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 姉に百億の婚約者を奪われたら、彼女は大豪邸でアバラを折られていた

作者: 熾星
掲載日:2026/07/23

 


「義理の姉・優奈が富豪の息子・神崎怜司と結婚すると宣言し、家族全員が呆然とした。

 三日前まで彼女は恋人と駆け落ちすると泣いて訴え、足の不自由なその富豪の男には絶対に嫁ぐものかと息巻いていたのだ。

 前世では、彼女が反抗したせいで縁談が私に回ってきた――私は車に押し込まれた。

 一方彼女は門のところで、駆け落ちしたいと言っていた恋人と手を繋ぎ、満面の勝利の笑みを浮かべていた。

 だが彼女が選んだ道は間違っていた。そして彼女は私を連れて川に飛び込んだ。

 やり直しの今世、彼女は自分がその富を奪い取ったと思っている。

 私はうつむいてスープを啜り、冷笑を隠す――あの“富”、今度は彼女に譲ってやろう。」



 1



 優奈の言葉が落ちると、最初に箸を置いたのは直人だった。怒鳴ることもなく、ただ彼女を見つめている。その表情は、自分が聞き間違えたのではないかと確かめているようだった。


「優奈。昨日は、春になったら一緒に村役場へ婚姻届を出しに行こうって言っていたよね」


「昨日は昨日よ。直人、私たちは合わないの。あなたじゃ、私が望む暮らしはできない」


 直人はしばらく黙ったあと、立ち上がって父の水野隆史に一礼し、帰ると告げた。玄関で靴を履く彼の手の甲には、白くなるほど筋が浮いていた。なぜか私は、その背中を追うように外へ出た。


 外では激しく雪が降り、創業百年の温泉旅館・水月館の提灯が風に揺れていた。直人はマフラーを巻き直し、食事の席を振り返ろうとはしなかった。


「水野さん。気持ちは、誰かが代わりになれるものじゃありません。まして、品物みたいに別の人へ渡せるものでもない。これからお父さんに何を言われても、僕のために受け入れる必要はありません」


 食事の席へ戻ると、父は案の定、優奈と森川家の縁談を私が引き継げと言い出した。水野家は雪代県白峰郡で水月館を営んできたが、今では三億円もの借入金を抱えている。神崎ホールディングスがその一部を肩代わりすると申し出たため、父は二人の娘を旅館の体面を守るための駒としか見ていなかった。


「私は、誰かの婚約を引き継ぐつもりはありません」


 父は酒杯を乱暴に置いた。


「神崎家が助けてくださるのは、お前の母親が昔、怜司さんを救ったからだ。今は優奈がお前の代わりに嫁ぐと言っているのに、何が不満なんだ」


「それなら、最後まで彼女に背負わせればいいでしょう」


 優奈は私の腕をつかみ、廊下の奥へ連れていった。周囲に誰もいないことを確かめると、ようやく見慣れた悪意をむき出しにした。


「前の人生で、あなたは豪邸に住んで宝石を身につけ、最後には百億円の資産まで相続した。今度は私の番よ。直人はあなたにあげる。二人で山の中の貧乏暮らしを楽しめばいいわ」


 やはり、彼女も戻ってきたのだ。


「結婚、おめでとう」


 私はつかまれた手を振りほどき、彼女を見て笑った。


「どうか、一生後悔しないでね」


 十六年前、まだ少年だった神崎怜司は、水月館に宿泊中、火災に巻き込まれた。母の小百合は煙の中へ飛び込み、彼を助け出した。その結果、怜司の両脚には後遺症が残り、母も肺を傷め、数年後に亡くなった。神崎家の先代会長は礼状の中で、いつか怜司に水野家の娘を娶らせたい、旅館が困った時には力を貸したいと記していた。


 その言葉に法的な効力などなかった。それでも、追い詰められた父にとっては最後の命綱になった。継母の秀美は、前夫との娘である優奈を連れて水野家へ嫁ぎ、父は優奈と養子縁組をした。その後、二人の間には翔太が生まれた。この家では、娘は縁談に使われ、跡を継ぐのは息子と決まっていた。亡き妻の娘である私は、最も犠牲にしやすい存在だった。


 翌日、神崎家の秘書である高城が、婚約に関する確認書を持ってきた。父は様子をうかがいながら、相手を優奈に替えても援助に影響はないのかと尋ねた。


「怜司様は、すでに了承なさっています」


 その返事を聞いた瞬間、背中に冷たいものが走った。前の人生の怜司は、秩序に異常なほど執着していた。まだ一度も会っていない優奈への変更を、簡単に受け入れるような人間ではない。


 帰り際、高城は突然、私の方へ向き直った。


「清香様、怜司様からご伝言です。白百合は、あなたによく似合うと」


 前の人生で霧峰台の別邸に閉じ込められていた頃、私は温室で白百合を育てていた。今の怜司が、そのことを知っているはずはない。


 戻ってきたのは、私と優奈だけではないのかもしれない。


 私はその日のうちに、身分証明書と通帳、母が残した木箱を荷物に詰めた。秀美は部屋の入口をふさぎ、恩知らずだと責め立てた。父は、母の株式も山林もまだ水野家の名義だから、ここを出れば何も受け取れないと脅した。


「弁護士に確認してもらいます」


 私は鍵をテーブルに置き、家族のLINEグループから退会した。


「今後、母の遺産に関すること以外では連絡しないでください」


 一か月後、優奈と怜司は婚約した。私は式に出席せず、SNSに投稿された写真だけを見た。仕立てられたドレスをまとって怜司の隣に立つ優奈は、前の人生で失ったものを、ようやくすべて取り戻したように笑っていた。


 神崎家が水月館の借入金の一部を返済すると、父はすぐに翔太の私立大学の入学金と学費を払い、高級外車まで注文した。優奈が不満を漏らすと、秀美は、あなたはもうすぐ神崎家の人間になるのだから、水月館は将来、翔太に残すのだと言った。


