夢を食う烏〜最終章〜
また今日も生きていて、私は黒猫の頭の上であくびをする。
世界は徐々に黒く染まり、決して癒えることの無い傷がざっくりと穴を開けて微笑んでいるようだ。
吐き捨てるような歌が、店内に響いている。歪んだギターの音色、その苦しみ。いくつもの音が一寸の狂いなくリズムにのった瞬間、背筋がゾクゾクするような快感に包まれる。
仲間は皆、死んでしまった。
この島にはもう一羽のカラスも存在していない。
それなのに人間様ときたら、未だにカラスの存在に怯えている。私は人間様の気の小ささに飽きれているのだ。
素晴らしく便利になった世の中に、飽食の時代。娯楽は腐る程あり逃げ道も数えきれない程存在している。
そんな世の中で、たった一匹のカラスの影に怯えている人間様ときたら、哀れでならない。
私は黒猫の頭の上で、世界を見渡している。廃墟になったビルディングが目立ち、昼間だというのに暗く陽の光を遮ってしまう。この街の作りに私は反対だ。
人間様の数は減り、大きな企業は撤退し小さな商店街だけが生き残っている。人間様同士が協力して生活している様子が伺える。
私の主は以前この八百屋のバナナをよく食べていた。奥の部屋では老婆がこちらの様子をニコニコ顔で伺っていたのだ。古い記憶ではあるが、最近のことのような気がして、私はまた焼けた羽の部分に痛みを覚えた。
黒猫は千代の自宅へと足をはこんだ。昨日の夜みた死体が、本物かどうか確かめて欲しいという。
「小さな子どもだった気がします。それに内臓が飛び出てて・・・」
内臓が飛び出た死体、となれば犯人はカラスだということになるだろうか。だがこの街はおろかこの島にカラスは生息していないのだ。
私は一向に枯れることの無い花びらの間で、居心地の悪さを感じていた。呼吸が浅くなり、私は主の不在中にも黒猫の頭の上でこうして世界を見れたこと、それらに感謝した。
千代は昨日の夜見たと言う死体の場所まで、私たちを案内した。
コンクリートで作られた川は、殆ど水が流れておらず、どこからか流れついたゴミが溜まっている。
枯れた桜の花びらも、私の横で枯れる気配のない薔薇の花びらにも、皆の目には平等に写っていることだろう。
潰された頭蓋骨からは大量の白い脳味噌が流れていた。私は、その量に驚くとともに、周りに群がっているはずのカラスの姿がない事を確認した。
半ズボンの、ランドセルを背負った男の子はやはり目をくり抜かれていた。そして私は、その男の子の頭に昨日まで乗っていたことを思い出していた。
変わり果てた姿の男の子は、白いシャツを真っ赤に染めて私たちを睨んでいた。この世の恨みを吸い込んだようなブヨブヨの皮膚。少ない水の流れに任せっきりの内臓は、綺麗なピンク色をしている。
私は今、千代の夢の中にいるのだろうか?
