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第6章:新たな相談者(3ヶ月前)

読者の方、大変すいません。

中だるみ防止のため、第6章を第5章の前に入れたほうが良いとのアドバイスにより、章の順序がおかしくなっています。




 始まりは、まだ夜風に冬の名残がある三ヶ月前のことだった。

 夜の六本木って、たまに嘘みたいに綺麗だ。  ガラスの壁にネオンが流れて、道端の水たまりまで宝石みたいに光る。――なのに、その光が私の中に入ってくると、だいたい胃のあたりで止まって、冷えて残る。

 笑うのは得意だ。お金の話も得意だ。可愛いねって言われたら、反射で「ありがと」って返せる。  でも、ひとりで部屋に帰って、ヒールを脱いだ瞬間だけ、体の芯に溜まってたものが「ほら出番だよ」って顔を出す。  それが、最近は、ちょっと大きい。

 ◇   ◇   ◇

 私の部屋は、六本木の駅から少し歩いたところの1LDK。 玄関を開けると、甘いルームフレグランスの匂いがまず来る。

 部屋の床はフローリングで、艶が出るまで磨かれている。壁は白く、家具は黒とガラスで統一されている。

 リビングには大きな姿見。その横にクローゼットがあって、中にはブランドの服が並ぶ。 白い壁、薄いグレーのソファ、ガラスのローテーブル。

 テーブルの上には、使いかけのリップが二本、紙袋のままのコスメ、通販の段ボール。タグが付いたままのバッグ、開けていない靴の箱。購入した瞬間だけが幸せで、その後は埃を被る。片づいてるようで、ちゃんと散らかっている。



 春香は、ベッドの端に座っていた。

 壁際のラックには、光沢のある箱が並んでいて、どれもロゴが控えめなのに強い。見せびらかすためじゃなくて、私が「ここにいる」って確認するためのもの。  ブランドのバッグは、私の心のジャケットみたいなもので――着てないと寒い。

 スマホが震えた。  画面には、さっきまで一緒だった男の名前。ハートの絵文字。うざい。

「今日はありがと〜」

 私は甘く言って、すぐ切った。  切ってから、ソファに沈む。

 鏡が目に入る。  玄関横の姿見。照明のせいで肌が少し白く見える。  髪は明るめの茶色で、巻きがほどけかけてる。まつ毛は盛れてる。唇はグロスがまだ光ってる。  ――綺麗。  そう思っていいはずなのに、胸の奥が「それだけ?」って笑う。