 優奈は黙り込んだ。


 その夜、優奈は初めて私に電話をかけてきた。声には隠しきれない優越感がにじんでいた。怜司から湾岸区の高級マンションのカードキーを渡されたこと、結婚後は神崎家の慈善財団に入れてもらえること。専属運転手や広い衣装部屋、執事のようなスタッフの話を聞いているうちに、前の人生の自分が同じ扉の前に立ち、それを新しい暮らしへの入口だと信じていた光景がよみがえった。


 優奈はまだ知らない。怜司から贈られた指輪のサイズは、前の人生で私がはめていたものとまったく同じだった。婚約披露の会場を飾った白百合も、かつて私が好きだった花だ。


 あの結婚は、最初から彼女のために用意されたものではなかった。



 2



 水野家を出た私は、京央都に小さな部屋を借り、佐伯弁護士に母の遺産を調べてもらった。すると、月守村の古い家も栗林も薬草園も、すでに私の名義になっていることが分かった。父は、私に逃げ道があると知られるのを恐れ、十六年間もその事実を隠していたのだ。


 二月の終わり、私は北雪線に乗って雪代県へ向かった。列車が街を離れるにつれ、高層ビルは雪をかぶった山並みに変わっていった。最後の山道は積雪で交通が止まっており、私は一時間近く荷物を引きずって歩き、ようやく母が残した家にたどり着いた。


 玄関までは、すでに細い道が除雪されていた。背後から雪を踏む音がして振り返ると、除雪用のスコップを持った直人が立っていた。


「村役場から、小百合さんの娘さんが今日来ると聞いたんです。雪で玄関が塞がっていたら困ると思って、先に片づけておきました」


「母を知っているんですか?」


「子どもの頃、ずいぶんお世話になりました」


 彼は鍵を私の手のひらに置いた。優奈のことには触れず、私がここへ来た意味を勝手に勘ぐることもしなかった。その時、私は初めて気づいた。ここは母が生きた故郷であると同時に、前の人生で一度も近づこうとしなかった、もう一つの人生の入口なのだ。


 古い家で過ごす最初の夜は、氷室のように冷え込んだ。窓の隙間から風が入り、布団を二枚重ねても眠れない。深夜、庭の戸が鳴ったため、私は棒を握って外へ出た。けれど、そこにあったのは直人が置いていった凍結防止用の水と修理道具だけだった。彼は戸を叩かず、自分がしてやったと知らせる書き置きすら残していなかった。


 前の人生で、怜司は私に数え切れないほど高価な物を与えた。けれど、その一つ一つには必ず条件が付いていた。直人は何も求めずに手を貸し、翌日会っても、そのことさえ口にしなかった。


 それから数日、直人は水道管や屋根を調べてくれたが、必要以上に近づこうとはしなかった。三日目、私は村の人たちへの礼に、ご飯と味噌汁、煮物を用意した。元用務員の岩田さんが直人を無理やり食卓へ座らせ、皆は、若い頃の母が老人に薬草茶を届け、栗林の収入で子どもたちを助けていたという話を聞かせてくれた。私は見知らぬ人たちの言葉を通して、母をもう一度知っていくような気がした。


 食後、直人が台所で食器を片づけてくれた。私は迷った末に、優奈の代わりになるつもりはないと伝えた。


「分かっています」


 彼は手を止め、少し言葉を選んでから続けた。


「僕も、あなたをすぐに普通の友人として見ることはできません。あなたを見ると優奈を思い出してしまう。だから、少し時間が必要です」


「分かりました。私にも時間が必要です」


 前の人生で、私は一つの家から別の檻へ押し込まれた。今度は怜司への恐怖から、善良な直人を逃げ道として利用したくなかった。


 三月になると、私は古い家の修繕を始め、月守分校の隣にある公民館も手伝うようになった。直人は放課後、子ども食堂と学習支援に参加し、生活の苦しい家庭の子どもに夕食を用意するため、自分の給料の一部を使っていた。


 そこで真央に会った。使い込まれたランドセルを抱えて廊下の奥に座っていたその子は、前の人生で優奈が違法な仲介業者へ渡しかけた少女だった。


 直人は真央の横に牛乳を置き、しゃがんで宿題を見てやった。夜のカレーでは一番大きな肉を真央の皿に入れ、自分には汁ばかりをよそった。その姿を見て、私は優奈がなぜ置き去りにされたと感じたのかを初めて理解した。同時に、直人の欠点も見えた。彼は、身近な相手なら自分の犠牲を分かってくれると思い込み、その人がもう疲れ果てていないかを確かめたことがなかった。


 それでも、顧みてもらえない苦しさは裏切りではない。貧しさも罪ではない。


 私は直人を完璧な人間だと思っていたわけではなかった。ある日、土地の手続きに付き添うと約束していたのに、熱を出した生徒の世話へ急に向かい、夕方になるまで連絡することすら忘れた。私は雪の中で二時間待たされ、帰宅後、初めて彼に本気で怒った。


 直人は、かわいそうな子どもを持ち出して私の不満を押しつぶそうとはしなかった。身近な人なら待ってくれると甘えていたことを認め、翌日の予定をすべて組み直した。


 あの言い争いで、かえって私は肩の力を抜くことができた。私は怒っていい。彼も間違えていい。私たちは、我慢し続けることで気持ちを証明する必要などなかった。


 前の人生で、優奈は直人と結婚したあと、確かにしばらくは幸せだった。けれど、大雪で道が閉ざされ、収入の少ない暮らしが続く中、秀美は豪邸で暮らす私の写真を何度も家族のLINEへ送った。優奈は少しずつ直人を恨むようになった。


 そこへ入り込んだのが、神崎グループの地方開発を担当していた黒沢修一だった。彼は直人と生徒の保護者が親密な関係にあるようなやり取りを捏造し、「裕福な夫婦の養子にすれば謝礼がもらえる」と優奈を誘い、真央を紹介させた。


