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「菊ちゃん、菊ちゃん、いるんだろう?」
勝手口から大きな声がした。
「大村?」
「らしいね」
菊は俺に頷くと立ち上がり、大股に勝手口に向かった。
俺も一緒だ。
大村は小柄で小太りの男だった。骨董を扱う美術商と言いながらも洒落た鮮やかな縞のシャツの上から皮のジャケットを着ている。薄い髪はよく撫でつけられていて、愛想よく笑っているが、どこか計算高そうな男だ。
「大村さん、こんな時間に何の御用ですか? 家のことなら売らないって言ったでしょう?」
言葉はどうにか押さえているが、腰に手を当てて立ちふさがる菊の姿は早くも戦闘態勢に入っている感じだ。
一方、大村はにこやかに菓子折りを差し出した。
「菊ちゃん、お母さんのことはいろいろ大変だったね。なに、菊ちゃんがね、こっちにいるって聞いたから……直接会って話した方がいいと思って寄ってみたんだ。ああ、これ、食べておくれ」
「でも、家のことは……」
「そうそう、その話だ。知り合いに相談されてねえ。これはいい話だと思ったんだよ。それですぐ花鈴で菊ちゃんの番号を聞いたんだが、電話じゃなかなか話が伝わらない。よかったよ、ちょうどこっちに来ていて」
「売る気はありませんよ」
菊はぶっきらぼうだ。
「どうしてもかい? 惜しいねえ、この家と土地に相場以上の金を出すと言っているんだが。こんないい話はないよ? 維持費だって大変だろ? 若い人は、ほら、マンションとかさ、そんな方がいいんじゃないかい?」
菊は首を振る。
「残念だねえ、このまま買えるなら調度品や美術品込みでさらに払ってもいいと言っている。相手は都内の人だよ。不動産の売買やリゾート開発をしていて……いい話なんだけどねえ……」
大村はいかにも残念そうに菊を見た。
「菊ちゃん、私は一人残ったあんたが心配なんだよ。これだけ言っているのにだめかい?」
「大村さん、母がお金を残してくれたから。いくらもらっても売る気はないの」
「まったく……こっちが下手に出れば……何て強情な小娘だ」
大村は露骨に不機嫌になった。
「そんなところまで母親そっくりじゃないか。情けをかけてやろうと思ったのにあの女は……おまえもそうやって男を連れ込むとはいい度胸だ」
「失礼ね。この人は楓おじいさんにゆかりのある人なのよ。さあ、わかったら出て行って」
「あとで困って泣きついても知らんぞ」
大村が捨て台詞を吐いて出て行く。
「誰が泣きつくもんですか」
菊は真っ赤になって怒鳴り返した。
俺はキッチンの椅子に腰を掛けた。初めてこの家を訪れた時三人で夕食を食べた席だ。それから思いついて立ち上がった。
「コーヒーでも飲むか?」
俺は食器棚からコーヒーカップとコーヒーメーカーを出し、豆を探した。
「豆なら冷凍庫の中にあるはず……まだ飲めるかなあ」
菊はどすどすと床を鳴らして歩き、大きくため息をつくと豆をひき始めた。
「外で飲んだ方がいいか?」
「物は試し」
コーヒーは相変わらずいい香りがした。
「菊、今夜はどうするんだ?」
「明日から後片付けをしようと思っているの。今日はここに泊まるつもりだけど」
「後片付けなら俺も手伝おう。それと菊、頼みがある。片付けの時にプランティンの部屋を見せてもらえるか? 前に来たときは鍵がかかっていたが」
「うん、鍵はあるはず。用意しておくわ。ジュン、ジュンもここに泊まる?」
「いや、さっきも大村が言ってたろう? 菊の名誉のためにも俺は駅前のホテルにでも泊まるよ」
「私の名誉」
菊は肩をすくめた。
「私の名誉のことで傷つく人なんか誰もいないんだから平気よ」
「それでも、だ。とにかく夕飯にしよう」
俺は菊を急かして屋敷の外に出た。
冷たい風が吹いた。
千住邸から歩いて駅の方へ向かう。商店街やその裏路地に点々と明かりが灯っていた。
「あ、ここ。ここにしない?」
菊が赤ちょうちんの下がった小さな店の前で止まった。
「お母さんと以前よく来てたの。おでんとか、おいしいよ?」
「そうしよう」
俺は何でも構わなかったのですぐに同意した。
狭い店内は半分ほど埋まっていた。常連客の多そうな店で、これからまだまだ客が来そうな雰囲気だ。
「いらっしゃい、菊ちゃん」
初老の小柄な女が声をかけた。
「予約が入っていて……カウンターでいい?」
「いいよ」
菊が元気に答える。
「だけど、菊ちゃん、久しぶりだねえ。きれいになって。彼氏かい?」
水とメニューを持ってきながら女はじろじろと俺を見た。菊は目を丸くして笑った。
「おじいちゃんのゆかりの人。そろそろあの家の中も片づけなきゃと思って……手伝ってもらうの」
「そうかい……だけど片づけか……そう言われると寂しくなるねえ。あの家、売るのかい?」
「ううん、まだその気はないんだけど……」
「ま、外野が口を突っ込むことじゃなかったね。さあ、何にする?」
「今日のお刺身盛り合わせ、おでん、焼き鳥、季節のサラダ」
菊がすかさず言った。
「みんな二人前でいいかい?」
「ああ、それと日本酒、熱燗で」
俺が言うと菊はまた目を丸くした。
「飲めるだろう、菊?」
