第7章:天使 (後編)
美桜は、唇を噛んだ。 救おうとする手が、届かない。その焦燥を見透かしたように、怪異が動いた。
その隙に、怪異が――巨大化した。
空気が、いきなり重くなる。
六本木の夜風が、濡れた布みたいに肌に貼りついた。耳の奥で、ラジオのチューニングを外したみたいなノイズが鳴る。
春香にとっての"天使"は、眩しさを増していく。光の羽根が広がり、屋上の暗闇を白く塗りつぶす。後光が差して、春香の視界を優しく包む。
「ほら……やっぱり、天使じゃない……」
春香が、うっとりと呟く。
でも。
美桜に見えるのは、輪郭の崩れた黒い人型だった。
黒い。
ただ黒いだけじゃない。濡れた煤みたいに光を吸って、輪郭の端だけがじわじわ溶けている。羽根は白のはずなのに、こちらから見ると――焦げた羽根の塊だ。翼というより、巨大な黒い布を裂いたみたいに、何層にも重なって垂れている。
そして、目。
翼の付け根から先まで、等間隔に"目"が埋まっている。小さな目がいくつも、ぱちぱちと開いて、雨の闇を見返してくる。
中心に、ひとつ。
胸のあたり――いや、体の真ん中に、でかい目がある。人の顔の目じゃない。信号機みたいに丸くて、無感情で、こちらの骨まで見てくるやつだ。
目が揃って、美桜を見た。
その瞬間、背筋が冷える。怒りとか恐怖とか、そういう感情より先に、体が「これは近づけない」と判断する。
怪異が――膨れた。
背丈が倍になる。腕が伸びる。関節の場所が曖昧になり、影が生き物みたいにうねって、フェンスの影まで引っ張る。翼の目が増える。まばたきの音が、雨音に紛れないくらい近い。
美桜は、刀を構え直す。
「……でかいな」
小さく呟いて、息を整える。
怪異の無数の目が、同時に美桜を捉える。六本木の夜に、この世のものとは思えない絶叫が轟いた。
天使――いや、怪異が、ゆっくりと両腕を広げた。
次の瞬間。
羽根が飛んだ。
春香には、白い羽根。雪みたいに綺麗な、細い光の刃。
美桜には、黒い羽根。濡れた煤みたいに光を吸って、先だけがじわじわ崩れる。
雪みたいに綺麗な、細い光の刃が、ぱらぱらと舞う。舞うだけなら綺麗だった。けど、羽根は"空気の中"を狙って飛ぶ。刺さるのは皮膚じゃない。
春香の頭の中に、いきなり声が落ちた。
――埼玉に帰るの?
誰かの笑い声。
――その服、似合ってない。
父の怒鳴り声。
――お前は、何をやっても続かない。
母の冷たい目。
――結局、体売るしか能がないんだ。
知らない男の声。
目の奥が熱くなる。涙が勝手に出る。
胸の内側が、ぎゅっと掴まれた。
春香は、フェンスの方へ半歩、勝手に進んでいた。
「……ほら。ほらね……」
言葉が、唇から零れる。自分の声なのに、遠い。
「やっぱり……私、ダメなんだ……」
美桜は歯を食いしばった。
黒い羽根が、美桜にも飛んでくる。
美桜は刀を一閃。
羽根が、刃に当たった瞬間、ぱちん、と弾ける。でも、弾けた破片がまた小さな羽根になって、四方に散る。
「――っ、厄介だな!」
美桜は後ろへ跳ぶ。着地と同時に、もう一度刀を振るう。
でも、羽根は止まらない。
いくつかが、美桜の頬をかすめた。
痛みはない。
でも、頭の中に声が響く。
――お前は、何のために戦ってる?
――神社の娘って、結局、家の駒でしょ。
――自分の人生、ちゃんと生きてる?
