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緑が眩しい五月のことだった。俺とアートは、とある田舎町を見下ろす丘の木陰に立っていた。もうすぐ待ち人……といっても向こうは俺のことなどまったく知らないのだが……が現れるはずだ。
彼女は大学三年生。
彼女は都心の大学から帰省すると、決まってこの丘にやってくるのだそうだ。
自宅の前で待てば目につくとアートは言う。そこで、これもまたアートの提案通り、ここで待つことにしたのだ。
彼女は友プランティンの血を引いている。だが、そのプランティンはもうどこにもいない。
プランティン……俺たちは故郷の星ル・ウェイで長く生きた。そして、たとえまどろみながらだったにしても……気が遠くなるほど長い時間をこの星で過ごした。一緒に旅した仲間は時が来た者から順にこの星で新しい生を受け、プランティンのようにこの地に溶け込むか……あるいは、宇宙船に戻って最期を迎えている。
それも……俺で最後だ。
もう、誰もいない。ならば……
「死んでもいいですか?」
俺はぎょっとした。
そのセリフは今、俺の口から出るはずだったのだ。
ただ、その声の調子はいかにもあっけらかんとして、まるで空に放り投げるかのようだった。俺が発するはずだった重々しさは微塵もない。俺は呆れてその声の主を見た。どうせ、ちょっとしたことで弱音を吐く、意気地なしの人間に違いない。それでいて口だけは達者なのだ。
「千住菊嬢ですね」
アートが耳打ちした。
「あれが、菊……」
俺はついさっき呆れたことも忘れて、誰もいない見晴らしのいい丘に立つ彼女にプランティンの面影を探した。遺伝子の調整を行ったプランティンの髪はブラウン、そして瞳は緑だったはずだ。プランティンの孫にあたる菊の髪は一般的なこの国の人々と同じ黒。瞳はかなり明るめの茶だ。すんなりと伸びた手足といたずらっぽい微笑。
菊は自転車に乗ってここまでやって来たようで、傍らには古くて、乗りづらそうな自転車が放り出してある。そんな自転車でこの丘を登って来たのだから、体力だけはあるのだろう。
菊はしばらく丘から小さな町を見下ろしていたが、大きく息を吸って
「な~んてね」
と付け加えた。
それからまたさっさと古い自転車にまたがり坂を下りていく。
まったく言葉が軽いにも程があると俺はため息をついた。
「ジュン、車へ」
アートが声をかける。
だが、俺は菊から目が離せなかった。
というのも菊の自転車は丘の坂を下るうちにどんどんスピードを増していったからだ。菊のぼろい自転車がガタガタ、キーキーと悲鳴を上げる。俺は林のトンネルの先、菊とそのぼろい自転車の行く先を見てさらに焦った。菊が下りていく坂は車道と合流している。その車道は近道をして山道を抜けてくる車が多かった。
案の定、右手からはかなりのスピードの車が現れ、菊の自転車と激突……というところで菊は派手に急ブレーキをかけ、車道に合流する少し手前にあったわき道を左手に折れた。
「な~んてね」
さっきの菊のセリフが俺の中で響く。
「元気のいい御嬢さんだ。さあ、お宅に伺うのでしょう?」
アートに促され、俺は丘の頂上にあるパーキングに戻った。アートの黒のクーペが音もなく動き出す。
間もなく俺たちは菊に追いついた。
菊は丘際に続く瀟洒な新築住宅の間を縫って自転車を走らせ、やがて自転車は旧市街に入った。今、この国の多くの地方都市がそうであるように、高齢化が進んだ中心街にはシャッターの降りた店が目立つ。アートは菊を追い越し、商店街から道を一本入ってごちゃごちゃした店や住宅の前を通って緑の木々が目立つ一角へ出た。大して広くない道に沿って、幅二メートルほどの立派な堀が続いている。その内側には朽ちた塀がこれもまたずっと続いている。
アートが車を止めた。
後からやって来た菊の自転車が止まる。菊は自転車を降り、堀にかかった石の橋を渡り、瓦屋根の乗った大きな門の前に立った。かつてはさぞ立派な門だったのだろうと思われるその両開きの分厚い板の扉の上には横文字のセキュリティーサービス会社名のステッカーの代わりに
「危険!近づかないでください」
と墨で黒々と書かれた張り紙がある。門は傾いており、瓦屋根の隙間から草が顔を出し、門の周りも雑草だらけ……となれば、危険なことも、近づきたくないことも伝わると思うのだが……再び呆れながらも車窓から門を眺めていた俺は、そこにかかっている表札に目を止めた。
「千住楓」
そう、プランティンは楓と名乗っていたのだ。
その文字は門の扉と同じくらい古い木の表札に墨で黒々と書かれていたはずだが、今ではよく目を凝らさないとわからない。俺が目を凝らしているうちに菊は大きな門の隣にある小さいくぐり、戸を開けると自転車を転がして中に入って行った。
目くばせするアートに頷いて俺は後を追う。
「すみません」
俺はなんとか菊が勢いよく閉めた戸にぶつかることも、頭をくぐり戸の桟に打ち付けることもなく、敷地に入った。