私は、人間様の死に慣れてしまっている。
死体をまじまじと観察し、それを記憶することが出来る。それがどうして悲しいなどと思うのだろうか。どうして羽の傷が痛むのだろうか。
昨日の男の子の笑顔が夢なのか、この死体が夢なのか。
知能遅れが本当なら、あの脳味噌の量は何であろう。骸骨の女なんかより比べ物にならないくらいの量だ。そして、カラス達は脳味噌を食べずに飛び立ったとでもいうのだろうか。
これは、カラスの仕業ではないことは確かである。
誰かがカラスの仕業に見せかけているに違いない。
そしてそれは、人間様以外にあり得ない。
私は羽の傷がひりひりと痛み出し熱を帯びていることに気付いた。
帰り道を忘れて、私はどこへ飛び立てば良いのか分からなくなった。もう主がいないこと、私は帽子の飾りとして黒猫の頭の上で揺れていること、何だかその事実に靄がかかってしまったように認めたくなかった。今更、どこへ向かうというのか。私はもう主の身体から抜け落ちた羽でしかないというのに。
空を飛べないということが、こんなにも悲しいことだなんて思ってもいなかった。私は純粋に、空を飛ぶことが好きだった。雨の日も風の日も、雪の日も。
飛べなくなった今、私は帽子の飾りという余生を全うしよう。それが私の最後である。そんなことはきっと、特別なことじゃない。自然な流れなのだ。
ロバートは、何も変わっていない。それは本当だ。
相変わらず眼帯をしたままのカエル、学校に行かなくなった千代、多くを失ったがまた朝がきていつものコーヒーを煎れる黒猫。
「えぇ、少し。子どもを亡くしてしまったものですから」
あの母親を除いては。
「そうなの。私も、子どもを亡くしてしまったばかりで、だからその気持ちは凄く良く分かるわ。」
そうして演じた狂気を纏って。
「私の子は、少し知能の発達が遅れていたけれど、でもだからって何故?どうしてカラスなんかに・・・」
宝石のような輝きに目が眩んで
「そうよ、私。旦那に焼身自殺されたのよ。あの子だけだったのに」
盲目の母親の目に映らない子ども
「急にいなくなってしまって・・・」
大嘘。子どもなんて早く死ねば良い。あたしの足手まといになるような子どもなどいらない。
「カラスの事件で、全てが変わったわ」
やっとあたしの理想の生活が手に入った。
「戻れるなら、あの夜に戻りたい」
戻れるなら、旦那と出会う前に戻りたい。
「もう若くない私の、たった一つの希望だったのに」
もう若くない私は、あんな子の為に頑張れない。
「せめて、私がもっとしっかりしていたら」
せめて、あの子の頭がもっと良ければ。
「せめて、私の旦那が生きていたら」
せめて、遺伝子が違ければ。
「全部、他人のせいなのね」
帽子の下で、地鳴りのようなうめき声が聞こえた。私はハッとして、黒猫の意識に集中する。
アナタガコロシタンデショウ
いくつもの声が重なって、畳み込むように降り掛かる。今の声は誰のものだ?
「カラスはもう、どこにもいない」
作り物の眼球がコップの中に浮いている。カラスの黒い羽が、生け花のように飾られていて、それはまるで怨念の塊のようだった。ゾッとした女は、黒糖焼酎を飲み干し、店を出ようとしている。
「ごちそうさまでした」
黒猫の目が一瞬、牙を剥いた猛獣のように光った。
「今日のお通しはいかがでした?」
焼酎一杯で食べ切ったお通しは、お酒にとてもよく合い美味しかったと女は答えた。
「実はそれ、私の子ども達の肉なの」
「子ども・・・?あなたの?」
血の気が引いていくのが分かる。いい気味だ。
黒い羽は、カラスの羽だという。人間の血をたっぷり吸った羽だ。
そう言って、黒猫は黒い羽を指差す。
黒い羽・・・カラスの羽・・・
「あんたの旦那が殺していた、カラスよ」