 テーブルの上に置いた高いヒールが、爪先をこちらに向けていた。  犬が伏せしてるみたいで、可愛い。  でも、その可愛さが、急に嫌になる。

「……もっと稼がなきゃ、足りない」

 口に出すと、部屋が静かすぎて、自分の声が軽くて恥ずかしかった。

 私はソファの背に頭を預け、スマホを持ち上げる。  画面の端に、未払いの通知が並ぶ。カード。サブスク。家賃。美容。

 足りない。  いつも、足りない。

 その「足りない」が、最近はお金だけじゃなくなっている。

 胸の奥が、すうっと空いていく感じ。 空いていくのに、息が詰まる。

 笑う練習は、してきた。 でも泣く練習は、してない。

 私は、検索欄に打った。

『死にたい 相談 東京』

 出てきたのは、よくあるページだった。  公的っぽい文面。数字。受付時間。  そこに、ふっと目が止まる。

 ――「相談窓口(電話)」

 なんでだろう。  別に、死にたいわけじゃない。  ……たぶん。

 でも、今夜の私の気分は、薄い氷みたいで、ちょっと指で押したら割れそうだった。

 通話ボタンを押す。

 ◇   ◇   ◇

 呼び出し音が二回。

「はい。お電話ありがとうございます」

 女性の声だった。事務的なのに、怒ってない。  胸の奥が少しだけ緩んで、逆に涙が出そうになる。

「……あの。すみません。なんか、よく分かんないんですけど」

「大丈夫ですよ。今、お話できる状態ですか」

「できます。……たぶん」

「では、ゆっくりでいいので。今日、どんなことがあったか、教えてください」

 私は笑ってしまった。

「今日、っていうか……毎日同じで。キラキラしてるんですけど、全部、薄いっていうか」

『薄い』

 相手は繰り返した。 繰り返されるだけで、私の言葉が少しだけ「言葉」になる。

「東京って、何でもあるじゃないですか。ブランドも、店も、人も。でも、帰ってきたら、部屋が静かで……静かすぎて。なんか、怖くなる」

「怖くなるんですか」

「うん。……私、あんな連中とは違うって思ってたのに。気づいたら、同じ場所に立ってる気がする。下見て笑って、上見て泣く、みたいな」

 電話口の向こうで、紙をめくる音がした。

「お名前は、今お伺いしても大丈夫ですか」

「……春香。綾波春香」

「春香さん。今夜は、ひとりですか」

「ひとり」

「危ないもの、近くにありますか。薬とか、お酒とか」

 聞かれた瞬間、私は目を泳がせる。 キッチンの棚には、飲みかけのワイン。洗面台の引き出しには、眠れるやつ。

「……あるけど。今は、別に。大丈夫です。たぶん、大丈夫です」

「もしよろしければ、対面でお話できる窓口もあります。今夜のように電話でもいいですが、直接会うことで、楽になる方も多いです」

「対面……」

「場所と時間、案内できます。無理にではありません。春香さんが、安心できる方法で」

 その言葉は、正しくて、優しくて。  だからこそ、怖かった。

 私は冗談みたいに言った。

「会ったら、私、泣いちゃうかも」

「泣いてもいいですよ」

 担当の女性の声は、そこで少し柔らかくなる。

 私は、うなずく代わりに息を吐いた。

「……場所、聞いてもいいですか」

「はい。東京都XXX区XXXX。XXXビルのXXXXです。春香さんのご都合のいい時間帯はありますか」

「明日なら……夕方。仕事前なら」

「承知しました。では——」

 住所とビル名が、淡々と読み上げられる。  私はメモを取るふりをして、机の上の角砂糖みたいな小さな紙切れに走り書きした。

 最後に、担当の女性が言う。

「今日は、お電話くださってありがとうございました。今夜は、できればお水を飲んで、少し体を温めてください」

「……はい」

 通話が切れる。

 ◇   ◇   ◇

 翌日の夕方。  私は、いつもより地味な服を選んだ。  派手にしないと落ち着かないくせに、こういう場所に行くときだけ「普通の人」のふりをしたくなる。

 黒のワンピース。膝の少し上。コートはベージュ。  バッグは、いつものやつ。ロゴが小さいのに、値段だけはでかい。

 エレベーターの鏡に映る私は、ちゃんとして見える。  ちゃんとして見えるだけ。

 ビルの入口に、小さな案内板があった。  白い紙。角の丸い文字。

 ――心の灯り。



 ◇   ◇   ◇


 それから、月に二回、私は「心の灯り」に通うようになった。 受付の恩田さんはいつも優しかった。私の派手なネイルも、ブランド物のバッグも、否定せずに「頑張った証拠ですね」と私の手をさすりながら笑ってくれた。

五月。四度目の面談の日だった。 相談所の待合スペースで妙なグループとすれ違った。 目力の強いポニーテールの女の子と、死ぬほど顔色の悪いフードの男。それから、場違いにガタイの良い刑事のような雰囲気の男女。

(……あ、怖い)

私は反射的にスマホを握りしめ、視線を逸らした。彼らから放たれる空気が、この優しい場所にはあまりに不釣り合いで、刺すように冷たかったからだ。 「三番の方、どうぞ」 恩田さんの声に救われるようにして、私は奥の部屋へ逃げ込んだ。――背中に、あのポニーテールの女の子の視線が刺さっている気がして、一度も振り返れなかった。


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