第1章:依頼 後編
廊下は少し静かで、コンクリートの冷たさが皮膚に残る。壁沿いに貼られたポスターの角が反っていて、掲示板のガラスに自分の横顔が一瞬映る。窓の向こうに五月の空。明るいのに影が浅い。昼という時間が、無遠慮に“普通”を押しつけてくる。
通話ボタンを押す。
「草薙か」
低い声。乾いた疲労。息の奥に“現場”が混じっている。
「……村瀬さん?」
苗字だけで分かった。 雑談で電話してくる人じゃない。電話してくるときは、だいたい“終わってない”。
「悪い。今、動けるか」
「今、って……」
美桜は反射的に、学食のドアの向こうを見た。笑い声が、すでに別世界みたいに聞こえる。
「監察医務院で落ち合おう」
村瀬の言い方が、最初から“段取り済み”だった。
「今日、二時。鷹宮先生が『見せる』って言ってる」
「……非公式?」
「そうだ。表は全部“自殺”。『連続』なんて言葉を使った瞬間、俺たちは動けなくなる」
「分かりました。二時ですね」
「頼む」
通話が切れた。 空は変わらないのに、空気だけが一段と薄くなった気がした。
いったん学食に戻ると、友人たちはまだ笑っていた。美桜は「急用」とだけ言ってトレーを片付け、ケースの肩ひもを掛け直す。質問が追いかけてきそうになったところで、手を軽く振ってその場を抜けた。
外に出ると、大学の敷地は昼の熱気でぼんやりしていた。木陰は涼しいのに、日なたは眩しい。自転車がベルを鳴らし、購買の前には飲み物を買う列ができている。――いつも通りの風景が、少しだけ遠い。
最寄り駅まで早足で歩き、改札を抜ける。ホームに滑り込んできた電車の風が髪を揺らした。吊り革につかまりながら、村瀬の言葉を頭の中で反芻する。「表は自殺」「連続と言えない」。それだけで、胸の奥が落ち着かない。
数駅分の移動は短いはずなのに、やけに長く感じた。降りた先の駅からは、街の音が少し低い。車の走行音、工事の金属音、遠くのサイレン。案内板に従って歩くと、無機質な灰色の建物が見えてくる。
◇ ◇ ◇
午後二時の監察医務院は、時間の割に色が薄い。
外は初夏の明るさで、日差しは白く、アスファルトは眩しい。入口のガラス扉には施設名と注意書きが並び、足元には消毒マットが敷かれている。建物の外観は新しくはないが、手入れだけは行き届いていて、窓の数が少ないぶんだけ表情がない。
なのに建物の中に入った途端、光は天井の蛍光灯に置き換わる。白いはずの白がどこか金属っぽい。消毒の匂いがして、空調の風は乾いている。壁の白さが、病院の白さというより、温度管理された施設の白さに近い。
受付で名前を言うと、係の人が「ああ」とだけ言って、奥の小さな待合スペースへ通した。 椅子が四脚、自販機が一台。案内は丁寧なのに、読まれる前提が薄い。
そこに、村瀬がいた。
四十代後半。体格はがっしりしているのに、今日は肩だけが少し落ちて見える。スーツは着ているが襟元がわずかに乱れ、ネクタイの結び目が一度ほどけて結び直したような跡がある。髪は整っているのに、目の下だけがどうしても隠せない。寝不足の人間って、顔の“輪郭”が消える。村瀬はまさにそれだった。目だけが鋭くて、残りが疲れている。
そして、その隣。
「草薙さん。来てくれて助かります」
きっちりまとめた髪。控えめなネイル。ジャケットの袖口から覗く腕時計は実用一択で、文字盤に飾りがない。メモ帳とペンの動きだけがやたら速い。
三上由紀。村瀬の“相棒”。
三上が美桜のケースを見る視線は一瞬だけ鋭くなるのに、次の瞬間には柔らかく戻る。警戒と礼儀を、同時に扱える人の目だった。
「草薙さん。噂は聞いてます。相変わらず活躍しているそうですね」
三上がそう言いながら、視線だけで美桜のケースをなぞった。
「噂はだいたい盛られますからね」
美桜は笑って返す。笑い方は軽いのに、ケースの肩ひもを握る指だけは力が入っている。
「じゃあ、そのケースの中身も……?」
美桜は肩をすくめた。
「使う日が来たとき、手元にない方が困りますからね。――だから持ち歩く。癖だよ」
村瀬が短く咳払いをして、空気を締め直す。
「雑談は終わりだ」
美桜は口元の笑みを引っ込め、背筋をまっすぐに戻した。
美桜は、背筋を伸ばした。自分でも笑える。大学生が、監察医務院の待合で刑事に囲まれている。
