第5章:雨の夜
雨の音は、世界の輪郭を溶かす。
線のはっきりしたもの――道路標識、電柱、隣の部屋のテレビの笑い声――そういうものを、全部ふやけさせて、最後に残るのは自分の呼吸だけだ。息を吸うと、湿った空気が肺に貼りつく。吐くと、部屋の暗さが少しだけ濃くなる。
この部屋には、朝も昼も夜も、そんなに違いがない。違いがあるのは、雨の日だけだ。雨の日は、外の世界が自分に近づいてくる。逃げ道がないみたいに。
スマホが、手の中でじっとりと冷たい。
指先が震えるのは、寒さのせいじゃない。酒のせいでもない。――いや、酒もある。空になった缶が、床に転がっている。転がるたび、アルミが薄く鳴って、その音がやけに恥ずかしい。
俺は、壁にもたれたまま画面を見る。
「都の自殺相談窓口」――そういう名前だったはずだ。どこで見たのか、覚えていない。いつから保存していたのかも、思い出せない。ただ、その番号だけが、ずっとここにあった。連絡先の一覧の中で、妙にまじめな顔をして。
呼び出し音が鳴る。
その間、俺は部屋を見回してしまう。見回したところで、何が変わるわけでもないのに。
六畳一間。
床は畳で、ところどころ色が抜けて、靴下のまま歩くとささくれが足裏に刺さる。玄関からすぐの小さなキッチン。シンクには洗っていない皿が重なり、スポンジは乾いて硬い。ガスコンロの上には、使いかけの鍋。
壁際には、折り畳みのテーブル。上に領収書、封筒、督促状。赤い字が目に刺さる。赤い字は、攻撃みたいだ。布団は万年床で、掛け布団の端が黒ずんでいる。窓の結露が、ガラスの内側を濡らし、カーテンの裾を冷たくしている。
呼び出し音が、切れた。
「もしもし、都の相談窓口です。お話、伺います」
女性の声。若いのか、年配なのか分からない。分からないように、丁寧に整えられている声。
俺は一瞬、何を言えばいいのか分からなくなる。言葉にした瞬間、全部が嘘になる気がした。
「……俺、もう、無理で」
それだけ言ったら、喉が詰まった。
向こうは、急かさない。
「無理、と思うほど、今、苦しいんですね。……今、ひとりですか」
たったそれだけで、胸の奥がゆるむ。
ゆるんだ拍子に、涙が出そうになる。泣くのは嫌だ。泣いたら、もっと惨めだ。惨めなのは、もう十分だろ。
「ひとりだ」
「今夜の安全だけ、確認させてください。今、すぐに自分を傷つけたい気持ちはありますか」
――言えない。
言えないのに、頭の中にははっきり形がある。紐の感触。首の骨の音。息が細くなる予感。
「……ある」
言ってしまった。
言った瞬間、部屋の空気が重くなる。重くなって、俺の肩にのしかかる。
「教えてくれてありがとうございます。今夜、あなたをひとりにしたくありません。どなたか、連絡できる人はいますか」
「いない」
声が乾いた。
向こうは、間を置いて、別の言い方をする。
「では、こちらから、近くの警察に連絡を入れてもいいですか。あなたの場所を――」
「やめてくれ」
俺は反射で言った。
警察とか、救急とか、そういう言葉は、俺の生活をさらに壊す匂いがする。もう壊れてるのに、さらに壊れる匂いがする。
「分かりました。今は、その提案が怖いんですね。……では、別の方法を考えます。あなたが、今夜を越えるための方法を」
その言葉が、優しすぎて、逆に怖い。
越える。今夜を越える。越えた先に、何がある。督促状がある。家賃がある。痛む膝がある。職場はない。友達もない。
越えた先に、何があるんだよ。
「……もう、いい」
俺は言って、通話を切ろうとした。
その時だ。
――スマホが、もう一度鳴った。
着信。
番号は見覚えがない。けれど、画面に表示される文字が、やけにきれいだった。
「心の灯り」
え?
都の窓口から、こんなに早く? そんな連携、あるのか?
疑問が浮かぶより先に、指が勝手に通話ボタンを押していた。押してしまった。
「こんばんは」
声がした。
さっきの相談員とは違う。もっと近い声。耳元に息がかかる距離みたいな。
「死なないで」
その言葉が、胸に刺さる。刺さって、抜けなくなる。涙がこぼれた。堪えたかったのに、堪えられなかった。
「あんたか」
「お願い。今夜は、死なないで。いまは“結論”を出す時間じゃない」
即答だった。優しさの声なのに、刃物みたいに迷いがない。
「あなたは、疲れてる。判断がまともにできる状態じゃない。今夜だけでいい。今日だけでいい。明日に回して。あなたは“今夜”に負けていい。負けて、逃げていい。生きるって、そういう日がある」
「……逃げても、結局、同じだろ」
「同じじゃない。あなたが今ここで死んだら、“終わり”になる。生き延びたら、まだ変えられる。少なくとも、選べる」
雨音が遠のいた。
代わりに、心臓の音が大きくなる。相手の声が、耳の内側に染みてくる。
「悪い。俺もう、頑張れないわ。疲れた。生きるのが苦しいだ」
「判りました。あなたは、もう十分頑張りましたね」
その言葉が、胸に刺さる。刺さって、抜けなくなる。涙がこぼれた。堪えたかったのに、堪えられなかった。
「今からあなたを、天国へ迎えに行きます」
迎え。
迎えって、何を。
頭がぼうっとして、部屋の隅がゆがむ。雨音が遠のいて、代わりに心臓の音が大きくなる。
窓のガラスに、自分の影が映った。
影が――増える。
俺の影の横に、もう一つの人の形。
でも、部屋には誰もいない。玄関は鍵をかけた。チェーンもかけた。外から入れない。入れるはずがない。
影が、こちらへ滑ってくる。
音がしない。足音がない。
白い光が、影の輪郭から滲む。
――天使。
そう見えた。
薄い金色の髪。柔らかい白い服。顔ははっきりしないのに、確かに優しい。確かに泣いている。俺のために泣いている気がした。
でも、その輪郭が、ほんの一瞬だけ、歪んだ気がした。いや、気のせいだ。俺の目がおかしいだけだ。
「さぁ、一緒に行きましょう」
天使が言った。
俺の足が、勝手に動いた。紐の方へ。踏み台の方へ。
怖くない。そうだ。怖くない。怖いのは、生きることだ。
その瞬間、天使の手が伸びた。
輪が首にかかる。
優しく、首を抱くみたいに。
そして――踏み台が動き、俺の体がわずかに落ちた。
紐が、喉の奥へ沈んだ。
「……っ、が――!」
空気が、入らない。
首が、潰れる。骨が鳴る。
俺は両手で紐を掴む。掴んだ感触が、硬い。柔らかい肌じゃない。濡れたゴムみたいな、嫌な硬さ。
目の前が白くなる。白くなって、点滅して、ノイズみたいに崩れる。
天使の顔が近づいた。
口が動く。
「あなたは天国へ行けます」
救いって、こういうことか。
視界の端で、倒れたビール缶が転がる。
アルミの音が、遠い。雨の音も遠い。俺の呼吸だけが、遠い。
最後に見えたのは、天使の背中に、黒い影が張り付く瞬間だった。
光の皮の下の、黒い人型。
その黒が、笑っている気がした。
――ああ。
これで、終わる。ようやく、俺の人生が終わる。
紐は首を支えたまま。
外から見れば、首吊りに見える角度で。




