第一話 穏やかなる観察者
春の陽気が微睡みを誘う、四月の午後。
教室の窓から差し込む陽光は暖かく、舞い散る桜の花びらが時折、開け放たれた窓枠を越えて机の上に落ちてくる。
放課後を告げるチャイムが鳴り響くと、けだるげな空気は一瞬にして活気へと変わった。
椅子を引く音、教科書を閉じる音、そして笑い声。
喧騒が支配する教室の中で、俺、相馬蓮は、ゆっくりと筆箱を鞄にしまいながら、斜め前の席に座る少女の背中を見つめていた。
一ノ瀬エレナ。
艶やかな黒髪をポニーテールにまとめ、うなじの後れ毛が白く輝く肌に映えている。
彼女は俺の幼馴染であり、恋人だ。
周囲からは「お似合いのカップル」と言われているし、俺自身もそう思われるように振る舞っている。
温厚で、怒ったところを見たことがない、優しすぎる彼氏。それが俺、相馬蓮のパブリックイメージだ。
「蓮、またボーッとしてる。早くしないと部活始まっちゃうよ?」
振り返ったエレナが、悪戯っぽく微笑む。
その笑顔は太陽のように明るく、クラスの男子の視線を無意識に集めているのが分かる。
だが、今の俺の目には、その笑顔の裏に張り付いた微かな「翳り」が見えていた。
ほんの数ミリ、口角の上がり方がいつもより硬い。
瞬きの回数が、平時より〇・五秒ほど速い。
「ごめんごめん。エレナに見惚れてただけだよ」
俺はいつものように、緩やかな笑みを浮かべて答える。
俺の言葉に、エレナは「もう、すぐそういうこと言うんだから」と頬を染めるが、その視線は俺から逸れ、机の上に置かれたスマートフォンへと吸い寄せられていた。
画面が短く明滅している。
MINEの通知だ。
「……あ、ごめん蓮。私、今日はちょっと急ぐね。委員会から呼び出されちゃって」
エレナは慌てた様子でスマホをスカートのポケットに押し込むと、鞄を鷲掴みにした。
嘘だ。
今日の委員会活動は無いはずだ。
俺は生徒会の雑務を手伝っている関係で、各委員会の活動予定表を全て頭に入れている。
もちろん、臨時招集の可能性もゼロではないが、彼女の焦り方は業務的なものではない。
もっと、後ろめたさと高揚感が入り混じった、独特のフェロモンを発している。
「そうなんだ。大変だね。何か手伝えることはある?」
俺はあくまで善意の塊として、心配そうに問いかける。
この「手伝おうか」という言葉が、今の彼女にとってどれほどのプレッシャーになるかを計算した上で。
「ううん! 大丈夫! 蓮は優しいね……本当に、ごめんね!」
エレナは逃げるように席を立ち、教室の出口へと向かう。
その背中を見送りながら、俺は心の中で秒数をカウントする。
三、二、一。
教室の後方ドアが乱暴に開かれ、大きな影がエレナとすれ違うように入ってきた。
「よう、相馬。まだ残ってたのかよ」
馴れ馴れしい口調と共に、甘ったるい香水の匂いが鼻をつく。
桐島カケル。
隣のクラスのバスケ部エースで、派手な外見と言動で目立つ男だ。
制服の着崩し方から、銀色の安っぽいアクセサリーまで、俺とは対極にある存在。
エレナが廊下に出たタイミングと、彼が入ってきたタイミング。
完璧なシンクロだ。
廊下ですれ違いざま、二人が視線を交わしたのを俺は見逃さなかった。
指先が微かに触れ合う、あの一瞬の熱量も。
「桐島くんか。奇遇だね」
「奇遇も何も、俺は用があって来ただけだし。お前こそ、あんな真面目ちゃん演じてて疲れないわけ? エレナも退屈してんじゃねーの?」
カケルは俺の机に手をつき、見下すようにニヤニヤと笑う。
その瞳には、明確な侮蔑の色があった。
彼は俺のことを「退屈で無害な男」だと認識している。
だからこそ、俺の大切なものを奪うことに優越感を感じているのだろう。
彼の視線が、俺の鞄についているエレナとお揃いのストラップに向けられた。
「……彼女を大切にするのは、彼氏として当たり前のことだよ」
「へえ、優等生サマは言うことが違うねぇ。ま、その『大切』が重荷にならなきゃいいけどな」
カケルは鼻で笑うと、「じゃ、邪魔したな」と言って手を振り、教室を出て行った。
行き先は明白だ。
エレナが向かった方向と同じ。
俺は一人残された教室で、ゆっくりと息を吐き出した。
怒り? 悲しみ?