村瀬は、話を始めた。
「ここ一か月で『自殺』が数件続いてる。手段はバラバラ。……だから、書類上は全部“個別の自殺”で押し切れる」
村瀬は、そこでいったん言葉を切った。 “数件”の中身を、ちゃんと指で摘まむみたいにして、順番に置く。
「直近は、新宿。通学の時間帯に、女子高生が屋上から落ちた。目撃は山ほどあり、遺書も出た。侵入経路も薄い。……だからニュースの見出しは『飛び降り』で終わる」
美桜は、喉の奥が硬くなるのを感じた。通学時間帯。女子高生。新宿。
「で、一つ前が三軒茶屋。三十代の女。浴室で手首を切って、自殺未遂の“形”だけ残して死んだ。こっちにも遺書があって、密室の条件が揃ってる。だから書類上は自殺で通る」
三上がメモ帳を見せた。 そこに並ぶのは、事件の“説明”じゃなく、事件を“自殺に見せる条件”の列挙だった。
「遺書そのものは……普通です」
三上はそう言ってから、メモ帳を一枚めくった。そこに書かれているのは“中身の要約”じゃなくて、特徴だけだった。
「友人への謝罪とか、ありがとうとか。家族と仲が良ければ感謝と謝罪、悪ければほとんど触れない。……そこは、現実の範囲に収まってます」
美桜は少しだけ息を吐いた。
三上が淡々と続きを置く。
「共通してる違和感は三つ。自殺の準備の形はあるのに致命傷が他殺を思わせる――"死因のズレ"。それから、他殺にしては抵抗の痕が薄い――防御創がほぼない。最後に、表情が安らぎすぎる。苦痛死の顔じゃない」
美桜の喉が、少しだけ乾いた。
「つまり……『自殺の形』を借りた、別の何か?」
「断定はしないがな」村瀬は即座に釘を刺す。「断定した瞬間、これは“連続殺人事件”になる。そうなると俺たちは動けない。署で説明して資料を回したら、それ自体が火種だ」
「了解」
美桜が頷くと、三上もペン先を止めずに頷いた。
「記録は私の仕事です」
村瀬は腕時計を見て、短く頷いた。
「時間だ。安置室へ行く。……鷹宮は向こうで待ってる」
三上が椅子から立ち、美桜もケースの肩ひもを整える。待合の空気はまだ“人のいる場所”だったが、扉一枚隔てた先はそうじゃない――そういう境目の気配が、ここにはある。
係の職員が現れ、受付とは別のキーで開く扉を解錠した。金属の取っ手には、何度も拭かれた消毒の跡が白く残っている。
◇ ◇ ◇
廊下に出ると、足音が少しだけ響く。空調の温度が一段下がり、肌の表面が乾く。消毒の匂いに、金属と冷気の匂いが混じってきた。
角を曲がると、窓のない区画に入る。壁は白いのに、光の反射が鈍い。ここから先は、病院の白さじゃなく“施設”の白さだ。
突き当たりに、重い扉があった。取っ手は冷たく、表示は必要最低限。係の職員がカードキーを当てると、短い電子音が鳴って鍵が外れる。
扉が開いた瞬間、冷気が薄い膜みたいに頬を撫でた。
遺体保管庫――いわゆる安置室は、音が少ない。
その静けさの中に、白衣の男が“最初からいる”感じで立っていた。ステンレスの流し台の前で、手袋を重ねる指だけがやけに滑らかに動いている。
「おや。草薙さん。今日も美人だね」
白衣に手袋、メガネの奥の目が妙に冴えている。監察医務院の法医、鷹宮修一だった。
年齢は五十代後半。白衣は新品ではないのに皺が少なく、ポケットの縫い目まで整っている。髪には少し白いものが混じり、口元にだけ薄い笑みの癖がある。目は笑っていない。眼鏡のレンズ越しに、観察するための焦点が常に合っている。
袖口はきちんと留められ、指先だけがやたら器用そうに見える。器用というより、日々“切る”“縫う”“閉じる”動作を繰り返した手だ。
「先生。軽口はあとで」
村瀬が言う。
「分かってる。……死体は嘘をつかないからね」
鷹宮は流水で手袋をざっと濡らし、もう一枚上に重ねた。動作が無駄に滑らかで、逆に怖い。
「今日は二つ。直近と、その一つ前。どちらも“自殺”で通ってる。」
村瀬が頷く。
三上がメモ帳を閉じ、ペンをポケットに差した。
冷蔵庫の低い唸りだけが常に鳴っていて、床は滑りにくい材質の灰色。ステンレスの扉が並び、引き出し式の保管庫が壁一面に続いている。ここでは、人は“温度”として扱われる。
鷹宮は名札の付いた台車を一つ引き出し、そこに載った遺体袋のジッパーを確認した。
「『見る』だけだ。触らない」
