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第4章:心の灯り

 翌日の夕方。


 駅前の人波を一歩外れると、街の顔が変わる。派手な看板が減って、ガラスの壁と無表情な入口が増える。


 雑居ビルの一階に、白い紙を貼っただけの案内板があった。筆記体でも、威圧するロゴでもない。角の丸い文字で――心の灯り。


 エレベーターの鏡に四人が映る。村瀬の肩は揺れない。三上は手帳を胸に抱えたまま、無意識に背筋を正している。美桜は退屈そうに見えて、足先だけが落ち着かない。連はボタンの列を見て、階数を覚えた。


 扉が開く。


 廊下は、病院ほど白くない。アイボリーの壁に、淡い木目の腰板。足音がやわらかく沈むカーペット。空調の風が直接当たらないように、吹き出し口には細いルーバーが付いている。消毒の匂いはしない。代わりに、温かいお茶みたいな香りがほんの少しだけ漂っていた。強くはない。強い匂いは、心に刺さるから。


 壁には小さな額が等間隔に並ぶ。風景写真――海でも山でもなく、駅前の並木道とか、雨上がりの路地とか、誰かの日常に寄り添う景色。下に短い文章が添えてある。「今日はここまででいい」「眠れなかった夜は、あなたが悪いわけじゃない」みたいな。読ませるというより、目が勝手に拾う言葉だ。


 その中に「もう、無理をしなくていい」という文字があって、美桜の目が一瞬だけ止まる。


 受付のガラス窓の向こうに、人がいた。


 三十代くらいの女性。髪はまとめていて、服は淡い色で揃っている。化粧は薄いのに、笑うと目元だけがきちんと柔らかい。胸元の名札に、恩田正美。


 恩田は立ち上がり、深く頭を下げた。

「いらっしゃいませ。……ご予約の方ですか?」


 村瀬が警察手帳を出すほどではない、と判断したみたいに、名刺だけを差し出した。


 恩田はそれを両手で受け取り、視線を落としたまま頷く。


「ありがとうございます。河野が、少しだけ席を外していまして。お待ちいただけますか」


 三上が口を挟む。


「急ぎではありません。お時間、どれくらいかだけ」


「すぐ戻ります。こちらへ」


 恩田は待合の椅子へ案内した。


 待合室は“落ち着かせるための場所”だった。背の低いソファ、角のないテーブル。テーブルの上に小さな砂時計――スマホを見ないで待てるように。棚にはパンフレットが並ぶが、表紙は派手じゃない。「相談の流れ」「睡眠の整え方」「生活の立て直し」みたいな実務的なタイトル。重い言葉を、わざと使わない。誰かを追い詰める単語だけが、丁寧に避けられている。


 壁際にはウォーターサーバーじゃなく、保温ポットと湯のみ。ティーバッグも数種類。カフェインレスがあるのも優しい。


 美桜がパンフレットを一枚めくって、すぐ戻した。連は黙ったまま、部屋の隅々に目を走らせた。


 受付の机の角に、予約票の束。鉛筆の芯が短い。消しゴムの角だけが減っている。何度も同じ場所で、同じ言葉が消された跡。


 待合の端に、ひとりの若い女がいた。派手なバッグ、長い爪、スマホの画面だけが明るい。目が合いそうになって、彼女はさっと逸らした。


 美桜が小さく呟く。


「……いいな、ここ。落ち着く」


 ソファの高さ、照明の色、角のないテーブル。視線を落とすと文字が入ってくる配置。美桜はパンフレットを一枚めくり、表紙のデザインを指でなぞった。


「これ、若い子にウケるやつだ。変に飾ってないのに、ちゃんと可愛い。うちの神社も……こういう感じにできないかな」


 三上が「草薙さんの神社でですか。合わないと思いますよ」と小さく笑った。

「そうかな」


 美桜は真面目な顔のまま、湯のみとティーバッグの並びを見た。


「カフェインレス置いてるの偉いな。あれ、地味に助かるな。うちも置こう」


 連は美桜の横顔をちらりと見て、少しだけ息を抜いた。こういうところで生活の話にできるのが、美桜の強さだ。


 連は「そうですね」とだけ返した。


 そのとき、受付のほうで小さく電子音が鳴った。名前は呼ばれない。代わりに、卓上の表示に短い番号が出る。


 恩田が立ち上がり、柔らかい声で言った。


「……ご予約の、三番の方。こちらへどうぞ」


 村瀬が立ち上がる。三上も続く。美桜と連も、すぐ後ろについた。


 恩田は先に歩き、廊下の角を曲がる。入口から見えない位置に、面談室の扉が並んでいる。ここまで来ると、待合の気配が薄れる。代わりに、低い白いノイズ――空調じゃない。音を曖昧にするための機械音だ。


