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吉岡はすぐにアートに電話をし、俺がメイプルヤードに向かっていることを知らせた。
「アートは何故菊のことに気が付かなかったんだ?」
今まで何も言わなくても菊の動きは把握していたはずだ。
「菊さんが千住邸へ向かうこともありませんでしたし、このところ小菅の取引先の方に当たっていて」
「取引先? まっとうではないわけか……」
「恐らく。おい、済まないが、もっと急いでくれ」
俺の苛立ちが伝わったのか、吉岡がタクシーの運転手を急かした。目的地はそう離れてはいない。行けば……そこで菊の顔が見られたら、いや、電話が繋がって、いつもの菊の声が聞けたら安心できる。俺はまた菊に電話をした。返事がない……
「あの、あれは菊さんでは?」
窓の外を見ていた吉岡が言った。
確かに菊だ。だが、菊の様子がどこかいつもと違う。
「止めてくれ、早く」
俺は人や車に見え隠れする菊の姿を見失うまいと身を乗り出した。運転手が器用に道の脇に車を止め、吉岡が素早く運転手に金を渡す。
吉岡が頷き、俺を見た。やはり吉岡も何か異常を感じたのだ。
ドアが開く。
俺と吉岡はタクシーを飛び出し、菊に向かって走った。
菊は人混みの中、歩道を歩いていた。顔を伏せるようにして、しかも、その一部をショールで隠している。そして後ろからはガラの悪い男が二人。中にはおかしいと思う通行人もいるらしく、菊を振り返っている。が、その度に男たちと目が合ってそのまま通り過ぎた。
「菊」
俺は叫んだ。
菊がびくりとし、足を止めた。後を歩いていた男たちが俺と吉岡を見る。もちろんそんなことは構わない。俺は菊に近づいた。菊は顔の半面を青く腫らしていた。髪も乱れているし、目も赤い。尋常ではなかった。
「ジュン……」
菊はそれだけ言うと唇をかんだ。
「おい、お前この女に何の用だ?」
歩道である。当然通行人たちは目を逸らし、俺たちを避けて通る。
「吉岡、菊を病院に連れて行ってくれ」
俺は言った。
「おっと、勝手なまねはしないでもらいたいな。俺たちはこの女を無事にマンションまで送らなくちゃならないんでね」
スーツ姿の細身の男が言った。
「しかも、その後の見張りまですることになっている。わかったら帰んな」
もう一人は丸々肥っている。サイズがないのかカジュアルな服装だ。
「小菅か?」
「ジュン、いいから」
間に入ろうとする菊を吉岡が庇った。俺は男たちに目を向け、返事を待つ。
「今は、そうかもしれないな」
「いや、俺たちがついているのはもっと上の人さ」
男たちは笑った。
「大村もいるのか?」
俺は続けた。
「ああ。しかし、大村さんは甘い。契約書にサインさせればいいんだろう? 何しろ金になる物件らしいじゃないか?」
スーツ男が俺を探るように見た。
「金か。それで解決できれば安いものだが……小菅と大村に会わせろ」
「お前、何様だっていうんだよ?」
丸い方がすごむ。
「あの物件を管理している。セキュリティーを入れているのも俺だ」
「へえ……」
スーツ男は目を細めた。
「それなら連れて行ってもいいが、高くつくかもしれないぜ?」
「構わない」
「よし、ついて来い。おい、お前は女について行け」
俺を連れて行くことに乗り気になったスーツ男が丸い方に言った。
「こいつらが警察沙汰にするようなら?」
丸い男が菊と吉岡を顎でしゃくる。
「俺たちには後藤さんがついている。心配いらないさ。それより、お前はさっさとこいつにサインをさせろ」
「そうだな」
「ジュン、行く必要ないわ。これは私の問題だから」
菊がきっぱり顔を上げた。
腫れあがった顔が痛々しい。
「俺の問題でもあるんだよ。吉岡」
「はい」
菊を押えた吉岡が頷く。
「ジュン」
「アートがいるから」
もちろん菊を安心させるつもりで言ったのだ。だが、これには予想以上の効果があった。菊がほっとしたのがよくわかる。俺はそんなに頼りないのか……複雑な気分になったが、それはこの際後回しだ。俺は煮えくり返るはらわたを抑えてスーツ男について行った。
男は来た道を引き返し、歩道を歩く。男の雰囲気が悪いせいか、それに気づいた人々が距離を置く。それがまた男をつけあがらせる。俺はうんざりした。
「ここだ」
やっと男が立ち止り、指をさしたのは一軒の雑居ビル。大通り沿いには飲食店が続いていたが、そのビルの一階も飲食店が入っていた。しかし、営業はしていない。昼が終わり、五時以降からまた営業になるらしかった。
エレベーターに乗る。
案内によると二階はカラオケ、三階にはバーやスナック、四階以上はコスゲリアルエステートとある。
エレベーターのドアが開いた。
「ここまで来てビビるなよ」
スーツ男が俺を振り返る。くだらない……俺は肩をすくめた。