黒猫の目が、鳥類独特な目の動きに変わった。落ち着きなくあたりをキョロキョロと見回し、首を傾げる。
女は、そこに何百羽のカラスを見た。そのカラス達は怒りに狂っている。ヒステリックな鳴き声と、断末魔の叫び声とが散らばり、黒い羽が抜けていく。床が黒い羽に埋め尽くされ、店内を飛び交う真っ黒な生き物と、中心に佇む黒猫が女を取り囲み威嚇している。
私は突然現れた仲間達に吃驚したが、仲間達は私になど気付くこともなく、私の周りをグルグルと周り興奮を押さえきれないでいる。
女は、いるはずもないカラスを幻覚だと思った。もう都会にカラスはいないはずだ。牛のような旦那がどうやってカラスを駆除していたのか今となっては謎だが、とにかくカラスは持ち前の頭脳を酷使し、都会は危険だと判断したと牛のような旦那は言っていた。だからもう田舎にしかカラスは生息していないのだと・・・
「あなたは私の子ども達と自分の子どもを殺したのよ」
黒猫の目に涙が浮かぶ。大粒の涙に映るのは子どもの姿でも旦那の姿でもなく、己の哀れな姿だ。
「それも数えきれないくらいのカラスを、ころしたの」
「あたしが何をしたって言うの?あ、あたしは何も、何もしていない!」
必死で振り絞った声も、羽音に掻き消された。カラスの嘴が女の頬をかすめ、血を流す。まるで涙のように美しい、と一匹のカラスが喋る。
「この子達は、あんたたち人間の身勝手な生活が生み出したのよ。」
利便性と効率だけを追い求め、その倍以上のゴミを出し、人々の弱みにカラスが入り込み、結果多くの命を奪った。
「勝手すぎるわ。自殺も他殺も、生きていく事も」
泣いていた。黒猫が、泣いていた。
表情は羽に埋もれて分からない。だが、赤い涙が頬を伝っていた。きっと今まで流した分の血液だろう。
そして女はその光景にとうとう目をそむける事が出来なかった。厭なものには目を反らしてきた人生と、他人を非難することで生き延びてきた人生に、そこで気付く事が出来たのだろうか。私は今まで何を見て生きてきたのだろうかと、思い出のない人生にハタと気付いたのだろうか。
「あなたが子どもにしたことを、私がしてあげる」
第十一章
また黒猫の頭の上で、私は飛べない羽を弄んでいる。
どうして殺してしまったのか、黒猫に問いても返事は無い。黒猫は何を背負おうとしているのだろうか。私には分からないままだ。四六時中側にいるのに、私は黒猫のバランス感覚が狂ってしまっていることにすら気付けなかった。
それは、私が揺れるリズムや感覚が不安定であり、ずり落ちる帽子を余計な力で押さえつける黒猫をみた瞬間に、私は黒猫の何かが狂ってしまったことにようやく気付いたのだ。
答えなど欲しているようには見えない。
未来を悲観しているようにも思えない。
まだ、死んでいない。
生きているのだ。そこには、赤い血が通っているのだ。
私は、いつまで息をしていられるか予想も出来ない自分自身に苛立ち、黒猫のことを思った。世界はまるで無神経で、こんな日に雨など降らす天を睨んだ。私はもうあの空に向かって唾を吐くことは許されないが、黒猫にはこの地に向かって嘔吐し続けて欲しいと思った。
さて私は、このフラフラした人間様をどう導けばよいのだろう。
先ほどからウイスキーの瓶を抱いている人間様。黒髪に隠れた顔は美しい美貌を保っているが、年々増えていくのは悲しみによる涙の線である。
不安定な足取りで、帽子をくれた男の子が浮かんでいた川を眺めている。コンクリートの上を流れてゆくのは、雨水により増した水と、黒猫の思い出。悲しい顔で無理矢理笑顔を作った男の子が、ママに会いたいと言った一コマ。
ママはあなたをどうして殺さなければならなかったの?
ママはあなたをどうやって殺めたの?
ママは、何故あなたを産んだの?