 「面談室1」と書かれた扉の前で、恩田が立ち止まる。ドアは厚い。ノブの下に、隙間を塞ぐ黒い帯が見える。閉めたら、音が外へ逃げない構造だ。


「どうぞ」


 恩田が扉を開け、中へ通す。入った瞬間、外の音が遠のいた。声が漏れない部屋だ、と体が先に理解する。

 室内は、診察室ではない。丸いテーブルと椅子が五脚。壁際に小さな本棚。ティッシュと、蓋つきのゴミ箱。窓はブラインドが下りていて、外の景色は入らない。入れるのは、人の話だけ。


 奥の席に男がいた。


 五十代くらい。髪は整い、背筋が伸びている。白衣ではないが、シャツの襟元が妙に清潔で、体臭が薄い。医療現場の人間特有の“距離の取り方”がある。笑顔は穏やかなのに、目の光が強い。


「お待たせしました。河野です」


 村瀬が立ち上がり、名刺をもう一度だけ示した。


「警視庁の村瀬です。こちらは三上。——それから、同席の協力者が二人います。草薙さんと、霧島くん」


 美桜は軽く会釈し、連も同じくらいの角度で頭を下げた。名乗りはしない。名乗る必要がない、という立ち位置を村瀬が先に作っている。


 河野の目が二人に移る。驚きは見せないが、確認はする視線だ。


「……協力者、ですか」


「守秘義務を理解している人間だけ連れてきています。今日は事実関係の確認です」


 河野は一拍置いて、頷いた。頷き方が丁寧すぎて、逆に距離がある。


「分かりました」


 扉が静かに閉まり、外の気配が完全に切れる。


 恩田が一歩下がる。河野は一礼して、椅子に座る前に手を軽く上げた。


「まず、確認させてください。今日は“誰かを責めるため”ではなく、事実を揃えるための話――そういう理解で合っていますか」


 三上のペン先が、手帳の上で止まった。村瀬は表情を変えない。


 村瀬が言う。


「お話を聞きに来ました。最近、こちらに相談に来た方のことです」


 河野は穏やかに頷いた。頷き方が丁寧すぎて、逆に距離がある。


「もちろんです。ただ……守るべきものもあります。相談は“命綱”です。ここで漏れたら、次は誰も助けを求められなくなる。お分かりいただけますね」


 村瀬が短く答える。


「分かっています」


 河野は微笑んだまま、視線を連に置いた。


 値踏みじゃない。診察室の光みたいな、逃げ道のない明るさだ。


「村瀬さん。では、先に前提だけ。ここは医療機関ではありません。診断も、投薬も、しない。やるのは相談と、生活の立て直しの支援です。危険が高いと判断したときは、医療につなぐ。……それが役割です」


 説明は淡々としている。淡々としているのに、言葉が硬い。硬さが、理念の硬さに見えてしまう。

 三上がすぐに補足する。


「もちろん、理解しています。ただ、いくつかの事案で共通点が見られまして。……あくまで、一般的な範囲でお聞きしたいんです」


 河野の笑顔は変わらない。変わらないのが、逆に不気味だった。


「共通点、ですか」


 村瀬が、資料を出さずに言う。


「最近、自殺された方が何人かいます。表向きは個別の案件ですが……内々に調べると、皆さんがこちらに相談に来られていた」


 河野の目が、ほんの一瞬だけ細くなった。悲しみなのか、それとも別の何かなのか。


「……そうですか。それは、悲しいことです」


 河野は手を合わせ、短く目を閉じた。祈るような仕草。でも祈りにしては、呼吸が浅い。

「私たちは、止めたかった。本当に、止めたかったんです」


 美桜が、その言葉の"重ね方"に違和感を覚える。  一度言えば済む言葉を、二度繰り返す。強調なの

か、それとも――自分に言い聞かせているのか。


「こちらでは、どのような形で相談を受けられているんですか?」


 河野は目を開け、視線を連に戻した。


「まずは電話です。都の自殺相談窓口から、こちらへ繋がることもあります。そこで、必要に応じて対面のカウンセリングへ移行します。対面に移るのは、ご本人が希望した場合と、電話側が『ひとりにしておけない』と判断した場合。面会は予約制。初回は短く、状況を聞いて、生活をどう整えるかを一緒に考えます」


