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第2章:二つの現場 後編

 車のドアが閉まる音がして、街の音が一段と小さくなった。  三軒茶屋の住宅街は、新宿よりずっと静かだ。


 空はもう紺に近く、街灯が路地の影を縞にした。花壇の土は湿っていて、夜の匂いに少しだけ混ざる。自転車のカゴに買い物袋、洗濯物の影、玄関先の小さな置き配。生活がちゃんと続いている匂いがする。

 ――その「続いている」感じが、逆に怖い。


 事件があっても、世界は止まらない。止まらないから、止まった部屋だけが浮く。


 建物の前で待っていた管理人は、薄いジャンパーを羽織った小柄な男だった。


 六十代くらい。白髪が耳のあたりだけ跳ねていて、指先が消毒液で荒れている。鍵束を腰にぶら下げ、胸ポケットにはボールペンが二本。いかにも「この建物の小さな秩序」を一人で支えている人の装備だ。


 「……刑事さんたち、またですか」


 名字の刺繍に「坂口」とある。声は小さいのに、言い切りだけは強い。関わりたくないけど、無視できない。そういう矛盾が、そのまま喉に詰まってる。


 三上が手帳を開いて、必要な書類だけを差し出す。


 「こちら、受領。鍵は現状復帰。室内の物には触れません。管理人室に居るので終わったら届けてください。居なかったら電話をお願いします」


 坂口は頷き、用紙に慣れた字でサインをした。


 「孤独死とか。人が死んだ部屋ってね、空気が違うんですよ。誰も入ってないのに、誰かが居るみたいな。幽霊が出たみたいな話はないんですけどね」


 口では不満を言うのに、鍵はちゃんと渡す。丁寧さの奥に、「できれば関わりたくない」が薄く混じっていた。人が死んだ部屋は、だいたいそういう扱いになる。


 通路の向こうから、買い物袋を下げた女性がちらっとこちらを見た。


 視線が合った瞬間、肩が一ミリだけすくむ。知らないふりをする速度がやけに速い。


 坂口が、ためらうように咳払いをしてから、小声で付け足した。


 「……あの部屋。夜中に水の音がしたって言う人はいましたよ。風呂の音じゃない、って。……まあ、うちは古いから。配管も鳴くんで」


 言い訳を先に置く癖。余計な話だと分かっているのに、喋らずにいられない。美桜はそう受け取った。


 三上は頷くだけで、余計な追及はしない。


  ◇   ◇   ◇


 室内は、写真で見た“生活”の匂いがした。


 ラベンダー色のスリッパ、通販の段ボール、甘い芳香剤。カーテンは薄いグレーで、外の街灯の光をやわらかく通している。テーブルの端にはカフェのスタンプカード、流し台には乾いた水滴の跡。――「ひとり暮らし」がそこにある。


 そして、妙に整っている。


 床に物が落ちていない。洗い物も溜めていない。ゴミは袋ごと縛られている。洗剤の匂いが強めで、生活の匂いを上書きしている。


 最後に「見られたくない」を消したい人の整え方だ。


 「現場の写真と押収物は既にあります。ですから、多少触っても大丈夫です」


 「多少、ね」


 美桜が口の端だけで返すと、三上はメモ帳を開いたまま平然と続けた。


 「小さな違和感でもいいです。気になったことを」


 村瀬が、玄関の枠を指でなぞる。


 「侵入痕はない。窓も鍵も、当時のまま」


 連は、玄関の床を見てから、靴を揃えるように一歩だけ動いた。


 「密室って言葉は便利です。だからこそ、便利さに寄りかからない。……現場の癖を見ます」


 続いて自殺現場の浴室へ。


 白いタイル。鏡の曇り跡。シャンプーボトルが三本、同じブランドで揃っている。クレンジングオイル、使いかけのマスカラ。タオルはきちんと畳まれているのに、一本だけ床に落ちていた。


 浴槽の縁には、薄い擦れ跡。


 床の目地には、洗剤で落とし切れない赤茶の影が、わずかに残る。排水口の金属が、やけに冷たく見える。


 三上が確認する。


 「手首の切創は複数。躊躇い傷の形はある。遺書もある。密室も成立」


 村瀬が低く続ける。


 「準備は“手首”。でも、決め手は“首”だ。……このズレが、新宿と同じ匂いをしてる」


 三上が頷く。


 「そして、抵抗が少ない。表情は笑顔。似てます」


 美桜は浴室の空気を吸って、すぐに吐いた。洗剤の匂いは普通だ。生活の匂いも普通だ。


 でも、その“普通”の中に、説明しづらい違和感が混じっている。


 肌が先に嫌がる。鼻が先に避ける。理屈が追い付く前に、身体が一歩だけ距離を取る。


 「……ここ、少し空気が悪い」


 美桜は断定を避けた。『怪異が居た』と言い切るのは、今は早い。しかし、何らかの霊的現象があったと考えていいだろう。


 三上がすぐ拾う。


 「特に不快感を感じる場所は」


 美桜は少しを浴室内を動くと、床を指で示した。


 「このあたり。何かが居たんだと思う。濡れてないのに、濡れてる気がする。匂いでも、傷でもない。……皮膚が先に嫌がる」


 三上が眉を寄せる。


 「鑑識の報告には特にはないな。霊的ななにか」


 村瀬が、確認するように言う。


 「霊的な証拠は裁判では使えないが、捜査には役に立つ。方向性は確信できた。大きな進展だ」


 美桜は小さく息を吐いた。


 予測はされていたが、怪異が関わっている可能性が現実になった。


 それは、背中が冷える種類の確信だった。


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