黒猫の疑問は晴れる事は無いだろう。人間様という欲深い生き物は、自分の子どもにすらその欲望をぶつけるのだ。それが愛情だと錯覚していることにも気付かずに。
我々カラスは、自立させた我が息子が巣に帰ってこようものなら威嚇して追い返す。お前の居場所はもう此処ではないのだという事を教える。そして、一人前になりお前も子孫を残すのだと、親カラスは使命を全うし死んでゆくのだ。
だがどうだ、人間様は一人前の子どもをいつまでも家の中へ閉じ込めようとする。そして、本当に閉じこもってしまう人間様が多いということ。
他の子どもと比べて、少しでも劣っていると恥ずかしいと言う。そして、あの子のように殺されてしまう。まるで玩具のように、使えないものは処分されてしまうのだ。
己が抱いている妄想を実現させようと、子どもを使う親も多いと聞いた。何故自らの夢を子どもに託すのかが私には不明だ。自分で切磋琢磨し達成した夢の方が、喜びもひとしおだと思うのは間違っているのだろうか。いや、きっと人間様は努力をせずに夢を叶えたいのだろう。
それはお金持ちになるとか、有名になるとか、名誉な賞をもらうとか、そういう排泄物並みの程度の低いものであるということだろう。
そうかと思えば、己の将来を悲観して子どもを作る親もいると聞いた。そのような人間様は、自由に育ててやった変わりに老後の面倒は必ずみろと吠えるそうだ。面倒を見ないと、やれ親不孝だ恩知らずだとのたうち回り、なかなか死んでくれない疫病神のような人間様に成り果てるのだそうだ。
私は、主の飛び道具から帽子の飾りになるまで、人間様の美しい親子愛を知らずに生きてきた。もしかしたら、人間様の親子愛というものはもともと醜いものであるのかも知れない。
何故、子孫を残すのだろうか。
親は見返りを必ず求めるだろう。それは人間様である以上仕方がないのかも知れない。
あまりにも自立している人間様が少なすぎる。
そして、その少数の中の人間様だと思い込んでいた黒猫さえも、今ではアルコール中毒になりかけている。バランスを保てなくなった精神は、肉体のバランスまでも奪ってしまった。
ウイスキーの瓶を持っている事で辛うじてバランスを保っているだけだ。
だが彼女は、今まで自立した一人前の女として生きてきた。もうそろそろいいだろうと、思っている事も事実である。私の余命も短いだろう。この辺で、終わりにしても良いじゃないかと、それは諦めではなく別の世界への旅立ちを意味している事だけはお伝えしておきたい。
私はもう黒猫の肩を温める事すら出来ないのだ。お飾りに成り果てた私は、お洒落でも何でもない。
すれ違う人々は私を見ると顔が曇る。本物の羽なのか、作り物なのかを聞いてくる人間様もいる。そんな時黒猫は何も答えずに、相手の目をじっと見つめる。すると人間様は私たちの前から立ち去るのだ。不思議なもので、人間様は自分の質問がどれほど意味をなさないものなのか、無言の中から気付かされているのだ。
また雨が降って、千代が田舎へ帰る時がきた。
千代は黒猫の手を握ったまま離そうとしない。これが最後と言わんばかりに強く握りしめた手。細くて冷たい黒猫の手。
無言のままの二人は、雨音に掻き消されそうな存在を何とか保ち、傷だらけになった身体をいたわり合った。
人は、一人なのだという事を痛い程突きつける別れ。私は死に慣れてしまったが、生き別れというものには慣れないでいる。生きている限り会う事が可能なのであって、それは身を裂かれるような思いなのだ。私の傷も雨水に濡れて膿んでいる。
黒猫は千代と最後の挨拶をし、この日の為に摂取しなかったアルコールに感謝した。