 事実を知った直人は子どもを助けるために追いかけ、違法仲介業者に刺されて死んだ。優奈も監禁され、殴られたのに、すべてを直人のせいにした。何年も後、怜司の財産を相続した私への嫉妬に狂い、私を道連れにして川へ飛び込んだ。


 今度こそ、同じことは起こさせない。


 春の終わり、神崎ホールディングスが月守村の高原リゾート開発に向けた調査を始めた。責任者として現れたのは黒沢だった。彼は以前、分校の改修工事で手抜きをし、直人に告発されたことを根に持っていた。


「清香さん。神崎グループは、お母様が残された土地に大変関心を持っています」


「売るつもりはありません」


 帰り際、黒沢は名刺を差し出し、意味ありげに笑った。


「直人先生は、身近な人より生徒を優先します。あの人と暮らすのは、きっと苦労しますよ」


 私はその名刺をそのまま直人へ渡した。そして、黒沢が最近、真央の保護者に接触していること、借金を抱えた保護者が話に乗るかもしれないことを伝えた。


 私たちはすぐ児童相談所と警察へ連絡した。数日後、真央を引き取っている叔母が、病院へ連れていくと言って突然休ませた。ところが隣人は、白いワゴン車が家を出たばかりだと証言した。


 直人は車で追跡し、私は前の人生の曖昧な記憶を頼りに、使われなくなった木材加工場を示した。警察は途中で車を止め、真央とほかの二人の子どもを保護した。叔母の口座からは、黒沢の関連会社による振り込みも見つかった。


 黒沢自身は現場に現れず、実体のないコンサルタント会社と借金を抱えた仲介人を通じて指示を出していた。最初から他人に責任を負わせるつもりだったのだ。佐伯弁護士は、送金だけではすぐに立件できないかもしれないが、少なくともこれ以上、子どもへ近づくことは止められると教えてくれた。


 その時、私はようやく理解した。前の人生の記憶は、すべてを教えてくれる答えではない。黒沢は以前より三か月近く早く動き、使った道も違っていた。直人が私の警告を信じなければ、真央はまた消えていたかもしれない。人生をやり直したことで危険には気づけても、運命が同じ道をたどる保証などどこにもなかった。


 公民館へ戻った真央は、直人の服の裾を強くつかんだ。


「先生、私って迷惑な子?」


 直人はしゃがみ、真央と同じ目線になった。


「真央は何も悪くないよ」


 そばで見ていた私の目が熱くなった。前の人生でも、彼はこうして言い争いの途中で妻を残し、子どもを助けに行った。そして、二度と帰ってこなかった。


 真央が救われてから、私と直人の距離は少しずつ縮まった。一緒に薬草園を整え、子どもたちの昼食を作った。彼が急に約束を取り消したことで、もう一度言い争いもした。けれど今度の直人は、「子どもの方が僕を必要としている」と言い訳せず、真剣に謝った。そして、人を助けることと、家庭を大切にすることを分けて考えようとし始めた。


 五月の終わり、屋根を直していた直人が梯子から滑り落ちた。私が駆け寄って支えようとし、二人そろって草の上へ転がった。その夜、縁側に座った彼は、心から人を助けてさえいれば、身近な人はいつまでも理解してくれると思っていたと話した。


「あとになって分かったんです。顧みてもらえない人も傷つく。僕にも悪いところがあった。善意を理由に、誰かへ我慢を押しつけるようなことは、もうしたくありません」


「私は、優奈の代わりじゃない」


「あなたも、神崎家から逃げるための道具じゃない」


 私たちは急いで何かを誓おうとはしなかった。ただ、焦らずに歩いていこうと決めた。



 3



 四月、優奈と怜司は京央都で結婚式を挙げた。彼女は指輪、高級マンション、白百合の写真を次々に投稿した。どの細部も、前の人生で私が迎えた結婚式とまったく同じだった。


 結婚から三日目、首元に青あざがあり、手首にも傷のある自撮り写真が届いた。優奈は「新婚の夫が情熱的すぎて困る」と書き添えていた。親戚たちはうらやましがったが、写真を拡大した私は、それが指で強くつかまれた痕と、拘束された痕だと分かった。


 前の人生で、怜司は最初からすべての悪意を見せたわけではない。まず妻の服、食事、外出の予定を整え、次に携帯電話を指定の場所へ置かせる。初めて逆らった時は笑いながら手首をつかみ、二度目には「愛しすぎているからだ」と言った。暴力だと理解した時には、もう扉を開けることができなくなっていた。


 優奈からメッセージが届いた。


「もうすぐ、怜司様のものは全部、私のものになるわ」


「本当に、そこが気に入るといいね」


 彼女は知らない。別邸のすべての扉は、怜司の書斎から遠隔操作で施錠できる。


 最初の数週間、怜司は他人の前で驚くほど優しかった。自ら優奈の宝石を選び、運転手に送り迎えをさせ、親戚の前では聞き分けのよい妻だと褒めた。けれど、用意されたドレスを勝手に着替えたり、食卓で許可なく一言多く話したりすれば、別邸へ戻ったあとに罰を受けた。使用人たちは彼女と目を合わせず、廊下の時計は毎正時に鳴り、決められた通りに生きろと告げていた。


 優奈はすでに怯えていた。それでも、あの支配を名家のしきたりだと思い込もうとした。苦しいと認めれば認めるほど、かつて私を「幸せを知らない女」と嘲笑った自分と向き合わなければならないからだ。


 一方、神崎ホールディングスは月守高原リゾートの開発計画を正式に提出した。母が私に残した栗林と薬草園は、予定地の道路と水源をつなぐ場所にあった。父は何度も署名を求めたが、私はすべて断った。