村瀬が短く「分かった」と言い、美桜も頷いた。
「じゃあ、直近からいこう」
鷹宮は遺体袋のジッパーを胸元まで下ろし、その上に白いシーツを一枚だけ掛けた。
「佐々木結衣。16歳。中野区在住。私立高校2年生。必要なところだけ見せる」
そう言って、顔の周りだけをそっと露出させる。
制服の少女だった。
落下の衝撃は人体をきちんと“壊す”。骨格の歪み、皮膚の裂け方、打撲の広がり。制服の布はところどころ擦れて毛羽立ち、スカートの裾には路面の汚れがべったり付いている。髪の先が湿って頬に張り付き、耳のあたりに小さな砂利が絡んでいた。
医者の目で見ても分かりやすすぎて、そこだけ見れば疑いを差し挟む余地がない。だからこそ、隙間が怖い。
「身体だけ見れば、飛び降りで説明はつく」
鷹宮は顔のあたりに視線を落とす。
「問題は、表情だ。穏やか過ぎる。何十年も死体と向き合っているが、こんな死体はめったにない」
眉間の皺が少ない。 口元がほどけている。 苦痛のはずの終わり方なのに、そこだけが“安心”に寄っている。
「めったに?」
三上が小さく言った。
「薬物をやっていれば別だ。空を飛べると思って飛び込むやつがいるからな。『I CAN FLY』ってやつだ。でも、この子は薬はやっていない」
美桜は、プロローグの笑顔を思い出して、舌の奥が苦くなる。
「この子――佐々木結衣。資料上はそうなってる」
鷹宮は淡々と名を添えた。
「痛みの反応は顔に出る。筋肉の緊張、歯の食いしばり、眼輪筋の収縮。……ところが、この子は妙に整ってる。『苦しい』じゃなくて『終わった』の顔だ」
シーツが戻される。
鷹宮はシーツを戻し、ジッパーを上げた。手袋の指先でタグを確かめ、台車を保管庫のほうへ静かに押し戻す。
「不思議ですけど、違和感レベルです。多くの場合……自殺で通りますね」
三上が小さく息を吐いた。
鷹宮は別の引き出しを開け、今度は成人用の遺体袋を台車に引き出す。冷気が一瞬だけ強くなる。
「直近の一件前。後藤彩花。33歳、独身でOLだ。三軒茶屋。浴室。手首を切った自殺未遂――の“形”がある案件だ」
今度も、必要な部分だけを見せるように、鷹宮は顔と腕のあたりだけシーツをずらした。
成人女性。 手首には浅い切創が何本も走っていた。赤い線の重なり方が、ためらいの癖をそのまま残している。
「いわゆる躊躇い傷。ここまでは“準備”で説明できる。……でも、死因は別」
鷹宮が首元を指した。
「致命傷は、こっち」
切創は一本。 一本なのに、迷いがない。
三上が、実務の目で言う。
「自分でやれる?」
「理屈だけなら“できる”。でも普通はこうならない。角度、深さ、いき方が綺麗すぎる」
鷹宮が続ける。
「それで、防御創がない」
三上が即座に補足する。
「襲われたとき、人が反射で腕や手で首や顔を守ってできる傷。抵抗の痕跡。それがまったくない」
鷹宮が、肩をすくめた。
「首を狙われたら、人は腕を上げる。掴む。爪を立てる。……それが、まったくない。まるで『受け入れた』みたいに」
美桜は、顔を見る。
この人も、表情が穏やかに固定されていた。 怖がっていない。 怒っていない。 助けを呼んでいない。
「確かに……二件とも不自然で、同じ感じがしますね。でも、残留思念は感じませんね。怪異絡みとも特定できない」
美桜が小さく言う。
三上が頷き、村瀬も頷いた。
「だから、お前を呼んだ。現場を見てほしい」
村瀬の声は硬い。
美桜は、淡々と締めた。
「責任重大ですね」
◇ ◇ ◇
監察医務院を出ると、外の光が眩しかった。 午後の空は青くて、雲が軽い。人はいつも通りに歩き、笑い、スマホを見ている。
美桜はケースのストラップを握り直した。
「最初は、新宿に行く」
美桜が眉を上げると、村瀬は目だけで制した。
「時間を置くと、現場は“整う”。警察のためじゃない。世間と管理側の都合でだ。清掃、規制、貼り紙、導線。――『自殺』に都合のいい形に、簡単に整えられる」
都合よく。
学食のカレーの言葉が、また胸に残る。
そして、もう一つ。
「直近の現場には、先に“変なやつ”がいるかもしれない。綾瀬のほうから来ている霊能力者だ。顔を合わせても喧嘩するなよ」
名前は出ない。 でも、その言い方で分かった。
――たぶん、同業者だ。




