ディス・オーダー
ディス・オーダー
ぼくはもともと、小説なんて一切読まない人間だった。読む本と言えば、新書や参考書の類ばかり。作り話なんて読んで、それがいったいなんになる? そう思っていた。なんの情報ももたらさない文字の羅列、絵空事に、金をかける人の気持ちが知れない。ましてやそれをありがたがって拝読して、笑ったり泣いたりするなんて、ぼくにとっては狂人の所業としか思えなかった。
それはもちろん、ぼくが抱える障害のせいもあったのだろう。
アスペルガーとADHDを併せ持つぼくは、読書に向く人間とはいいづらかった。まずじっとしていることが困難だし、文章から映像を思い浮かべることができない。ぼくにとっては文字は文字でしかなく、いわゆる“行間を読み取る”ということができなかった。登場人物は何百ページ読もうが“人物”として浮かび上がってくることはなく、単にどんどんと条件が追加されていくXやYでしかない。頑張ってそのXやYがどういうふうな感情を持ち、次にどんな行動を起こすのか予測しようとするものの、それらは常に自らに課せられた条件=キャラクターどおりに行動するわけではなく、たとえば“虫も殺さぬ聖人”と説明されたXが、実は連続殺人の犯人だったりすることがある。そんな矛盾(としか思えない)に出会うと、今まで苦心して築き上げてきた全てが崩壊してしまい、なにもわからなくなってしまう。
当時のぼくに言わせれば、「小説なんて読める方がおかしい」ということになる。まぁそれは、実はひそかに、今もそう思っているのだけれど。
そんなぼくが本の虫になり、あまつさえ自分で文章を書くようにまでなったのは、一人の悪友のおかげ――せいだ。
「お前が俺に勝てないのは、お前が本を読まないからだ」
クラスで一番成績の良かった阿久津は、クラスで二番目のぼくにむかってそう言った。
ぼくにとっては勉強がすべてだったのに、どうしてもこいつには勝てなかったのだ。
ぼくが通っていた高校は、いわゆる特別支援学校だった。なんらかの理由で普通の学校に行けない人間たちが行くところ。だから、偏差値なんてない。いい大学に多数進学者を出す高校を一流高校というなら、ここは三流ですらない。アウトカーストだ。
しかしぼくは、もともと一流高校に合格していた人間だった。紆余曲折を経てこんなところに流れ着いてしまったものの、本来はこんなところにいるべき人間じゃない。お前たちとは違うんだ――!などと息巻いていたのだ。成績で二番をとっていいわけがない。
阿久津は、是が非でも倒さなければいけない人間だった。
だけど、どうしても勝てなかった。
もともと殆ど努力ということをしたことがなかったぼくが、その時だけは本気を出した。人相が変わるほどに勉強した。命懸けだった。こんなところで負けるなら生きていても甲斐がないから死のうと思っていた。できる限りのことをやってテストに臨んだ。それでも、負けた。
ぼくはなんだかおかしくなってきて、ゾンビみたいな顔で阿久津に「どうやったらお前に勝てるんだよ」と聞いた。その答えが、先の言葉だったのだ。
本を読め。そう言って阿久津は、数冊を貸してくれた。確か最初は、コンラッドの『闇の奥』。シェイクスピアの『ハムレット』、カミュの『カリギュラ』だった気がする。まったく容赦のないラインナップだった。
だけれどぼくは、読書に耽溺した。
登場人物の心情が、手に取るように分かるのだ。
なぜなら、そこにいたのは誰でもない、『ぼく』だったから。
マーロウもクルツもハムレットもカリギュラも“はぐれもの”だ。ほんのわずかな例外を除いて、誰も彼らを理解しない。ほとんどの人間は彼らを狂っていると恐れ、笑う。
それはぼくだ。ぼくらだ。
読めないはずがなかった。
『ファウスト』を読み終わった後、ぼくは阿久津に問いかけた。
