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第2章:二つの現場

 美桜は、夕方になると一日の“顔”が剥がれる気がしていた。


 昼のうちは、誰もが「ちゃんとしてる」顔で生きてる。講義に出て、会議をして、謝って、笑って、やり過ごして。


 でも日が傾くと、影が伸びる。仕事の疲れが滲む。家に帰りたくない人の歩幅が遅くなる。――そして、街のネオンが“夜の顔”を貼り直す。


 監察医務院を出たのは、午後四時を少し回った頃だった。


 警察車両の後部座席は柔らかいのに落ち着かない。布地の毛羽が光を吸い、ドアポケットには未開封の軍手と簡易マスク。フロントからは無線のノイズが小さく漏れて、時々だけ「了解」が割り込む。


 空調はちょうどいいはずなのに、胸の奥だけが乾く。――体温じゃなく、気持ちの温度が追いつかない。


 窓の外の街は、ちゃんと夕方をやっていた。


 小学生の列が信号で止まり、スーツの群れが駅へ吸い込まれ、コンビニの前で自転車が雑に倒される。誰かが死んだことも、誰かが笑って死んだことも、この街は知らない顔をしている。


 運転席の村瀬が、ミラー越しに釘を刺した。


 「草薙。今から二か所回る。直近の新宿と、一週間前の三軒茶屋。……現場で派手なのは出すな」


 「わざわざ、出しませんよ。疲れますし」


 助手席の三上が、膝の上のメモ帳を開いたまま、口元だけで笑った。


 「前回、いろいろありましたから。草薙さんは、今日は抑えめで」


 美桜はケースのストラップを握り直して、呼吸のリズムを整えた。


  ◇   ◇   ◇


 新宿の交差点は、夕方から夜へ滑り込むところだった。


 空はまだ明るいのに、ビルの谷間は先に暗い。広告の光が早めに点き、ガラスに反射した色が人の頬を染める。


 制服の集団とスーツの集団が同じ横断歩道でぶつかって、互いに避けながら流れていく。イヤホンの音漏れ、路線案内のアナウンス、キャリーケースの車輪。音が音を押しのけて、空気に層ができる。


 ――なのに、人が落ちた場所だけが、次へ進みきれない。


 規制線は撤去され、ブルーシートもない。洗浄の跡だけが、濡れていないのに黒い影として残っていた。アスファルトの目がそこだけ荒れていて、乾いたのに“まだ固まり切っていない”みたいな鈍い色をしている。


 「ここにも特別な気配はないですね。彼女も居ない」と美桜。


 「遺書は出てます。文面は一般的な謝罪と感謝で、不自然な点はないですね。……だから書類上は『飛び降り自殺』で押し切れる」


 三上がメモ帳を一度めくりながら、淡々と言う。


 村瀬は“上”を見上げたまま言った。


 「飛び降り現場は屋上だ」


 「管理会社に連絡して、担当の方には来てもらっています」


 そう言った三上の指が示したのは、ビル裏の搬入口だった。


 そこに立っていたのは、スーツの上に蛍光ベストを着た男――管理会社の現場担当らしい。年齢は三十代半ばくらい。髪は七三で、額に汗がうっすら光っている。名札には「相沢」と印字されていた。


 「……刑事さん、今日はもう勘弁してくださいよ」


 相沢が言いながらも、手はちゃんと鍵束を握っている。


 村瀬が名刺を軽く見せる。


 「悪いな。必要なんだ。屋上、最短で」


 相沢が小さく息を吐き、目だけで美桜のケースを見た。


 「……その、楽器が必要なんですか?」


 「場合によっては」


 美桜が軽く返すと、相沢は「ですよね」と、なぜか納得した顔をした。美桜は心の中で、納得しなくていい、とだけ突っ込んだ。


 相沢は鍵を一本選び、扉の施錠番号を確認する。


 「じゃ、案内します」


 ビル裏の非常階段は、鉄の匂いがする。


 踊り場には古い吸い殻の焦げ跡。壁には、過去の貼り紙の糊だけが層になって残っている。手すりは何度も触られて、塗装が薄くなっていた。


 屋上の扉を開けた瞬間、風が顔を殴った。


 五月の風。冷たいわけじゃないのに、骨の内側まで触ってくる。


 屋上には室外機が並び、白い配管テープが剥がれて黒ずんでいる。コンクリには薄い雨水跡の地図。昼の粉じんが足跡の線を作り、そこへ夕方の光が斜めに刺さって、影だけが長く伸びていた。