 間もなく、京央都の部屋に何者かが侵入した。物はほとんど盗まれていなかったが、母の遺言書の写しが撮影された形跡が残っていた。


 直人は一晩中考え込み、翌日、婚姻届をテーブルへ置いた。指輪も花もなかった。神崎家は土地も私も簡単には諦めない。結婚だけで止められるとは限らないが、緊急連絡先、住所、法的な手続きの場面で、私たちはもう一人きりではなくなると説明した。


「嫌なら、断ってください。別の方法で助けます」


 私は婚姻届を取り、名前を書きながら言った。


「怖いから、あなたを選ぶんじゃない。直人と一緒にいると、何時に帰るかも、何を食べるかも、自分で決められる。嫌なことがあれば、嫌だと言える。だから、あなたを選びたい」


 ほかの人にとっては当たり前のことでも、前の人生の私には、何よりも贅沢な自由だった。


 私たちは白峰町役場へ婚姻届を提出した。盛大な式は挙げなかった。窓口の職員が書類を確認している間、直人は緊張のあまり印鑑の向きを逆にしていた。外では子どもたちが野花で花束を作り、岩田さんが赤飯を届けてくれた。


 直人は私の手を握り、これからは行きたい場所へ自由に行っていい、ただ帰る時は一言知らせてほしいと告げた。心配するから、と付け加えた声は、命令ではなく願いだった。


 結婚後も、私は自分の口座と土地の決定権を持ち続けた。直人は仕事の計画を変えろとも言わなかった。夫婦になって初めて古い家へ帰った夜、私たちはそれぞれの部屋を片づけた。石油ストーブだけでは寒く、結局二人で台所に座ってお茶を飲んだ。


 高価な指輪はなかった。翌日に着る服を決める人もいなかった。それでも私は、久しぶりに朝まで眠ることができた。


 私たちの結婚を知った優奈は、十数回も電話をかけてきた。留守番電話では、私が彼女の捨てた男を拾い、隙間風の入る家で田舎の子どもに囲まれていると嘲笑していた。ところが背後で突然、ガラスの割れる音がした。


「寝室で大声を出していいと、誰が許したのかな」


 怜司の冷たい声が響き、優奈は即座に声を落とした。


 それからも優奈は、高級な朝食、新車、宝石の写真を投稿し続けた。けれど、手の甲の新しい傷と、目の下の黒ずみは隠しきれなくなっていった。怜司は着る服、食べる量、携帯電話を渡す時間まで決めていた。白百合、真珠のイヤリング、植物図鑑など、彼が贈る物はすべて、前の人生で私が使っていたものだった。


 ようやく異変に気づいた優奈は、怜司に私と会ったことがあるのかと尋ねた。


「清香は、本来なら僕の妻になるはずだった。だから君は、自分の方が彼女より価値があると証明しなければならない」


 その夜、優奈は罰を受けるための部屋へ閉じ込められた。それでも翌朝には、美しく盛りつけられた朝食の写真を投稿した。「夫が自分のために用意してくれた。夢のように幸せ」と書いていた。


 彼女には、自分が選び間違えたと認められなかった。それを認めれば、自ら進んで、私が逃げられなかった檻へ足を踏み入れたと認めることになる。



 4



 秋に入ると、父から突然連絡があった。母の株式に関する二通の書類を作り直す必要があるから、直人と一緒に水月館へ戻れという。父に急に情が芽生えたとは思わなかったが、母の資料を諦めることもできなかった。


 直人は卒業の時に買った古いスーツを着て、前日から二度もアイロンをかけていた。夫として初めて私の親戚に会うのだから、私が不幸に暮らしていると思われたくないらしい。


 水月館へ着くと、玄関前には優奈の高級車が停まっていた。高価なセットアップを着た彼女は、広間の中央でまぶしいほどの笑みを浮かべていたが、ワイングラスを持つ手はずっと震えていた。親戚たちは彼女を取り囲んで褒めそやし、バスで来た私たちを笑った。翔太は、直人の月給では神崎グループの新入社員の給料にも届かないのではないかとまで言った。


 優奈はダイヤの指輪を見せつけ、わざとらしくため息をついた。


「貧しい暮らしだって、最初のうちはロマンチックに思えるわよ。長く続けば、どれほどつらいか分かるけど」


「少なくとも、直人は私の部屋に鍵をかけないし、携帯電話を調べたりもしない」


 優奈の笑みが一瞬で固まった。


 夕食の席で、優奈が身をかがめて酒を注いだ時、首に巻いていたスカーフが椅子の背に引っかかった。明かりの下にさらされた首筋には、重なり合う傷があった。指で締めつけられた痕、噛み痕、丸い火傷。広間は水を打ったように静まり返った。


「怜司にやられたんでしょう?」


 顔を真っ赤にした優奈が私へ飛びかかろうとし、直人が前に出て遮った。ところが秀美は、最初に彼を押しのけた。父も低い声で、夫婦のことに外部の人間が口を出すな、神崎家は水月館を救ってくれたのだから、数か所の傷で恩人を怒らせるわけにはいかないと言った。


 優奈はスカーフを巻き直し、バッグから紙幣をつかんで直人へ投げつけた。


「これを持って山へ帰りなさい! そんな哀れむような目で私を見ないで!」


 紙幣が磨かれた水月館の床に散らばった。直人は拾おうとしなかった。親戚たちは目をそらし、誰一人として最初に口を開こうとはしない。沈黙する人々を見渡した優奈の目には、一瞬だけ助けを求める色が浮かんだ。それでも秀美は、慌ててスカーフを結び直すだけだった。傷を隠せば、問題まで消えると信じているように。


