっていますのに。
それでも、国の未来を任されたことにお礼を言うなんて……と思った瞬間、わたくしの頬にもぽっと熱が昇って来ました。……もしかして。
「さてさて、奥手な弟よ。ここまで御膳立てしたのだから、あとは自力で頑張るんだぞ」
ウィリアム殿下がアレクサンダー殿下の肩を叩いて、生徒会室を後にします。
一部始終を見守っていたカトレア様は口パクでわたくしに応援の言葉を残し、アレクサンダー殿下の側近の方々も目礼だけすると部屋を出ていってしまい……残されたアレクサンダー殿下とわたくしは、真っ赤になってもじもじしてしまったのでした。