 美桜が、ソファの端に体重をかけたまま首を傾げる。


「“整える”って、例えば?」


 河野は言葉を選んだ。選び方が上手すぎて、少しだけ怖い。


「睡眠、食事、支払い、家族との距離。人は、心だけじゃ壊れません。生活が崩れて、心も崩れる。だから、手が届くところから整える。――簡単なことからです」


 連は、その“簡単”がどれほど難しいかを知っている。だから黙って頷いた。


 三上がメモを取る音だけが、静かに響く。


 三上が続ける。


「カウンセリングは、先生だけですか?」


「私だけです」


 河野はあっさり言った。


「ただ、初回の受付と案内、予約の調整は恩田さんがします。うちは小さな組織ですからね。担当が固定されると依存が生まれる。だから、意図的に“チーム”にしている部分もあります」


 村瀬が少しだけ眉を動かした。


「記録は?」


「残します。ただし、必要最低限です。深い告白を文章に残すほど、危ないことはない。漏れたら終わりですから」


 “終わり”の言い方が、淡いのに切れている。


 そのとき、恩田が戻ってきた。薄い紙のファイルを両手で抱えている。お盆に湯のみも二つ。湯気が立たない温度。熱すぎない、冷たすぎない。


「どうぞ。熱くないです」


 美桜が「気が利いてる」と小さく言って受け取った。


 恩田はファイルを河野の前に置き、四人にも同じものを配る。タイトルは「面会の流れ」。文字は大きめで、図が多い。読む側の集中力が続かないことを前提に作られている。


 三上がページをめくりながら言う。


「……ちゃんとしてますね」


 恩田が少しだけ笑う。笑い方が、受付の笑い方だ。


「怖い言葉を使うと、それだけで来られなくなる方がいるので」


 美桜がぽつりと、感心したみたいに言った。


「うちの神社にもその配慮、ほしい……」


 美桜は湯のみを見下ろしたまま、真面目に言った。


 河野はその会話を遮らなかった。遮らないのが、上手い。場を柔らかくして、口を軽くさせる。医者のやり方だ。


 村瀬が核心へ戻す。


「亡くなった人たちが、ここでどんな話をしたか、確認できますか」


 河野の目がほんの少しだけ細くなる。


「具体的な相談内容は守秘義務ですが、……警察が正規の手続きを踏むなら、協力します。必要なら、顧問の弁護士も通して」


 恩田が、静かに補足する。


「相談に来た方は、ここを信じて来ます。そこだけは、守ってあげたいんです」


「分かっている」


 村瀬は即答した。「だから、個人が特定されない形でいい。“共通する説明”と“共通する誘導”を聞く」


 三上が手帳を開いたまま続ける。


「面談って、何を聞くんですか?」


 河野は一拍置き、椅子の背にもたれなかった。距離を取る癖が、こういうところで出る。


「最初は確認です。自傷の危険が今あるか、今日ここを出て帰れるか。相談できる人はいますか。——そこが第一」


 村瀬が小さく眉を上げた。


「直球だな」


 河野は淡々と言った。「内容よりも反応を見ている面がありますので。怖くて、ぼかす。それは責めない。でも、ぼかされたところには何かある。そこをゆっくり時間をかけて向き合います」


 村瀬が聞く。


「危険が高いと判断した場合、何をするんですか?」


「医療につなぐ。救急を呼ぶこともあります。家族や支援者に連絡することも。本人が拒むなら、説得する」


 河野は言葉を切った。

「ただし、ここで“希望”の話を長くはしない。現実の手順の話をします。今夜どうする、明日どうする、来週どうする」


 村瀬が、ゆっくりと核心へ踏み込む。


「私たちが気にしているのは、誘導です。意図的かどうかは別として、『ここで話したことが、結果に影響した可能性』を確認したいんです」


 河野は、ゆっくりと首を横に振った。


「自殺の誘導なんてするわけがないでしょう。自殺の話題が出たら、『今すぐ』の危険を確認して、安全を確保する。方法の話なんて、絶対にしない」


 連が、口を開いた。


「でも、相談者が『死にたい』と言ったとき、否定はしないんですよね?」


 河野の視線が、ぴたりと連に合う。


「……否定はしません」


 連は視線を逸らさない。


「つまり、『死にたい』と言われたら、『そうですか』と受け止める」


「そうです」


 河野は即答した。


「否定したら、相談者は口を閉じます。『ここでも分かってもらえない』と思って、二度と来ない。だから、まず受け止める。その上で、『今日、帰れますか』『今夜、ひとりで大丈夫ですか』と確認する。それが手順です」