「この本も、ぼくには『人生は苦でしかないからはやく死ぬ方がいい』といっているように思う。どう思う?」
「違うな。ファウストは最後救済される。グレートヒェンが待つ天国へ行く」
「とってつけたようなハッピーエンドだ」
「死後の救済を信じろ、ということ」
「信じられるわけがない。結局最後は神を持ち出す西洋人にはうんざりだ」
「信じないのか?」
阿久津はぼくの眼を見据えた。不思議な、澄んだ眼だ。
「それは信じるべきだ、という話か? パスカルの賭け?」
「なぜ信じられない?」
「なぜと言われてもな……まぁ、悪魔なら信じられるかな」
「ではなぜ神を信じない。もし影を信じるなら、光を信じないわけにはいかない」
ぼくは劣勢を悟って、目を伏せた。土台、こいつに議論でかなうはずがない。
話題を変えた。
「進路はどうするんだ。大学には行くよな」
「行かない」
「将来はどうするんだ?」
「なにもしない。俺にはなにもできない」
「そんなの世間が許さないぞ」
「世間じゃない。それはお前が許さないだけだ」
ぼくはムッとした。しかしそれは正論だった。
「許してやれ」阿久津は言った。「なにもできない。それが俺たちのディスオーダーだ」
「障害を甘えに使うなよ」
「障害じゃない。ディス・オーダーだ」
「ディス・オーダー……? This order?」
「そうだ。天命」
阿久津は興味を失ったようにぼくから目線を外した。
珍しく、彼が質問した。
「大学には行くのか?」
「ああ」
「読んでいるはずだ。手に入らないものを求めるなら狂うしかない。お前は月を欲しがっている」
「……」
『俺は月が欲しかったのだ』とは狂王カリギュラのセリフだ。それがお前だと言われて、ぼくに返す言葉はなかった。
あとは沈黙。
ぼくはその後大学に入った。高校を離れてから阿久津とは会っていなかった。ケータイもPCも持つような奴じゃない。会いたいとは思っていても、会う手段がなかった。
けれど、高校時代の友人の葬儀に参加した時、幸運にも彼のその後の行方をしっている人に出会った。ぼくは居ても立っても居られず、会いに行った。ぼくをわかってくれる人間は彼しかいなかったから。悩んでいたぼくは、すがった。
彼は、精神病院にいた。
彼のお母さんに許しを得て(意外にもふつうの人だった)、病棟に入ると、そこは想像と違って居心地のよさそうなところだった。どことなく、ぼくらが通った高校に似ていた。
三年ぶりにあった阿久津は、しゃべらなかった。
ずっと自室で本を読んでいる。話しかけても、顔さえあげなかった。医者が言うには、誰に対しても、もう、そうなのだと言うことだ。彼は完全に狂ってしまった。世界から自分と本以外のすべてを消してしまった。
だけど、ぼくにはそれがどうしても信じられなかった。
根拠があるわけじゃない。ただ、なんとなくそう思った。
だからずっと、日がな一日何も言わない阿久津を眺めて過ごした。
そして、面会時間が終わる寸前、阿久津は少しだけ動いた。傍らに置いてあるノートを開いて、ペンを握った。
まっさらなページに大書して、ぼくに見せた。
「堕ちよ、生きよ」
顔をあげず、一言も発さず、それだけ。
やっぱりお前、狂ってなんかないんじゃないか!
ぼくは興奮して話しかけたけれど、もう時間だ。無言で見つめる看護師の視線に刺され、後ろ髪を引かれる思いで病棟を出た。
陽は、とうに落ちていた。
病院は辺鄙な場所にあったため、ぼくは車で来ていた。山の中に切り開かれた駐車場は、とてつもなく広い。普段30分500円のコインパーキングばかり見慣れている身にとっては、信じられないくらいに。
上空には、邪魔するもののなにひとつない、広大な夜空が広がっていた。
青ざめた背景に、自分の正気を疑ってしまうくらい、大きな月が浮かぶ。
「堕ちよ、生きよ」
一言も交わさずとも、阿久津にはお見通しだったわけだ。
ぼくはまだ、月を欲しがっている。