兄弟のいない二人は、よく似た相手をまじまじと見た。体格こそ違うものの、二人は相手の考えていることが手に取るように分かるのだ。それは、私と主の関係によく似ている。
だが、どちらが翼なのかという質問はよして頂きたい。どちらも翼であり、どちらも心臓なのだから。
人が行き交う駅の改札で、千代は大荷物を持って時間のギリギリまで無言だった。もう、ここに来る事は無いと思うけど、とようやく絞り出した一言は、駅の放送に掻き消されてしまう。
私の体温は、黒猫の体温に絆されて徐々に上がっていった。アルコールが抜けた身体は、千代の背中を見送って震えている。涙を我慢してまでこらえた感情は、私の生命力を揺さぶり起こした。こんなにも醜い世界で、こんなにも美しい別れを私は目の前で見てしまった。私はこの美しい別れを最後の記憶にしたいと思った。もうこの先、黒猫の震えや地球の震えに酔っていたくはない。
だが、私はまだ帽子のお飾りとして生かされている。造花の薔薇は永遠を約束されたが、美しい別れを記憶する事はできなかった。それはそれは悲しいことだ。自分が美しいという事も分からない薔薇は、黒猫の美貌を引き立たせる為だけに存在している。私もいずれはそうなるのだろうか。それとも、水分が飛んでパサパサになった私は、道端にでも棄てられるのだろうか。
それならば本望である。腐敗してゆく様を晒す必要などない。
電車の音が心地よいBGMになり、黒猫は泣きながらロバートへと戻ってゆく。
彼女を生かしておくものがなくなった今、どうして生きていく事が出来るだろう。私の微力は彼女をアルコール中毒から救えるのだろうか。痛くて泣いている黒猫を、子ども達がいなくなった街を、カラスの事件でまたひとつ傲慢になった人間どもの摩擦の中で、どのようにのたうち回り、効かない薬が慰めてくれるとでもいうのだろうか。
また時間が過ぎ去って、人間様は私の事など気にも止めなくなった。見えない影に怯えるのは、ごく短時間であると言う事を知った。記憶から抜け落ちてしまえば後は新しい記憶をしまい込むだけだ。記憶とは氷柱のようなものなのかも知れない。徐々に形成された氷柱は、暖かくなると溶けはじめ根本から地面に向かって一気に突き刺さる。
人間様によっては、その氷柱が自らの足に突き刺さってしまう場合もある。そうして突き刺さった氷柱は一生身体に残る傷として生きてゆくのだ。
カラスを犯人に見立てた殺人事件が、あれから数件起きた。その度に人間様はカラスの影に怯えたが、犯人がロリコンのオタクだという事を知ってしまうと、ただの中年オヤジによる快楽殺人として片付けられた。そして、カラスの事件として認知されている数々の謎を説こうと、我々に詳しいという専門家の肩書きを持った人間様が悪戦苦闘の末出した結果が、カラス以外に犯人はいないと言う事であった。
産まれたばかりの乳児をゴミ捨て場に放置し衰弱死させたもの、急性アルコール中毒で自分の嘔吐物に喉を詰まらせ死んだのも、拒食症の末栄養失調で死んだのも、全て我々のせいだという。
花見客を集団で襲ったのは、襲ってくれと人間様が言っていたからに過ぎない。あれほど日常の憂さ晴らしをして、現実に戻るのが厭だと駄々をこね、このまま何事も無く何となく死んでゆければ良いと思っているにもかかわらず、何かの事件に巻き込まれ何年も味わっていないスリルを感じたいと言ったのは、何処の誰だ。
ありあまる才能とありあまる腕力を、是非とも我々に分けて欲しかった、それだけだ。こんなもの要らないと投げ捨てずに引きずっているのなら、我々におすそ分けの一つや二つしてくれたって良いだろう?