 そして、落下防止の金属柵。


 柵の支柱はボルトで固定され、上端は丸く加工されている。人が掴むなら、自然と指がかかる場所――ここだ。


 三上が柵の上端を指す。


 「越えるなら、ここに手がかかる」


 メモ帳の紙が擦れる音が、風の中でも妙に耳に残る。


 「佐々木結衣の指紋は、あちこちにあります。扉の取っ手、非常階段の手すり、……“普通に歩いた分”は全部」


 村瀬が低く続ける。


 「だが、肝心の柵。柵にもあるのだが――“柵を越えるときに手が握る場所”に指紋がない」


 三上は冷静に言い直す。


 「手袋をしていたなら、他の場所にも残らないはず。なのに他は残ってる。つまり、『ここを掴んで越えた』だけが抜けてる。死体は手袋をしていないにも関わらず。まるで誰かが運んだかのように」


 美桜は柵を見上げた。


 越えられない高さじゃない。でも、越えるなら“何か”が残る。人間はそういうふうにできている。


 「……拭いた?」


 「拭いたなら、拭いた跡が出やすい。ここは汚すぎる」


 そのとき、風の音の向こうから、静かな声。


 「その“汚すぎる”ってやつ、僕も気になりました。村瀬さんは『まるで誰かが運んだ』と言いましたが、誰かが運んだとしても跡はつくと思います。僕には空を飛んだように感じられますね」


 振り返ると、黒いフードの男が柵の影に立っていた。


 背は高め、細身。黒髪は短く整えているのに、目の下に寝不足の影が薄くある。中性的な顔立ちのくせに、視線だけが妙に落ち着いていた。


 服はモノトーンで、余計な装飾がない。足元のスニーカーは新しくないが、手入れはされている。一言で言うと普通で目立たないタイプ。


 霧島連。


 村瀬が名前を出さずに匂わせていた“変なやつ”。草薙と同じ霊能力者だが、所属している組織が違う。


 三上が横目で村瀬を見る。


 「……また先回りですか、霧島くん」


 美桜は一歩だけ前に出る。


 「なんで先にいるの。ここ、立ち入り禁止じゃないの」


 連は肩をすくめた。


 「綾瀬さんから連絡があって、ずっと待っていたんですよ。それに現場の人には特に怒られませんでしたよ」


 村瀬が小さく息を吐く。


 連は丁寧に頭を下げた。


 「邪魔はしません。それに隠し事もしません。ちゃんと、共有しますよ」


 連は、柵の根元へ視線を落とした。


 「ただし、空気を読むのは、あまり得意じゃないので。――当てにしないでください」


 連は語尾を少し落とした。


 三上のペン先が止まる。


 「草薙さんは、どう思います?」


 美桜は柵の前に立ち、風に髪を持っていかれながら、短く首を振った。


 「ごめんなさい。判っていると思うけど、正直、推理は苦手で。せめて、さっきから気配を読み取ろうとしているのですが、風が強くて上手く行きません」


 村瀬が低くまとめる。


 「怪異事件との特定は無理か。次の現場に期待だな」


 村瀬が区切る。


 「霧島。同行するなら条件は三つ。触るな。勝手に動くな。勝手に余計なことをするな」


 「はい」


 美桜は、連を一度だけ見た。距離を測るみたいに。


 「……利害は一致してるけど。余計なことはしないでね」 


 連は小さく頷く。


 「はい」


 村瀬が資料のファイルを閉じ、柵から視線を切った。


 「やり残したことがないなら、次だ。三軒茶屋。一週間前の現場だ」


 村瀬が言う。


 「一週間前の現場だから、気配は弱いかもしれないが、それにかけるしかないな」


 美桜はケースのストラップを握り直した。


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