第二話 優越感の落とし穴
翌朝の教室は、いつもと変わらない喧騒に包まれていた。
一限目が始まる前の気だるげな空気。黒板を消す日直、昨夜のドラマの話で盛り上がる女子グループ、そしてスマホゲームに興じる男子たち。
その日常の中で、俺、相馬蓮は静かに席に座り、文庫本を読んでいた。
活字を目で追っているふりをしながら、全神経を研ぎ澄ませて「音」を拾う。
「……ねえ、昨日は大丈夫だった? 補習、遅かったんでしょ?」
右斜め前の席から、一ノ瀬エレナの声が聞こえる。
彼女は友人と話しているふりをして、しきりにスマホ(MINE)を気にしていた。
その表情は、昨日の「情事」の余韻を感じさせるような艶っぽさはなく、どこか顔色が悪い。
無理もないだろう。
昨夜、彼女が帰宅したのは深夜一時を過ぎていた。
もちろん、その足取りは全て俺が把握している。
カケルとの情事の後、終電間際の電車に飛び乗り、親には「友達の家で勉強してたら寝ちゃった」と苦しい言い訳をしていた。
その通話記録も、もちろん俺のサーバーに保存されている。
「おはよう、エレナ。顔色が悪いけど、大丈夫?」
俺は栞を挟んで本を閉じ、心配そうに声をかけた。
エレナの肩がビクリと跳ねる。
彼女は恐る恐る振り返り、引きつった笑みを浮かべた。
「あ、おはよう……蓮。う、うん、ちょっと寝不足で」
「そうなんだ。委員会、大変だったね。無理しないでよ?」
俺は鞄から、彼女が好きなお気に入りの柑橘系のど飴を取り出し、そっと机の上に置いた。
それは、かつて彼女が「これ食べると元気出るんだよね」と言っていたものだ。
俺の変わらない優しさ。
それが今の彼女にとって、どれほどの猛毒になるかを知りながら。
「あ……ありがとう。蓮は、本当に優しいね」
エレナの視線が揺れる。
罪悪感だ。
俺の純粋な好意を受け取るたびに、彼女の心には「裏切り」という名の棘が深く突き刺さる。
彼女の首筋、コンシーラーで隠したつもりだろうが、俺の目にはうっすらと赤い鬱血痕が見えていた。
カケルがつけたマーキングだ。
本来なら激昂して問い詰めるところだが、俺は内心で冷ややかに笑うだけだった。
汚い。けれど、その汚れこそが、君を俺だけのものにするための「鎖」になる。
「そうだ、今日のお弁当、エレナの好きな唐揚げ入れたんだ。お昼、一緒に食べようか」
「えっ……あ、ごめん! 今日は、その……購買でパン買おうと思ってて! 友達と約束しちゃったから!」
エレナは慌てて拒絶した。
分かりやすい。
昨日の今日で俺と向き合うのが怖いのだろうし、何よりカケルから「昼休みに屋上に来い」というMINEが届いているのを俺は知っている。
「そっか。残念だけど、仕方ないね。じゃあ、また放課後に」
俺は寂しそうな顔を作ってみせる。
エレナは逃げるように前を向き、二度とこちらを振り返ろうとはしなかった。
一時間目の授業が終わり、休み時間になった瞬間、廊下が騒がしくなった。
隣のクラス、つまり桐島カケルのいるクラスの方からだ。
怒号のような声が聞こえる。
「ふざけんなよ! 誰だよ俺のロッカーいじった奴!」
俺は小さく口角を上げた。
始まったようだ。
俺はトイレに行くふりをして席を立ち、廊下に出た。
隣のC組の教室前には人だかりができている。
その中心で、カケルが自分のロッカーを蹴り上げていた。
中身が床に散乱している。教科書、制服のシャツ、そしてバスケのシューズ。
「おい、どうしたんだよ桐島」
「財布だよ! 俺の財布がねぇんだよ! 誰か盗みやがったなクソが!」
カケルが血相を変えて叫んでいる。
周囲の生徒たちは、腫れ物に触るように遠巻きに見ているだけだ。
カケルの財布。
中には現金数万円と、身分証、そして彼が偽造して使っている年齢確認用の学生証が入っている。
さらに言えば、コンドームも常備されていることはリサーチ済みだ。
それが公になれば、ただの紛失騒動では済まない。
俺は人混みの後ろから、その様子を静観していた。
もちろん、盗んでなどいない。
ただ、「移動」させただけだ。
今朝早く、誰もいない時間帯に学校へ忍び込み(セキュリティシステムの抜け穴は把握済みだ)、彼のロッカーから財布を抜き取り、別の場所へと移した。
あくまで「悪質な悪戯」の範疇に留めることで、警察沙汰にはならず、かつ彼の精神を削ることができる。
「……あったぞ! 桐島!」
男子生徒の一人が、教室の隅にあるゴミ箱を指差した。
分別用のゴミ箱の上に、無造作にその財布が置かれていたのだ。