人間様というのは、何処までも自分本位に生きるように出来ている。そういう仕組みなのだ。その仕組みは、人間様が存在している限り変わらないだろう。そして人間様の欲深さに溺れ死んだカラス達の恨みは、決して晴れる事は無いだろう。
黒に染まりつつあった街は、青空を筆頭にカラフルな色が辺り一面を美しく彩りはじめている。だが、私の羽はもう七色に光る事は無い。傷口は徐々に開き、水分が抜け乾燥している。私の隣ですましている作り物の薔薇は、何も変わる事がなく話すこともない。少々埃がかぶり、くすんだ色に変色しても彼女はいつもそのままだ。私のように老いぼれる事もないのだろう。だが、これでは生きているとは言い難い。
さようなら、と声がする。
幼稚園に通う子どもたちが、先生に挨拶をしている。何て事はない普段通りの光景だ。その中に、あの男の子そっくりな子を見つけた。顔体格声まで、何もかもがそっくりだ。
男の子は母親の手を握りしめ、しきりに大きなジェスチャーを交えながら笑顔で話す。母親は、私が思っている人間様とは違う。子どもに真っ直ぐ向き合い一生懸命話す息子を愛おしそうに見つめている。
我欲に走った母親とは思えない目つきの女ではない。自由の為の自由をもとめ、何処までも突っ走ってゆくような母親ではない。自分の為なら息子でさえも殺してしまうような自己愛のかたまりの母親ではない。息子が成長するにつれ、自分の子どもではないような気が膨らみ、カラスに罪をきせようとする極悪非道な母親ではない。
子どもの声に耳を貸し、一人前にさせる事だけを目的とし、一切の見返りをはね除け、それでいて全てを受け止められる。こんな母親は滅多にいないだろう。
行き場を失った子ども達は、最終的に帰るべき場所そのものが失われてしまっている。そのような子ども達を導いてくれる存在、その存在すらも見えない場合に子ども達は誰の背中をみて成長してゆくのだろうか。
螺旋階段を一段、また一段と登ってゆくが途中で必ず足を踏み外す。そしてまた初めから螺旋階段を登るのだ。
その繰り返しで、登れる階数が徐々に増えてゆく。
だが、一度足を踏み外した子ども達が、目の前に誰もいない螺旋階段をまた初めから登ろうという心持ちになるだろうか。その先に何があるっていうのだろう、と霧の晴れない上を見つめて何かを諦めるだろう。
その諦めが人生になってゆくのだろう。
黒猫は、私の下であの男の子のことを思っている。
酔いから覚める事がなくなった黒猫は、震える手をさすりながら記憶の中の男の子を必死で笑顔にしようとしている。
だが浮かんでくるのは、川の淵でゴミにまみれた抜け殻だけだ。抜け殻は執拗に殴られ、鼓動を止めた。川の流れに押されている臓器と、頭から見え隠れしているカラスの御馳走が黒猫の頭から離れてはくれない。どれだけ時間が経とうとも、彼女の足に刺さった氷柱は傷だけ残して溶けてしまったのだ。
あの子のお墓に行きましょう。
黒猫は、私ではない誰かに語りかけた。
人間様は、抜け殻になると石の下に骨を埋めるらしい。それはそれは立派な石を誂えて、カラスのエサになるだけのお供え物をして、手を合わせる。
黒猫は何処へ向かっているのだろうか。あの子の墓などあるのだろうか。母親に殺された、あの子を何処かに埋めてくれた人間様などいるのだろうか?
対向車に怒鳴られ、赤信号を平気で渡り、自転車のベルにも反応しない黒猫は一体何を思っているのだろう。
黒い猫が塀の上で白い猫と仲良く昼寝をしている。そのアンバランスだが解け合った二匹に私はお礼を言った。
何故礼を言ったのか、自分でも良く分からない。二匹の猫は昼寝の邪魔をされた事に一瞬だけ腹を立てたが、すぐにまた元の姿勢に戻り昼寝をはじめた。ちらっと黒猫に目をくれた時、その眼差しが哀れみの目でも同情の目でもなかったことに私は驚いた。
人間様は黒猫を同情の目でしか見ない。だが動物達には同情などないのだ。それは二度と会うことのない親類を見る眼差しに似ている。何故なのだろう。
黒猫は三十分以上歩いてあの場所へやってきた。
