2. 卑劣な行い
ウィリアム様が破棄を宣言なさった「仮婚約」は、その名の通り、仮の婚約のことで、正式に婚約する前の口約束を意味します。
サードオニクス王国では、基本的に、「夫婦円満であれば家庭も仕事も上手くいき、多少の困難は乗り越えることができる」という考え方が浸透しています。夫婦の相性を重視する思想が根底にありますので、法律上は、男性は十八歳、女性は十六歳から結婚することができますけれど、実際は、正式に婚約するのは女性が十八になる頃であり、その後二年以内に結婚することが多く、気持ちが移ろいやすい思春期には当主同士の口約束による婚約をすることが一般的で、わたくしたちは、これを仮婚約と呼んでいるのです。
ただし、口約束とはいえ、明文化されていないだけの契約に違いはない――つまり、ウィル様のご尊父様である国王陛下とアンベイク侯爵であるわたくしの父の口頭契約による婚約ということです。それにもかかわらず、ウィル様は、王家の選んだ仮婚約者に仮婚約を破棄する、と宣言なさいました。
わたくしの返事がお気に召さなかったらしく、ウィル様は眉をひそめておいでです。しかも、なぜかエミリー嬢が「ひどい!」と言って泣き出し、ますますウィル様に縋りつき、それを取り巻きズが大袈裟になぐさめ、わたくしに射殺すような剣呑な視線を向けてくるのです。なんなのでしょう、この状況……意味が分かりません。
このままでは埒が明かないので、わたくしは主導権を握って話を進めることにしました。
「わたくしには権限がございませんので、仮婚約の破棄はお受けいたしかねますが、ウィル様――ウィリアム殿下の仮婚約に対するお気持ちは承知いたしました。本件はわたくしからも父に報告し、正規の手順を取って仮婚約の解消を進言させていただきます。そのためにも、仮婚約破棄の理由を詳しくお教えくださいませんか?」
相手に仮婚約破棄の意思がある以上、親しい呼び名を避け、すかさず敬称へと戻しました。今後の方針とともに、わたくしには身に覚えのない『卑劣な行い』とやらを明確に示せ、という言外の要求もしっかりとお伝えします。そんなわたくしの冷静な対応も、ウィリアム殿下は腹立たしいようですけれども。
「王子妃として不適格な自らの言動と思想に、心当たりがないと言うのか?」
王子妃として不適格な自らの言動と思想?
貴族令嬢として生まれ、第一王子の妃候補として七年もの辛い教育に耐え、今後一生を添い遂げる覚悟をもって、燃えるような恋とは言わずとも、穏やかな家族のような絆を育んできた……そう思っていたわたくしの心を、ウィリアム殿下のお言葉が、たいそう冷たく、無慈悲な、蔑みに満ちた刃となって刺し貫きました。
悲しみのために静かに血を流すわたくしの心に追い打ちをかけるように、マーカス様とセドリック様がわたくしを糾弾し始めます。
「マリーローズ嬢が、エミリー嬢に対するいじめの首謀者であることは分かっている。学業を妨げんと持ち物を隠したり破損させたり、社交の場から排除するためにドレスを汚して茶会から追い出したり。挙句の果てには階段から突き落として怪我を負わせた件、言い逃れはできないぞ!」
「下位の貴族を蔑視し、茶会では差別的な扱いでエミリー嬢を貶め、罵倒した。このような貧しい思想を持ち、また権力を振るうことを躊躇わない女に、栄えある第一王子ウィリアム殿下の妃が務まると思うな!」
わたくしにとっては寝耳に水である事件を並べ立て、大きな体躯でわたくしを見下ろす、ウィリアム殿下の側近のお二人。そこへ、エミリー嬢が消火剤ならぬ添加剤を投入したものですから、たまったものではありませんでした。
「皆様、そのようにマリーローズ様をお責めにならないで! 嫉妬は人を狂わせます。私、ただマリーローズ様に謝罪していただければ、それで十分ですから!」