 美桜が、少しだけ眉を寄せた。


「……それ、間違ってないと思う。でも、受け止めすぎたら?」


「受け止めすぎる、とは?」


「『死にたい』を肯定しすぎて、相手が『ああ、死んでもいいんだ』って勘違いするとか」


 河野は、ほんの少しだけ目を細めた。悲しんでいるのか、それとも――困っているのか。


「その危険は、常にあります。そこがカウンセリングの難しさです。だから、言葉を選ぶんです。『死にたいと思うこと』は肯定する。でも『死ぬこと』は肯定しない。その線を、毎回引き直す」


 村瀬が、低く言う。


「その線、ちゃんと引けてましたか」


 河野の手が、一度だけ止まった。


「……引いたつもりです」


 "つもり"。


 その言葉が、部屋の空気を一段だけ重くした。


 三上が、メモを取る手を止めずに言う。


「亡くなった方たちと、最後に会ったのはいつですか」


「記録を見ないと正確には言えませんが……だいたい、一週間から十日前くらいです」


「その時、様子は?」


 河野は少し考えてから、言葉を選んだ。


「……落ち着いていました。むしろ、最初より落ち着いていた」


 連が、思わず言う。


「それ、逆に危なくないですか」


 河野が頷く。


「危ないです。『吹っ切れた』『覚悟ができた』ときほど、穏やかになる。だから、最後の面談で落ち着いていたら、必ず確認します。『次、いつ来ますか』『連絡先、確認していいですか』って」


「で、連絡は?」


「しました。全員に」


 河野の声が、少しだけ硬くなる。


「でも、繋がらなかった。あるいは、『大丈夫です』と言われて、それ以上踏み込めなかった」


 恩田が、静かに補足する。


「相談は、強制じゃないんです。『来てください』とは言えても、『来なさい』とは言えない。そこが、限界です」


 その言い方が、諦めに聞こえた。


 連が、ぽつりと言う。


「限界、ですか」


 恩田が、連を見る。視線が、ほんの少しだけ鋭くなった。


「そうです。私たちは、神様じゃない。全員を救えるわけじゃない。――それを受け入れないと、この仕事は続けられません」


 その言葉に、河野は何も言わなかった。


 ただ、目を伏せて、手を組んだ。祈るような形。


 村瀬が立ち上がる。


「今日はここまでにします。また、必要があれば連絡します」


 河野も立ち上がり、深く頭を下げた。


「力になれず、申し訳ありません。……でも、もし私たちに何かできることがあれば」


「その時は、お願いします」


 村瀬が短く返し、扉へ向かう。三上が手帳を閉じ、美桜と連も後に続いた。


 扉が開いて、村瀬が先に出て、三上、美桜、連が続く。


 仕切りの角を曲がる手前で、待合の一部が細く切り取られた。


 ソファの端にいた若い女が、スマホを握ったまま立ち上がっていた。派手なバッグ、長い爪。画面の明かりだけがやけに白い。


 連と目が合いそうになって、女はすぐに視線を落とす。隠すみたいに、スマホを胸元へ寄せた。


 その動きが、妙に早かった。

 恩田が一歩前に出る。声は柔らかいまま、距離だけはきちんと詰める。


「……三番の方。こちらへどうぞ」


 女は小さく頷いて、恩田の横についた。


 恩田が、扉まで見送る。廊下に出ると、待合室の静けさが戻ってきた。


「お気をつけて」

 恩田の声が、背中に届く。柔らかいのに、どこか――届きすぎる声だった。


  ◇   ◇   ◇


 エレベーターに乗ると、村瀬が短く息を吐いた。


「……どうだ」


 三上が、手帳を見ながら言う。

「特別な情報は、ありませんでしたね」


 美桜が、少しだけ首を傾げる。

「でも、悪い人には見えなかった」


 連が、静かに言う。

「かなり疲れていましたね」


 村瀬が、連を一瞬だけ見た。

「お前、何か引っかかったか」


 連は少し考えてから、答えた。

「……『限界』って言葉です」


「限界?」


「はい。自殺は自殺者だけではなく、自殺者の家族や友人も傷つけるんです」


 連は言葉を切った。


「そして、病院関係者も。優しい人ほど、心が傷つき病んでいく」


 三上が、ペン先を止める。

「つまり?」


「分かりません」

 エレベーターが一階に着く。扉が開き、外の光が差し込んだ。


 村瀬が、最後に言う。


「……続けるぞ。次の手を考える」


 四人は、雑居ビルを出た。


 振り返ると、窓の向こうに「心の灯り」の文字が見えた。


 美桜が、ビルを見上げる。


 窓の向こうに、小さく人影が見えた。


 河野だった。


 こちらを見ている――気がした。


 でも、すぐにカーテンが引かれて、影は消えた。


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