カケルは舌打ちをしながら駆け寄り、財布をひったくるように回収した。
中身を確認する手つきが焦っている。
「……チッ、金は抜かれてねぇな」
カケルは安堵と苛立ちが入り混じった表情で呟いた。
現金は無事。中身の「ヤバイもの」も無事だったようだ。
だが、その事実は逆に彼を不安にさせる。
金目当てではない。
単なる嫌がらせ。
誰かが自分を狙っているという事実が、明確な悪意として突き刺さる。
カケルが周囲を睨みつける。
「誰だよ……面白くねぇことしやがって。名乗り出ろよコラ」
誰も答えない。
犯人が分からない恐怖。
俺は人混みに紛れ、無表情のままその場を立ち去った。
これは挨拶代わりだ。
お前の日常という地盤は、もう緩み始めているんだよ、桐島くん。
昼休み。
俺は一人、中庭のベンチで弁当を広げていた。
エレナのために作った唐揚げを、自分で噛み締める。
少し味が濃かったかもしれない。次はもう少し醤油を減らそうか。
そんなことを考えながら、俺は膝の上に置いたタブレット端末を操作していた。
画面には、カケルのスマートフォン(MINE)の画面がミラーリングされている。
彼は今、屋上でエレナと一緒にいるはずだ。
音声データが、俺のイヤホンにクリアに届く。
『……でさ、マジでムカつくんだよ。朝から気分わりぃ』
『そ、そうだよね。でも、お財布見つかってよかったじゃない』
『よくねぇよ! 誰かが俺をハメようとしてんだよ。お前じゃねぇだろうな?』
『えっ!? 私なわけないじゃん! なんでそんなこと言うの?』
カケルの荒立った声と、エレナの怯えた声。
昨日の甘い雰囲気はどこへやら、二人の間には険悪な空気が流れている。
カケルは今、疑心暗鬼になっている。
誰がやったのか分からないストレスを、一番身近で、かつ自分より立場の弱い人間にぶつける。
それが彼のような人種の防衛本能だ。
『チッ、うるせぇな。飲み物買ってこいよ。コーラな』
『え……あ、うん。分かった』
パシリ扱いだ。
エレナはクラスの人気者で、男子からちやほやされることに慣れている。
俺も彼女をお姫様のように扱ってきた。
だというのに、こんな男に顎で使われて、それでも彼女は従っている。
「悪い男に惹かれる」という心理なのか、それとも昨日の情事で弱みを握られたような気分になっているのか。
いずれにせよ、エレナのプライドは傷つき始めている。
俺はタブレットをスリープモードにし、最後の一つになった唐揚げを口に放り込んだ。
カケルへの攻撃は、物理的なものだけではない。
精神的な包囲網を敷く。
俺はポケットからスマホを取り出し、準備していた「プログラム」を実行した。
カケルのスマホに、一件の通知が届くはずだ。
Austaの通知。「新しいフォロワーがいます」。
アカウント名は意味不明な英数字の羅列。アイコンは真っ黒。
そして、DMが一通送信される。
内容はシンプルだ。
カケルが以前、裏垢(鍵付き)に投稿した「未成年飲酒をして路上で寝ている写真」のスクリーンショット。
メッセージは一言だけ。
『楽しそうだね』
送信直後、俺はその捨てアカウントを削除する。
証拠は残さない。
しかし、カケルの脳裏には強烈な残像が焼き付く。
「誰かが俺の裏の顔を知っている」
「誰かが俺を監視している」
五時間目の移動教室の時だった。
俺は廊下の角で、自販機から戻ってきたカケルと鉢合わせた。
彼は酷く不機嫌そうで、手には飲みかけのコーラを持っている。
俺に気づくと、彼は露骨に嫌な顔をした。
「あ? なんだお前かよ。邪魔だ、退け」
カケルは俺の肩にわざとぶつかるようにして通り過ぎようとする。
いつもなら、俺は「ごめん」と言って道を譲る。
穏やかで、争いを好まない「相馬蓮」として。
だが、今日は違う。
俺は足を止め、一歩も動かなかった。
「……あ?」
カケルが立ち止まり、凄むように俺を睨みつける。
身長は彼の方が高い。バスケで鍛えた体格も、俺より一回り大きい。
暴力沙汰になれば勝てないと思っているのだろう。
その慢心が、見ていて哀れだった。
俺はゆっくりと顔を上げ、彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。
作り笑いはしない。
無表情ですらない。
俺が浮かべたのは、彼という存在を「生物」としてではなく「処理すべきデータ」として認識した時の、冷徹な観察眼だ。
瞳の奥から光を消し、彼の網膜の奥にある恐怖中枢を直接刺激するような視線。
まるで、解剖前のカエルを見るような目で、彼を見つめた。