至る所に棄てられたゴミが、流れの悪い川に押されてどこまでも転げ落ちる。その動きをじっと見つめている黒猫と私は、その先に二度も棄てられた男の子の姿を思い出す。
陽の光が汚い水をいくらか綺麗に演出し、死体が発見された場所にはキラキラと輝く聖水が流れているようだ。
千代の家がこの近くにあったこと、図書館に行っては二人でよく昼寝したこと、私と造花の薔薇のすきまに四葉のクローバーを挿したこと。四葉はすぐに枯れて三つ葉になってしまったこと。
死体が発見された近くには、綺麗だった花束が醜く枯れて横たわっていた。これでは二体目の死体の演出に過ぎないじゃないかと私は苛立った。隣で造花の薔薇が、鼻で笑ったことにも戸惑った。
黒猫は一人きりでその花束をゴミ捨て場に棄てた。そして、大きな石を探し出し、その近くに立てたのだ。
お供え物は何も無い。長い時間手を合わせ黙祷している黒猫の、荒れた皮膚と震えている腕が私の傷口をこれでもかと広げてゆく。もう塞ぐことはないこの傷口は、広がってゆくばかりでもうすでに帽子のお飾りにも適してはいないだろう。
何故か墓石の前から離れようとしない黒猫を私は心配し、ただの石をじっと見つめている黒猫を造花の薔薇はまた鼻で笑っている。何が正しいとか何が間違いとか、私には良く分からない。死者を祀る場合の手順やその心持ち、そして適した場所や時期。
黒猫はそういう一切合切を全て無視しているように思える。だが、それを無視したところでこの男の子に祟られるのかと言われれば、そうではない気がする。
黒猫は、自らの罪の意識に苛まれているのだ。
あのとき母親の元へやらなければ。
あのときすぐに警察に連れて行っていれば。
あのときもっと暖かくて美味しいご飯を食べさせてあげていれば。
あのときもっと話をしてあげていれば。
あのとき・・・
あのとき・・・
あのとき・・・
あのとき・・・
そして黒猫は母親さえも殺してしまった。黒猫の記憶にはうっすらと膜がはったような映像として残っているだろう。その膜というのは紛れもなく、カラスの羽である。
私が黒猫の頭の上で揺れている限り、いくつもの魂が黒猫を守っているのだ。黒猫には見えない魂は、彼女の純粋な心のすきまに入り込み守り抜いている。
何故なら、彼女がこの世界で生きてゆくのは安易ではないからだ。私や他の動物達の声が聞こえてくることによって中和されている人間様の意識や欲望、もしそれがなければ黒猫はたちまち人間様によって潰されていることだろう。
先ほどから石の前からは慣れようとはしない黒猫。私は少し疲れてしまった。しばらく休みたい。
「あとはお願いね。」
黒猫はそんな事を言ったような気がする。私は黒猫の頭から外され、帽子のお飾りとして墓石に被せられた。
目の前に現れた黒猫は、もう私にはいいの、と帽子のお飾りである私に言うのだった。どういう事であろうか?
魔法にかかったような私は、墓石の上でじっと動けずにいた。この帽子は元々、この子の物だったということを思い出していたからだ。
これで終わりなの、と消え入りそうな声がした。
私は厭だった。私が私でいられる限り黒猫の頭の上に帽子のお飾りとしてでも良いから見守っていたかった。微力でも昔の明るく優しい黒猫に戻って欲しかった。
涙の中から産まれたような黒猫に、わたしはもう何も出来ることはないのだという現実を突きつけられた。私の傷口は、傷口であるということが分からないくらい開ききってしまっていた。
裂けてしまう寸前の私は、二重に見える黒猫の姿を追った。彼女は家へ帰る道とは反対方向へ進んでゆき、車の影になってその姿を見失ってしまった。
雨の日も風の日も、雪の日も。私は墓石の上でこの子と黒猫が現れるのを待ち続けている。来る日も来る日も、二重に映るこの世界を恨むでも憎むでもなく、暗闇の中でもただただひたすら待ち続けている。
私の息はもう短い。
電線の上で意気揚々と鳴いているのは、カラスだ。その下ではさなえが、手に持った食べ物を空高く掲げている。