「自分が傷つけられていると認めることは、恥ずかしいことじゃない。でも、傷つけている人の言い訳をし続けるなら、誰にもあなたを救えない」


 私は書斎へ行き、母の書類を探した。しかし、重要な資料が二通なくなっていた。父は明日もう一度探すと言い逃れた。


 私たちが帰ろうとすると、優奈が玄関で道をふさいだ。怜司は私たちが戻っていると知り、霧峰台の別邸で小さな晩餐会を用意したのだという。


「私を連れていけば、少しは優しくしてやると約束されたの?」


 優奈の顔色が変わった。父と秀美は、神崎家に無礼だと思われてはいけないと繰り返し、玄関をふさいだ。その時、庭の外へ黒いワゴン車が音もなく停まった。


 運転手と護衛たちが入り、丁寧な口調で別邸への同行を求めた。私がもう一度断ると、護衛は突然、直人の腹部を殴り、首と肩の間にスタンガンを押し当てた。


 直人が倒れ、私が駆け寄ろうとすると腕をつかまれた。アルコールのような強い匂いのする布で口と鼻をふさがれた。父は青ざめて見ているだけで、「食事に行くだけだ」と何度もつぶやいていた。


「今日から、あなたはもう私の父親ではありません」


 車の扉が閉まる直前、広間に倒れた直人と、階段に立つ優奈が見えた。彼女の目には嫉妬とともに、隠しきれない期待があった。私も同じように苦しめば、自分は負けていないと証明できると思っているのだ。


 優奈は知らなかった。怜司にとって彼女は、私を檻へ連れ戻すための鍵にすぎない。


 水月館へ来る前、私は現在地を佐伯弁護士と岩田さんに共有していた。上着の内側には予備の携帯電話も隠してある。車が霧峰台へ向かう途中、私は緊急録音を開始し、車内の言葉をすべて記録した。


 前の人生の怜司が知っているのは、従うことを覚えさせられた私だけだ。もう一度生きた私のことは知らない。


 位置情報が無事に送られているかは分からなかった。父が直人を旅館に置いたままにするのかも分からない。恐怖は冷たい水のように背中から広がった。それでも今回は、誰かが突然良心を取り戻すことだけに望みをかけてはいなかった。弁護士、村の人々、腕時計の緊急信号、録音。どれか一つが失敗しても、ほかの道が私たちを外へ連れ出してくれるかもしれない。



 5



 霧峰台の別邸は、山の中腹に建っていた。地下駐車場から続く廊下には、以前と同じ消毒薬の匂いが漂っている。壁の隅には監視カメラが並び、床には埃一つ落ちていなかった。それでも私は、どの扉が内側から施錠できるか、どの職員用通路が裏庭へ通じているかを覚えていた。


 主寝室の扉が開くと、怜司は大きな窓に背を向け、車椅子に座っていた。ゆっくり振り返る姿は、何年も遅れた約束の相手を待っていたかのようだった。


「ようやく会えたね、清香」


 優奈は急いで怜司の前へ進み、床に膝をついた。


「怜司様、清香を連れてきました。もう、あの部屋には閉じ込めないと約束してくださいましたよね」


 怜司は彼女を見ることすらなく、肩を足で蹴った。


「出ていきなさい」


 扉が閉まると、彼は私へ手を差し出した。


「今度の君は、前よりずいぶん言うことを聞かない」


「やっぱり、あなたも覚えているのね」


「前の人生で君は僕の妻だった。忘れられるはずがないだろう」


 それほど覚えているのなら、なぜ私が逃げたのか理解できないのかと尋ねた。怜司は、最高の家を与えた、最も高価な宝石を贈った、死後には財産まで残したと並べ立てた。身分証を取り上げ、外部との連絡を制限し、食事も服も決めたことさえ、愛の一部でしかないように語った。


「森川直人と結婚したのは、別の夫を選ぶことで、僕たちの過去を否定したかったからかい?」


「私は、直人を愛しているから結婚したの」


 怜司の顔から笑みが消えた。彼が二度手を打つと、護衛たちが血まみれの直人を引きずってきた。スーツは破れ、右肩は力なく落ちていた。それでも私を見つけると、最初に、自分ではなく私が傷ついていないかと尋ねた。


 怜司は引き出しから細い手術用のメスを取り出した。私に二つの選択肢を示した。直人との結婚は無効だと認め、この別邸へ残るか。あるいは、愛などというものにこだわり続け、直人が壊されるところを見るか。


「言うことを聞くな」


 直人は必死に首を振った。


「清香、僕のために、そんな条件を受け入れないでくれ」


 刃が直人の眉の上をなぞり、血が絨毯へ落ちた。私は無理やり呼吸を整え、怜司の極端な潔癖を思い出した。


「護衛の靴に泥水がついているわ。直人の血で、寝室の絨毯も汚れた。あなたは本当に、このままここで続けるの?」


 怜司は反射的に床を見下ろし、眉を寄せた。そしてすぐ、直人を浴室へ連れていき、きれいにしろと命じた。室内が一時的に慌ただしくなる中、私は前の人生で何度も従順なふりをした時と同じように、車椅子の前へしゃがんだ。


「怜司様、あなたは結婚する相手を間違えた。優奈が婚前に提出した健康資料も、海外での経歴も偽物よ。元の報告書は差し替えられている」


 優奈がどのような治療を受けたかは、本来、誰かに責められるようなことではない。私が利用したのは彼女の過去ではなく、欺かれることを許せず、自分と他人に別の基準を押しつける怜司の歪んだ心理だった。


 怜司はすぐ秘書に、サーバーのバックアップを確認するよう命じた。待つ間、私は優奈にも前の人生の記憶があると話した。彼女が怜司を奪ったのは愛していたからではなく、私と同じ選択をすれば百億円の資産を相続できると考えたからだ。


 けれど優奈は知らなかった。前の人生で怜司が私に株式を残した遺言には、再婚を禁じ、主要資産の売却も認めないという条件が付いていた。彼は死んだあとまで、私を支配するつもりだった。


「彼女に、そんなものを受け取る資格はない」


「それなら、どうして結婚したの?」


「彼女なら、君を僕のところへ連れ戻せるからだよ」


 怜司は最初から、優奈の欲望を見抜いていた。罰を受けるたび、彼女は私への憎しみを強め、自分の方が幸せだと証明したくなる。宝石と「神崎夫人」という肩書を与えておけば、やがて自ら私を差し出すと分かっていたのだ。