美桜の足が、一瞬止まる。
「……っ」
美桜は首を振る。
「黙れ」
低く呟いて、刀を握り直す。
春香が、またフェンスへ吸われる。
その瞬間だけ、迷いが消える。
美桜は懐から紙札を抜いた。雨で端がふやけているのに、墨の線は滲まない。
指で一度、札の中央を押さえる。
「剣神・八咫。来い」
札が、ふっと軽くなった。
白い閃光が、足元から立ち上がる。
武人の影。人の形をしているのに、人より静かだ。肩幅が広く、腰が落ちていて、立ち方だけで"斬るための体"だと分かる。顔は影のまま。けれど、こちらを見る気配だけがある。
八咫が、無言で動いた。
一瞬で春香の横に回り込み、春香の腰を抱える。
「え――」
春香が声を上げる前に、八咫は春香を抱えたまま後ろへ跳んだ。
着地は音がしない。
たったそれだけで、空気が変わる。
天使と春香の間に、距離が入る。
「……え」
春香の声が、やっと自分のものに戻る。
「何……何で……」
春香は、八咫の腕の中でもがく。
「離して! 離してよ! 私、行かなきゃ! 天使が、待ってるの!」
でも、八咫の腕は動かない。
怪異が――動いた。
天使の顔が、歪む。
春香には、悲しんでいるように見える。
「……ああ、泣いてる……天使が、泣いてる……」
春香の目から、涙が溢れる。
「私のせいで……私が、天使を泣かせてる……」
美桜には、別のものが見える。
怪異の顔が、裂ける。口が、耳まで裂ける。
中に、無数の歯。鋭い。不揃い。人の歯じゃない。
怪異が、吠えた。
ノイズみたいな音。耳が痛い。頭の中が揺れる。
その声が、春香には――
「一緒に……来て……」
そう聞こえる。
春香が、八咫の腕の中で叫ぶ。
「行く! 行くから! 待って!」
美桜が、舌打ちする。
「八咫、春香さんを後ろへ!」
八咫が、春香を抱えたまま、屋上の端へ移動する。
怪異が、それを追う。
腕が伸びる。
関節がないみたいに、ぐにゃりと曲がって、八咫を掴もうとする。
美桜が、間に入る。
刀を一閃。
怪異の腕が、切り落とされる。
腕が、地面に落ちて、黒い霧になって散る。
でも、怪異は止まらない。
もう片方の腕が、美桜を狙う。
美桜は、地面を蹴る。
横へ跳ぶ。着地と同時に、もう一度刀を振るう。
怪異の腕が、また切り落とされる。
怪異が、悲鳴のようなノイズを上げる。
春香には、天使の泣き声に聞こえる。
「やめて! やめてよ! なんで、天使を傷つけるの!」
春香が、八咫の腕の中で暴れる。
美桜が、春香を見る。
「春香さん! 目を覚まして! それは天使じゃない!」
「嘘つき! 嘘つき!」
春香が、叫ぶ。
「私には見える! ちゃんと見える! あれは天使なの! 私を救ってくれる天使なの!」
美桜の胸が、痛む。
春香の目は、本気だ。
本気で、天使だと信じている。
本気で、救われると信じている。
美桜は、唇を噛む。
「……っ」
その隙に、怪異が――再生した。
切り落とされた腕が、黒い霧から再び生える。
そして、今度は腕が四本に増える。
美桜の目が、見開かれる。
「嘘でしょ……」
四本の腕が、同時に襲いかかる。
美桜は、刀を構える。
一本目を斬る。二本目を弾く。
でも、三本目が、美桜の肩を掴んだ。
「――っ!」
美桜の体が、持ち上げられる。
怪異が、美桜を宙に吊るす。
四本目の腕が、美桜の首を狙う。
美桜は、刀を逆手に持ち替える。
そして、自分を掴んでいる腕に、刀を突き刺す。
怪異が、また悲鳴を上げる。
腕が緩む。
美桜は、地面に落ちる。
着地と同時に、回転して距離を取る。
息が上がる。
汗が、額を伝う。
美桜は、刀を構え直す。
「……このままじゃ、キリがない」