いいや、そんな感情は微塵もない。
俺の胸を満たしているのは、静寂と、冷徹な計算式だけだ。
「……『重荷』か。鋭いことを言うね、桐島くん」
俺は鞄から自分のスマートフォンを取り出した。
画面には、複雑なグラフと地図が表示されている。
俺は誰にも気づかれないように、静かに、そして迅速に行動を開始した。
帰宅部の俺は、そのまま誰とも会話することなく学校を後にした。
通学路を歩く足取りは軽い。
途中、コンビニで栄養ゼリーとブラックコーヒーを購入する。
今夜は長くなるかもしれない。
そう思うと、不思議と高揚感が湧いてきた。
自宅のマンションに辿り着き、鍵を開ける。
「ただいま」
返事はない。
両親は海外赴任中で、この広い3LDKには俺一人しか住んでいない。
静まり返ったリビングを通り過ぎ、俺は自室へと直行した。
俺の部屋は、一見すると普通の男子高校生の部屋だ。
参考書が並んだ本棚、シンプルなベッド、そして机。
だが、クローゼットの奥にある隠し扉を開けると、そこには全く別の空間が広がっている。
壁一面に設置された六つの高精細モニター。
冷却ファンの低い唸り声を上げる自作のサーバータワー。
ここは俺の「聖域」であり、エレナを守るための「管制室」だ。
俺は慣れた手つきでキーボードを叩き、システムを起動させる。
モニターが一斉に明かりを灯し、膨大なデータが滝のように流れ始めた。
「さて……エレナ、今どこにいるのかな」
中央のモニターに表示されたのは、この街の地図だ。
その上を、赤い光点がゆっくりと移動している。
エレナのスマートフォンに仕込んだGPSではない。
そんな短絡的な方法は、もし見つかった時に言い訳が立たない。
俺が追跡しているのは、彼女が愛用しているワイヤレスイヤホンの微弱な信号だ。
以前、彼女のイヤホンが壊れた際、俺が修理を請け負った。
その時に少しばかり「改良」を施させてもらったのだ。
バッテリーの持ちは少し悪くなったかもしれないが、彼女の安全を考えれば安い代償だろう。
赤い光点は、学校から三駅離れた繁華街のエリアで停止した。
そこは、高校生が放課後に立ち寄るような場所ではない。
ラブホテルや安居酒屋がひしめく、大人の歓楽街だ。
「……なるほど。委員会活動にしては、随分と活動的な場所だね」
俺は冷静に呟きながら、右側のモニターに視線を移した。
そこには、主要なSNSのタイムラインがリアルタイムで更新されている。
ターゲットは「桐島カケル」。
彼のアカウントは鍵付き(非公開)だが、そんなものは俺にとって障壁ではない。
彼の裏アカウント、通称「サブ垢」へのアクセス権は、先月彼が校内Wi-Fiに接続した際に既に確保済みだ。
Twotterの画面に、新しい投稿が表示された。
投稿時間は三分前。
『優等生くんから解放された姫と合流w 今日はとことん楽しませてやるわー』
添付された写真には、カラオケボックスの一室とおぼしき背景。
テーブルの上には酒の缶チューハイ(未成年飲酒の証拠だ、保存しておこう)。
そして、カケルの肩に寄りかかるようにして写っている、見覚えのある制服のスカート。
顔は写っていないが、その細い指先には、俺が先週プレゼントしたシルバーの指輪が光っている。
「……ふふ」
思わず、口元から笑みが零れた。
心臓が不快に脈打つどころか、むしろ心地よいリズムを刻んでいる。
エレナが他の男と肌を重ねている。
俺以外の男に、あのようなとろけた表情を見せている(想像だが、容易に脳内再生できる)。
普通なら、絶望に打ちひしがれる場面だろう。
嫉妬に狂い、スマホを壁に投げつけているかもしれない。