 ほどなくして、秘書が元のデータを持って戻った。優奈の診療記録は、婚前に提出された紙の資料と一致しておらず、仲介人へ金を渡した証拠も残っていた。治療を受けた事実そのものに、恥じるべき点はない。問題なのは、優奈と秀美が婚前調査を通過するため、報告書を改ざんし、署名まで偽造したことだった。


 怜司自身も長い間、自分の病状と服薬を隠していた。それなのに、他人が自分へ秘密を持つことだけは許せない。優奈が呼び戻されると、最初はすべて否定した。やがて取り乱し、若かったから分からなかったのだと言い、ついには怜司も過去に治療や服薬を隠していたではないかと口走った。


 部屋が一瞬で静まり返った。


「つまり君は、僕には君を拒む資格がないと思っているのかい?」


「違います! 愛しているんです! どうしても、あなたと結婚したかっただけで……!」


 優奈は突然、私を振り返った。何年もため込んだ憎しみが、とうとうあふれ出した。


「どうして、いつも清香なの? 前の人生では私が愛を選んだのに、あなたは豪邸で暮らした。今度は私が先に彼と結婚したのに、彼が考えているのは、やっぱりあなたじゃない!」


「前の人生で、私は一度も幸せではなかった」


「でも、お金はあったでしょう! 私が山の中でどんな暮らしをしていたか分かる? 冬は氷室みたいに寒くて、直人は給料を生徒の食事に使った。欲しいバッグも服も、一つも買えなかった!」


 私は、前の人生で直人が家を出たのは裏切るためではなく、真央を救うためだったと伝えた。優奈を連れ去り、傷つけたのは黒沢と違法仲介業者だ。彼女が死ぬ前に真央の名前を口にしたから、私は事情を推測できた。後に警察もすべてを明らかにした。そして今度の人生では、すでに真央を救い出している。


「あなたの苦しさを顧みなかったことは、直人の間違いだった。でも、子どもを見知らぬ人へ渡したのは、あなた自身の選択よ」


 優奈の顔から最後の血の気が引いた。けれど怜司は、姉妹の言い争いに興味を示さなかった。手にしていたメスを彼女へ投げる。刃は頬をかすめ、背後の壁へ突き刺さった。


「君にはもう、価値がない」


 優奈は拘束具を持った護衛たちに引きずられながら、私のスカートをつかみ、助けてほしいと泣いた。私は彼女を見下ろした。別邸がどんな場所か知りながら、怜司の機嫌を取るために私をここへ送り込んだ人だ。


「傷つけられているのに、それを愛だと言い張った。私も同じ目に遭えばいいと望んだ。どうして私が、あなたのために何もなかったふりをしなければならないの?」


 優奈の指が少しずつ離れた。廊下の奥から悲鳴が聞こえたが、私は少しも痛快には感じなかった。正義とは、彼女がここで死ぬのを眺めることではない。怜司を法の場へ立たせ、優奈にも誘拐へ加担した責任を負わせることだ。


 怜司がもう一度、ここへ残るよう私に命じた。その時、別邸全体に鋭い侵入警報が鳴り響いた。電話を受けた秘書の顔色が変わった。山の麓に警察車両が来ており、誘拐の通報を受けて、屋敷への立ち入りを求めているという。


「何をした?」


「水月館を出た時から、運転手も優奈も、あなたも、すべての会話を録音していた。データは自動で送信済みよ」


 山の通信は不安定だった。その言葉には半分、嘘が混じっている。けれど怜司は、何がどこまで伝わっているか分からない状態に耐えられなかった。彼は護衛に、裏口から私たちを放り出すよう命じた。誘拐ではなく、家族間の行き違いだったことにするつもりだ。


「清香、また会えるよ。君は最後には、自分が本来いるべき場所へ戻ってくる」


「前の人生で、あなたのものだった清香は、あの川で死んだわ」


 裏庭には冷たい雨が降っていた。直人は半ば意識を失い、額は熱く、肩は不自然な形に腫れていた。私は彼の腕を肩へ回し、半分背負うようにして山道を下った。


 警察官と救急隊員が坂を駆け上がってきた時、ようやく力が抜け、私は直人と一緒に泥水の中へ倒れた。雨の向こう、二階の窓辺には、怜司がまだ車椅子に座っていた。彼は恐れていなかった。神崎家の弁護士、父の証言、削除した監視映像さえあれば、すべてを家庭内の揉め事にできると信じているのだ。


 けれど今度は、真実を知る人間が私一人ではなかった。


 救急車の扉が閉じる直前、優奈が閉じ込められた地下階に明かりが一つもないのが見えた。彼女は私をこの場所へ突き落とした。それでも警察に見つけてほしいと思ったのは、許したからではない。生きて、自分が選んだことと向き合わなければならないからだ。


 死は簡単に「報い」として片づけられる。生きたまま自分の選択を認める方が、ずっと難しい。



 6



 直人は三週間入院した。右肩にひびが入り、肋骨を二本傷め、額を七針縫った。ところが水野家は、警察に私たちとは反対の証言をした。父は、私が自分の意思で別邸へ行ったと主張し、秀美は、優奈と怜司の間に夫婦げんかがあっただけだと言った。


 幸い、予備の携帯電話には会話の一部が残っていた。直人の腕時計からも緊急信号が送信され、別邸の庭師は監視映像の複製を警察へ渡した。


 さらに重要なのは、優奈が行方不明になっていたことだ。神崎家は海外で療養していると発表したが、警察は彼女の出国記録を確認できなかった。


 私は前の人生で覚えていた地下室の入口、監視サーバーの場所、職員用通路を図にして警察へ渡した。その図面を見た直人は、なぜ私がそこまで知っているのかと、とうとう尋ねた。