「ごめん下さい」
くぐり戸をくぐった俺はそう言いながら、そこに広がる庭を見た。
あの崩れかかった門の先には、何台か車を置けるスペースがあり(雑草だらけだったが)、そこから石の並べられた道が庭園(今は手入れもざれず木々は勝手に枝を伸ばし、下草は生え放題、池に至っては底なし沼のような様相を呈していた)へと誘い、先にある純和風の家の正面玄関まで続いている。
(廃屋……廃寺のようだな)
俺が感慨に浸っているうちに菊は庭の横手にある蔵に自転車を入れ、ここでも正面から入らず、家の脇にある勝手口から家の中に入った。
「あの……」
思案しながら後を追い、様子を窺うと、窓から見えたのは厨房、いや、近代的に改装されたキッチンだった。きれいに磨かれ、どこの家庭にでもある電気器具が置かれている。
菊は荷物をダイニングの椅子の上に置くと、手際よく冷蔵庫から、卵やバター、牛乳を取り出し、棚から砂糖、小麦粉、そしてボールと型と泡だて器を用意した。オーブンを暖めているうちに作業を進める。どろどろになった種を二つあった型に流し込んでオーブンに入れると、今度は改めて部屋のあちこちを物色し出した。
「ちゃんと暮らしているようね」
一人頷いている。
引っ張り出したコーヒーメーカーを点検し、冷蔵庫から豆を取り出して調べる。
俺はいい加減このままでいるわけにもいかないと思い、勝手口を開け、声をかけた。
「あの、お忙しいところ申し訳ない」
「きゃあっ」
菊は大声を上げ、その割にはすぐに冷静な顔をして俺を見た。
「どちら様ですか?」
「あなたの祖父、千住楓の知り合いの、世耕ジュンと言います」
「楓おじいちゃんと知り合い? あなた、私と大して年が変わらないじゃない? おじいちゃんは私が小さい頃死んだのよ?」
菊はあからさまに俺に疑いの目を向けた。
「それは、そうなのだが……千住蘭さんは?」
「母ならここにはいないわ。仕事中です」
「仕事? ああ、確か花屋さんでしたね」
「あなた、本当におじいちゃんのこと知っているの?」
菊は油断なく俺を窺う。
「同族、だから」
俺が答えると、菊はすうっと目を細めた。
「……あとでお店に案内するわ」
「そうしていただけるとありがたい」
俺はほっとして頷いた。
「とにかく、おあがりください。散らかっていますけど」
「失礼します」
俺は勝手口から千住邸に上り込んだ。
オーブンに生地を入れた菊は忙しくキッチンに続くダイニングルーム、サンルーム、おそらくこの家の主、蘭が使っている居間、寝室を覗きながら埃のチェックなどをしている。
手持無沙汰だった俺も菊の後について部屋を覗いて回った。楓の名前が効いたのか菊は俺の勝手にさせている。
菊がまた別の部屋に入った。
窓が開かれており、気持ちのいい風が通っている。この部屋も改装され、洋間となっていた。漆喰の壁にアンティークな机、本棚、ベッドが置かれている。おそらくここが菊の部屋だろう。この部屋の隣は浴室。先には使っていない六畳ほどの部屋が二つほど。かつての女中部屋だったと思われる……大きな家だった。
菊はキッチンに戻ったが、俺は菊がキッチンで作業をしている間、さらに家の中を見て回った。庭を眺められる廊下を通って一段と凝ったつくりの一角に出る。まずは洋風の客間。ただし、かなりの年月使われることも、立ち入ることさえなかったようだ。それに続く部屋はプランティンの書斎だったのだろうか。この部屋とその続きの間には鍵がかかっていた。俺は後ろ髪をひかれる思いでその前を通り過ぎ、立派な床の間の付いた和室を覗いた。手すりの付いた濡れ縁の先は、今は荒れ果ててはいるが、かつては庭園だったと思われる。それにしてもこのあたりは埃だらけだ。
「スリッパをはいて、世耕さん。足の裏が真っ黒になるから」
菊は思いついたようにキッチンから声をかけた。
「ああ、ありがとう」
手遅れかもしれない……菊の大きな声に答えながら俺は廊下に立った。立派な木材を使った廊下は正面の玄関へと続いている。要するにこの家は正面玄関に向かって右側で人が暮らし、左側は長いこと使われていないというわけだった。家の裏も見てみようと思ったところで菊がやって来た。
「お待たせ。行きましょう」
菊は甘い香りに包まれていた。家の奥を見そびれてしまったが、また機会もあるだろう。いや、それよりも俺は菊があまりにも不用心な気がして言わずにはいられなかった。
「いつも客を勝手に歩き回らせるのか?」
この際俺のことは棚上げだ。
「ご心配なく。そんなことはないから」
「だが、現にこうして……」
「だって、あなた楓おじいちゃんの同族って言うんだもの」
「……その意味がわかっているのか?」
「小さい時おばあちゃんとお母さんが話しているのを聞いた」
「信じたのか?」
「さあ」
菊は俺の後ろで勝手口の戸を閉めた。それから小さな袋を自転車のかごに入れ、ゆっくりと慎重に自転車を転がし始める。
千住邸の塀の前に置かれていたアートの黒のクーペの姿はなかった。