「もちろんだよね、菊ちゃん。お母さんとよく一杯やっていたじゃないか」
「ふふ、懐かしい」
菊は少し涙ぐんだ。
店の女も涙ぐむ。
「おい、お客」
カウンターの向こうで料理していた主人らしい男が声をかけた。
「あいよ、まったくうるさいねえ。菊ちゃん、今日はゆっくりしていきなよ」
女はそう言うと小走りに店の奥に消えて行った。
「そういえば、あの人はどこ? いつも一緒じゃない?」
「ああ、アートのことか? アートならどこかにいるよ」
「ジュンのボディーガードだって言ってたね?」
「秘書兼、だ。きっとどこかで見張ってる。人外の俺が厄介ごとに巻き込まれないように」
「まさか……二十四時間勤務?」
「それはいくらアートでも無理だ。アートには部下がいるからうまく回してる」
俺の携帯が鳴った。
「アートからのメッセージだ」
「何?」
「キャピタルホテルに部屋が用意してあるそうだ」
「ジュンがVIPだってこと忘れてた」
菊は何気なく言ったのだろう。だが、俺はちょっとした疎外感を感じた。だが、疎外感なんて……それ自体おかしいじゃないか? もともと俺はこの世界の者じゃないのだから。
目の前には菊の注文した品々が並んでいた。
俺は店の女が運んできた熱い酒を菊の猪口に注いだ。
「徳利と猪口かあ……いいなあ。いつか作ってみようっと」
菊は猪口ごと味わうように酒を飲んだ。
「うん、おいしい」
俺も菊の注いだ酒を口に含む。喉を通るとふわっと甘い香りが膨らんだ。
「菊、蘭さんがやっていたフラワーショップ、花鈴の経営の方はどうなってる? まだ営業してたよな?」
まとわりつく酒の香りを楽しみながら俺は聞いた。
「うん、お店を任せる人と花を生けられる人を雇って続けてる。お母さんのようには花を生けられないけど、やはり生きた花には需要があるのよ。それとおしゃれな鉢物を置いたら若いお客さんが結構来るの。あ、泉さんにも来てもらってるよ」
「なるほど……そうやって花屋のチェーン店でも作るのか?」
「どうかな。私がしたいのは焼き物だから。家の片づけが終わったら本格的に卒論と卒業制作の追い込みに入らないと」
「何をするんだ? 確か、菊はフランス語をやっていたようだが」
「何でも知ってるね。そう、フランスの陶芸と日本の陶芸を語りつつ、淡久先生のところで制作したものも添えてだめ押しをしようってわけ」
「それでいいのか?」
「フランス語で書くんだから。それだけでも大変なんだよ。それに専攻に美術も入っているからありなんだ」
「ふうん」
まあ、そんなものなんだろうと思いながら食事にする。
「おいしいでしょ」
「ああ」
確かに何を食べてもおいしい。
「さ、菊ちゃん、好きだろう? あなたもいかがです? しかし、まったくいい男だねえ。外国の人? ハーフかね?」
「はい」
俺は適当に答えた。
「いいねえ、ハーフって。すごいハンサムだ」
女が菊と俺にアイスクリームを置いた。
店の女と店主に挨拶して外に出る。俺は菊を送って千住邸まで歩き、そこから駅前のキャピタルホテルへ歩いた。
やはり……途中でアートが姿を現す。
「楽しかったですか?」
「ああ。アート、ホテル助かった」
「何の。十分予想の範囲内です」
「千住邸のセキュリティーを頼む」
「わかりました。あの美術商、胡散臭い感じですからね」
アートはすぐに答えた。
この男は何でも打てば響くように答えてくれる。
「ル・ウェイのコンピューターは優秀だな」
「私を選んだあなたの一族のコンピューターですね?」
アートは苦笑した。
「ジュン、もっとはっきり言ってくれていいんですよ? アートは優秀だ、お前がいてくれてすごく助かるとね」
アートは俺が幼い時からそばにいた。学問もスポーツも武道も教えてくれて気心が知れている以上の存在だ。だが、俺のことを、ほんとうのところをどれほどまで知っているか……まさか、人外だとは思っていまい。ただ、俺が特殊な一族で受け継ぐ財産が莫大であること、知らされているのはその程度のはずだ。
「確かにお前の記憶力には舌を巻くよ」
俺は素直に言った。
「私はあなたのその金儲けの才が羨ましいですよ」
「金が必要なのか?」
「大抵のことが叶いますからね。でも、今以上に必要というわけではありません」
アートはいたずらっぽく笑った。確かにアートには桁外れの金が支払われているはずだ。ル・ウェイの者を守る地球人はコンピューターによって厳選され、その生活も何重にも監視されることになる。それを承知した者だけがこの任に着くのだ。
仕事帰り、道行く人々が俺たちを振り返る。
「そんなに珍しい、か……」
思わず口から出た。
アートが呆れたように俺を見る。
「おやおや、どうしました? 今に始まったことじゃないでしょうに」
「なんでもない。ところでアート、ベティーには会っているのか?」
ベティーはアートの恋人だ。
「どうしたんです、急に?」
「世間では放って置くと忘れられるらしい」
「ご心配なく。私は要領がいい方なので」
アートは澄まして言った。アートならばそうなのだろう。アートなら……すべてが滞りなく進むのだ。
キャピタルホテルは目の前だった。