「…………っ!?」
カケルが息を呑んだのが分かった。
彼の本能が警鐘を鳴らしたのだ。
目の前にいるのは、いつもの気弱な優等生ではない。
もっと異質で、危険な何かだと。
彼の瞳孔が収縮し、持っていたコーラの缶を握り潰す音が微かに響く。
時間にして、わずか二秒。
俺は瞬きを一つして、いつもの「人の好さそうな笑顔」を貼り付けた。
「ああ、ごめんね桐島くん。考え事をしてて」
俺はわざとらしく頭を下げ、彼の脇をすり抜ける。
カケルは呆然と立ち尽くしていた。
背中越しに、彼の荒い呼吸音が聞こえる。
「……なんだ、今の」という震えた呟きも。
恐怖の種は蒔いた。
それは彼の心の中で芽を出し、疑心暗鬼という肥料を吸って、急速に成長していくだろう。
自分が「狩る側」だと思っていた彼は、今、初めて「狩られる側」の気配を感じ取ったのだ。
放課後。
エレナは、逃げるように教室を出ようとしていた。
カケルとの関係がぎくしゃくし始め、居心地が悪くなったのだろう。
そして、その不安を埋めるために、俺という「安全地帯」を求めているのが手に取るように分かった。
チラチラとこちらを見る視線。
「蓮、一緒に帰ろう」と言いたげな、潤んだ瞳。
昨日までなら、俺は喜んで彼女の荷物を持ち、並んで帰っただろう。
だが、今の彼女に必要なのは優しさではない。
「拒絶」という名の教育だ。
「蓮……あのね、今日……」
エレナが意を決したように俺の席に近づいてくる。
その手には、俺とお揃いのストラップがついた鞄が握りしめられている。
甘えを含んだ声色。
カケルに冷たくされた分、俺に優しくされたいという打算が見え透いている。
俺は片付けの手を止めず、彼女を見ずに答えた。
「ごめん、エレナ。今日は生徒会の集計作業があるんだ。遅くなるから、先に帰ってて」
嘘ではない。
ただし、普段なら「エレナとの時間」を優先して、他の役員に押し付けるか、明日の朝に回すような仕事だ。
それをあえて「優先」した。
エレナよりも、仕事を優先したのだ。
「え……?」
エレナが絶句する。
今まで一度だって、俺が彼女の誘いを断ったことなどなかったからだ。
彼女の中で「蓮はいつでも私を受け入れてくれる」という前提が崩れ去る音が聞こえる。
「それに、今日はなんだか……エレナと話すと、少し疲れる気がするんだ」
俺は残酷な一言を付け加えた。
あくまで柔らかい口調で、しかし内容は鋭利なナイフのように。
「……え、それ、どういう……」
「うーん、気のせいかな。なんか、いつもと雰囲気が違うっていうか。……香水、変えた?」
ドキリ、とエレナが息を止める。
香水などつけていない。
だが、カケルの匂いが染み付いているのではないか、という不安が彼女を襲う。
彼女は自分の制服の袖に鼻を近づけ、顔を青くした。
「じゃあ、行ってくるね。気をつけて帰って」
俺は彼女を残し、爽やかに教室を出た。
振り返ると、エレナは教室の真ん中で一人、ポツンと立ち尽くしていた。
世界から切り離されたような孤独な姿。
その光景があまりにも美しくて、俺は思わず回廊の陰で声を殺して笑った。
カケルからは理不尽に怒鳴られ、俺からは距離を置かれる。
彼女の逃げ場はどこにもない。
居場所をなくした彼女は、やがて気づくだろう。
自分を本当に愛してくれるのは誰なのか。
そして、その愛を取り戻すためには、自分がいかに愚かだったかを認め、這いつくばって許しを請うしかないのだと。
「ざまぁみろ」なんて、そんな安っぽい言葉では表現できない。
これは救済だ。
間違った道へ進もうとした彼女への、愛ある指導だ。
ポケットの中でスマホが震えた。
カケルがTwotterで暴れている通知だ。
『誰だよマジで! ぶっ殺してやる!』
虚勢を張れば張るほど、彼の追い詰められた精神状態が露呈していく。
彼のフォロワーたちは、その異常な剣幕に引き始めている。
「カケルくん、どうしたの?」「なんか怖くない?」というリプライが散見される。
カケルの社会的地位の崩壊と、エレナの精神的孤立。
二つの歯車が、俺の描いた設計図通りに噛み合い、回転し始めた。
俺は生徒会室へ向かう廊下を、鼻歌交じりに歩く。
次の手は決まっている。
明日は、もっと「派手」な花火を打ち上げよう。
カケルくんが積み上げてきた「スクールカースト上位」という砂上の楼閣を、一気に吹き飛ばすような特大の爆弾を。
夕日が廊下を赤く染める。
その赤は、これから始まる悲劇と、俺の燃え上がるような愛の色に似ていた。
俺の復讐劇は、まだ幕を開けたばかりだ。