 病室には長い沈黙が落ちた。これ以上、嘘で私たちの結婚を守りたくなかった。私は大晦日の夜から話し始め、前の人生での監禁、怜司の死、優奈の刃、そして二人で落ちた川のことをすべて打ち明けた。


「私のことを、おかしいと思う?」


「思わない」


 直人は私の手を握った。傷のせいか、その手のひらにはまだ冷たさが残っていた。


「その記憶がなければ、真央の危険にも気づけなかったし、別邸の道も分からなかった。最初は運命を変えるために僕へ近づいた部分があったのかもしれない。でも、今の毎日は、清香がそのたびに選び直してきたものだよ」


 警察が二度目の捜索を行った時、地下のワインセラーの奥から、防音された金属製の扉が見つかった。地下室には拘束具、薬品、スタンガン、大量の映像が残されていた。優奈は五日間閉じ込められ、肋骨を三本折っていた。精神状態もひどく不安定で、それでも自分は神崎夫人だと繰り返した。


 保護された彼女が最初に尋ねたのは、自分の傷でも、怜司がどのような処罰を受けるかでもなかった。別邸から運び出される姿を、報道陣に撮られたかどうかだった。二度目の人生で手に入れたものが牢獄だったと認めるくらいなら、幸せな神崎夫人を演じ続ける方を選んだのだ。


 神崎家の弁護士は、地下室を私的な治療設備だと説明した。怜司も体調を悪化させ、ひとまず入院した状態で事情聴取を受けることになった。しかし、庭師が保管していた映像には、私たちが別邸へ連れ込まれた場面だけでなく、過去数年にわたり、ほかの被害者が暴力を受ける姿まで残っていた。


 辞めた使用人や運転手、仕事を失わされた元社員たちが次々に証言を始めた。事件を家庭内の問題として押しつぶすことは、もうできなかった。


 父と秀美は、優奈の無事を確かめるより先に、神崎家へ賠償を求めに行った。婚姻関係が解消され、援助が途絶えることを恐れていたのだ。口論の中で父は階段から突き落とされて脚を折り、秀美も腰を痛めた。神崎ホールディングスは、その直後に水月館との協力を打ち切った。


 二人は病院のベッドに横たわりながらも、旅館の危機を優奈のせいにした。そこで優奈はようやく気づいた。両親は、彼女が誰を選び、何をされてきたかなど、本当は一度も気にしていなかった。神崎家から水野家へ金が流れ続けるか、それだけが重要だった。


 前の人生で、優奈が月守村の貧しい暮らしに苦しんでも、家族は助けようとしなかった。今の人生で、豪邸の中で肋骨を折られても、彼らが尋ねたのは賠償金のことだけだった。


 警察は、父と秀美が私の自由を制限する行為に協力したのか、私が拒絶していると知りながら運転手たちを手助けしたのかについても調べ始めた。父は神崎家が怖かっただけだと繰り返し、秀美は責任をすべて優奈へ押しつけた。しかし、水月館の玄関にある監視カメラには、二人が出口をふさぐ姿がはっきり映っていた。


 最終的に負う責任が怜司より軽かったとしても、あの夜をただの家族の揉め事だと言い張ることは、もうできなかった。



 7


 退院した直人には長いリハビリが必要で、しばらく力仕事ができなかった。ある夜、彼は京央都へ働きに出ようかと話した。分校は統合されるかもしれず、村の給料も低い。次に危険なことが起きた時、弁護士へ相談する金も、病院へ行く金もない状態にはしたくないという。


 私は準備していた事業計画書をテーブルへ置いた。母の薬草園を整え直し、村にある栗林、山椒、クロモジを利用すれば、クロモジ茶、よもぎの入浴剤、栗菓子を作ってオンラインショップで販売できる。事業が安定したら、生徒の保護者にも加工を手伝ってもらい、収益の一部を子ども食堂へ回す計画だった。


 商売はすぐには軌道に乗らなかった。最初の商品は百袋の茶だけだった。子どもたちがパッケージを考えてくれたものの、ラベルの印刷ミスで全部貼り直した。山の小さな作業場は不衛生ではないかと書き込む人もいれば、注文後にキャンセルする人もいた。


 直人は一度、わずかな利益をすべて子ども食堂へ寄付しようとした。私は、働く人の賃金すら払えなければ、善意も長くは続かないと伝えた。


 私たちは初めて、家計、寄付の割合、それぞれが無理なく働ける時間について真剣に話し合った。直人はようやく、誰かを助ける前に、二人の暮らしも守らなければならないと学んだ。


 初めてのライブ配信を見ていたのは十数人だった。直人は緊張して言葉を忘れたが、最後には生徒へ授業をするように、茶の香りや育つ環境を説明した。その結果、十一袋が売れた。


 三か月後、彼が吹雪の日に一人暮らしの老人へ薬を届ける映像が、偶然大きな注目を集めた。注文は百袋から千袋へ増えた。村の高齢者が採取を担当し、若い保護者たちが包装を手伝い、使われていなかった倉庫は加工場へ変わった。


 最初の冬、私たちは古い家の修繕費を返し終え、中古の軽トラックを買った。嬉しそうに運転席へ座る直人を見て、私は尋ねた。


「ポルシェと比べて、どう?」


 直人は真剣な顔でハンドルをなでた。


「こっちは栗を三十箱積める。ポルシェには無理だ」


 私は車のドアに寄りかかって笑った。こんな豊かさがあれば、もう十分だと思えた。


 神崎側が撤退すると、水月館が長年隠してきた負債がすべて明るみに出た。佐伯弁護士は、父が私名義の山林から得られる収入を勝手に使っていたことを突き止め、返還を求める訴訟を起こしてくれた。


 翔太はすぐ高級外車を手放し、旅館の古い建物を売却すべきだと言い出した。父はそこで初めて、自分がすべてを与えて育てた「跡取り」が、この家を継ぐつもりなど最初からなかったと知った。