「あなたは優しいのだな、エミリー。あんな目に遭ったのに、犯人を庇うとは……。これで分かっただろう、マリーローズ。私が貴女ではなくエミリーを愛したことで、醜い嫉妬に駆られて犯してきた非道、許されるものではないぞ!」
叩きつけるような叱責の言葉に、心臓がキュッと縮みます。
ウィリアム殿下は、わたくしが本当にそんなことをするとお思いなのでしょうか。それとも、していないことは百も承知で、うるうると瞳に涙をためる恋人を優しく支え守ること、そしてウィリアム殿下の腕に収まっている彼女の様子を少々悔しそうに見つめる取り巻き二人に見せつけることを優先して、事実無根とご存じながら、利用しておいでなのでしょうか。
あるいは――本当に『真実の愛』とやらに目覚めたので、仮婚約者であるわたくしが邪魔になって、排除しにきたのでしょうか。
物語にありがちなお粗末な断罪現場に立ち会いながら、わたくしは、あまりの馬鹿馬鹿しさに気が遠くなりかけました。
そうです、わたくしは、心底、馬鹿馬鹿しくなってしまったのです。貴族の責任と義務を果たすために、わたくしは仮婚約以来、王子妃教育に真摯に取り組んできたというのに、その努力の一片すらも否定されて、それでも平気でいられるほど、わたくしの心は硬質ではなくて……。
わたくしは、普通の女の子としての気持ちは封印して、仮婚約者を好きになろうと努力し、穏やかな愛情を育てて来たつもりだったのです。そこには、確かに王国とウィリアム殿下への敬愛がありました。
ウィリアム殿下と取り巻きの二人が語った行為は、わたくしが引き起こしたものではございません。たとえエミリー嬢がそのような被害に遭っていたとしても、わたくしには全く関係のない出来事なのに――ウィリアム殿下は事件の裏取りをすることもなく、わたくしを犯人と決めつけたのです。エミリー嬢の言葉ではありますが、これを酷いと言わず、何を酷いと言うのでしょう?
この扱いに、今まで培ってきた穏やかな親愛の情など吹き飛んでしまいました。仮婚約は正式な婚約でないために、公にはわたくしの経歴の傷にはなりません。仮婚約破棄、上等です。正直なところ、第一王子の仮婚約者から外れれば、わたくしはわたくしの心に従って恋に生きることができるため、むしろありがたいお申し出であると思うことにしました。
この心境の変化は、萎えかけていたわたくしの心に新たな決意をもたらしました。冤罪で家名と自身の名誉を傷つけるなんて以ての外。目撃者が少ないとはいえ、ここで明確に罪状の否定をしておかなければ、彼らは事実を歪曲して、わたくしが非を認めたのだと吹聴しかねませんから、そのあたりはきっちりとしておく必要があるでしょう。
いじめの首謀者と言われても、エミリー嬢とは学年もクラスも違うわたくしが、持ち物を隠したり破損させたりする手段はありません。人にやらせるならば実行犯がいるはずですけれど、わたくしが命じたと証言する人がいるとしたら、明らかに偽証です。
お茶会については、心当たりがあるようなないような……。エミリー嬢のあまりに貴族のマナーを逸脱した言動に腹を立てていたご令嬢は多数いらっしゃいました。第一王子の仮婚約者であるわたくしに相談を持ち掛ける方々のためにも、わたくしは目立たないようにエミリー嬢に注意しようと、下位貴族の令嬢を含めたお茶会を開催したのですけれど、肝心のエミリー嬢は欠席だったという、あの件でしょうか。参加すらしていないのに、どうやって貶めたり追い出したりするのか、理解に苦しみます。怪我の件もそうでして、まともに会話をしたこともないのですから、罵倒するだの、階段から突き落とすだの、どうしたらそんな勘違いができるのか、不思議でなりません。
「どれもわたくしは関与しておりません。全くの冤罪でございますわ」
わたくしはきっぱりと全てを否定しました。