だが、俺は違った。
俺が感じているのは、深い安堵と、背筋が震えるほどの歓喜だ。
「よかった……」
本当に、心の底からそう思った。
俺はエレナを愛している。
狂おしいほどに、骨の髄まで、彼女の全てを愛している。
彼女の笑顔も、声も、匂いも、排泄物さえも、全てが俺にとっては至高の芸術品だ。
しかし、これまでの彼女は「清廉潔白な幼馴染」だった。
俺が彼女を独占し、社会から切り離して鳥籠に閉じ込めるには、「正当な理由」が欠けていた。
無理やりに閉じ込めれば、それはただの犯罪であり、彼女の心は離れてしまうかもしれない。
彼女自身が「自分は汚れている」「私は蓮にしか愛されない」と自覚する必要があったのだ。
それが、今日、完成した。
彼女は裏切った。
俺という、誰よりも彼女を愛し、尽くしてきた献身的な彼氏を、一時の快楽のために裏切ったのだ。
これは罪だ。
そして罪には、償いが必要だ。
「ありがとう、桐島くん。君のおかげで、僕はエレナを『許す』ことができる」
俺はカケルのTwotter画像を保存し、丁寧にフォルダ分けした。
フォルダ名は『害虫駆除_証拠ログ』。
そしてもう一つ、新しいフォルダを作成する。
『愛の鳥籠_育成記録』。
俺はモニターに映るカケルの薄汚い笑顔と、それに寄り添うエレナの姿を指でなぞる。
カケルへの制裁は、徹底的に行わなければならない。
彼には、エレナを汚した罪を、その人生すべてを使って償ってもらう。
社会的に抹殺し、精神を崩壊させ、二度と立ち上がれないように踏み潰す。
それは単なる復讐ではなく、エレナを取り戻すための大掃除だ。
そしてエレナ。
可哀想な、愚かな僕のエレナ。
君は悪い男に騙された被害者になる。
傷つき、汚れ、誰からも見放された君を、僕だけが優しく抱きしめるんだ。
「大丈夫だよ、どんな君でも愛しているよ」と。
そうすれば君は、もう二度と僕の腕の中から出ようとはしなくなるだろう。
外の世界は怖い場所だと、僕がいないと生きていけないと、その身体に刻み込んであげる。
「……まずは、手始めに」
俺はキーボードを叩き、カケルのスマートフォンからAustaのログイン情報を引き抜く準備を始めた。
彼のような自己顕示欲の塊は、パスワードの管理が杜撰だ。
誕生日、あるいは元カノの名前。
解析ソフトが文字列を弾き出すまで、そう時間はかからないだろう。
「今日の『デート』、最後まで楽しんでおいで。それが、君たちの最後の平穏な思い出になるから」
俺は冷めたコーヒーを一口啜る。
苦味が舌の上に広がるが、今の俺には極上の甘露のように感じられた。
モニターの光に照らされた俺の顔が、画面の暗転に合わせて一瞬だけ映り込む。
そこに映っていたのは、普段の温厚な「相馬蓮」ではない。
獲物を前にして舌なめずりをする、飢えた怪物の笑顔だった。
カケルがAustaに投稿したストーリー動画が再生される。
『マジちょろいw』という文字と共に、酔っ払ったカケルがエレナの肩を抱き寄せ、無理やりキスをする映像。
エレナは一瞬抵抗するような素振りを見せたが、すぐに力を抜き、それを受け入れていた。
その映像を見ながら、俺の股間が熱くなるのを感じた。
興奮しているのだ。
彼女が汚されていく様子に、そしてそれを全て把握し、コントロール下に置いている自分自身に。
「ああ、エレナ……大好きだよ。早く、早く僕だけのものになっておくれ」
俺は狂気的な愛を込めて、モニターの中の彼女に囁きかけた。
その声は、静まり返った部屋の中で、不気味に響き渡った。
復讐の劇薬と、甘美な地獄の準備は整った。
さあ、始めようか。
僕たちの、永遠の愛の物語を。