 秀美は何度も電話をかけ、姉妹の情がないと私を責め、事業の収入で旅館を救えと求めた。


「水月館は、父一人が築いたものではありません。母と、そこで働いてきた多くの人のものです」


 水月館は経営再建の手続きに入り、地域の企業が事業を引き継いだ。従業員の大半は、そのまま働けることになった。私は取り戻した収益を使い、母の名前を付けた奨学金を設立した。父は電話で、他人に金をばらまいたと怒鳴ったが、私は静かに通話を切った。


 怜司の事件の捜査には二年近くかかった。神崎ホールディングスは当初、すべての責任を護衛へ押しつけようとした。しかし、サーバーのバックアップが復元されると、怜司本人が違法な監視、行動の自由の制限、暴力を命じた記録が数百件も見つかった。


 被害者たちが次々に証言し、取締役会は怜司を解任した。取引先も相次いで契約を打ち切った。


 正式に逮捕された日、ニュースには病院から車椅子で連れ出される彼の姿が映った。両手を固定され、顔色は灰色だった。それでも弁護士に、清香はどこにいる、僕が残したものを彼女が捨てるはずはないと問い続けていた。


 誰も答えなかった。


 前の人生で、怜司は遺言によって私を影の中へ縛りつけた。今の人生では、私は彼の金を一円も受け取らず、一度も振り返らなかった。


 優奈は誘拐への加担と資料の偽造について捜査を受けた。同時に、長期間暴力を受けていた被害者として、閉鎖病棟で治療を受けることになった。意識がはっきりしている時には、私の居場所を怜司へ伝えたこと、両親が私の拒否を知りながら運転手に協力したことを認めた。けれど多くの時間、彼女は古い結婚雑誌を抱き、自分は今でも神崎夫人だと信じていた。


 私は一度だけ、彼女に会いに行った。面会室のガラス越しに、普通のセーターを着て月守村の栗菓子を持つ私を見ると、優奈はまだ嘲るように笑った。


「相変わらず、みすぼらしい暮らしをしているのね」


「神崎家の資産は凍結されたわ。ほかの被害者たちも、賠償を求めている」


 彼女は長い間、言葉を失った。やがて、突然涙をこぼした。


「それなら、私はやり直して、いったい何を手に入れたの?」


「もう一度、選び直す機会をもらった」


「でもあなたはまた、すべての人を交換できる物として扱った」


 優奈は謝らなかった。秀美が翔太ばかりをかわいがらなければ、直人がもう少し自分を大切にしてくれれば、豪邸で暮らす私の写真を見なければ、すべては違っていたと何度も繰り返した。


 彼女の言うことは、どれも実際にあった。確かに彼女を傷つけた出来事だった。けれど、その傷が真央を差し出す決断をしたわけではない。私を別邸へ送り込むと決めたわけでもない。優奈は一生、本当の意味で自分と向き合えないのかもしれない。それでも、もう私が背負う人生ではなかった。


 病院を出ると、京央都にはその年最初の雪が降っていた。



 8



 二年後の冬、私は白峰町立医療センターで女の子を産んだ。直人は赤ん坊を抱く時、緊張のあまり腕を曲げられず、看護師に何度も姿勢が正しいか尋ねた。娘が彼の指を握ると、ようやく目を赤くして笑った。


 私たちの事業は安定し、月守村の商品は複数の道の駅や地域の物産コーナーに置かれるようになった。最初はラベルを貼っていた保護者が、今ではオンライン注文を管理している。一人暮らしの高齢者が採るクロモジにも、安定した収入が付いた。真央は放課後、ときどき新しいパッケージの絵を描きに来た。


 真央は今も口数が少ない。それでも、自分は迷惑な子なのかとは、もう尋ねなかった。使われなくなった分校は、子どもの学習支援センターと地域の創業支援スペースに生まれ変わった。直人は教員を続けながら、自然体験の活動も企画している。


 村が物語のような場所になったわけではない。今も出ていく人はいる。作物が売れない年もあり、吹雪で道が閉ざされることもある。それでも、働くことでここに残れる人は少しずつ増えた。生きるために、すべての尊厳を捨てる必要はなくなりつつあった。


 真央が中学生になった年、彼女は自分から学習支援センターのボランティアに応募した。初めて受け取った謝礼を自分の口座へ貯金し、将来は福祉を学び、自分で助けを求められない子どもを支えたいと話した。直人はそれを聞くと、長い間背中を向けて目をぬぐい、室内の暖房で目が乾いただけだと言い張った。


 退院して家へ戻った日、テレビでは怜司への判決が報じられていた。監禁、傷害、違法な監視など複数の罪で、長期の実刑判決を受けた。画面の中で、私が永遠に自分のものだと信じていたその目に、初めて恐怖が浮かんでいた。


 直人はリモコンを取り、テレビを消した。


「もう見なくていい」


 娘は揺りかごの中で静かに眠っていた。窓の外では栗林が雪に覆われ、台所には村の人たちが届けてくれた野菜と赤飯が並んでいる。私は直人の肩に頭を預け、急に焼き芋が食べたくなった。


 彼は物置から二本選び、アルミホイルで包んで石油ストーブの上へ置いた。


「蜜が出るまで焼いた方がおいしいよ」


 部屋の中に、少しずつ甘い香りが広がった。私は直人の背中を見ながら、前の人生で与えられた高価な宝石と、決して開かなかった扉を思い出した。あの頃、誰もが私をうらやみ、世界で一番恵まれた人生を手に入れたと思っていた。


 けれど今なら分かる。本当に大切なものは、名家の名字でも、支配を条件に与えられる遺産でもない。


 自分の手で自由に開けられる扉。冬の夜に安心して眠れること。子どもの穏やかな寝息。そして、焼き芋は蜜が出るまで焼いた方がおいしいと覚えていてくれる人。


 今度の人生では、誰にも私の代わりに選ばせなかった。


 そしてようやく、自分の人生を、最後までこの手に取り戻すことができた。


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