第7章:天使 (中編)
――天使。
春香には、そう見えた。
「……綺麗」
春香が、小さく呟く。
光は、照明みたいに冷たくない。コンビニの蛍光灯みたいに、肌を疲れさせない。むしろ――夜の布団に潜ったときの、あの安心に近い。
輪郭が、立ち上がった。
女の形をしていた。 肩があって、髪があって、指があって。顔ははっきり見えないのに、見なくても分かる気がした。“綺麗”ってやつだ。雑誌の表紙の綺麗じゃなくて、祈りの中の綺麗。
天使が、手を伸ばす。その手が、春香の肩に触れる。
温かい。優しい。
「さぁ、一緒に行きましょう」
天使が、優しく言う。
春香は、頷いた。
「……ほんとに、迎えって、こういうの?」
背中の寒さが消えていく。代わりに、胸の奥がじんわり暖かい。ああ、これだ。これが、私が欲しかった“優しさ”だ。お金で買えないやつ。
天使は、音を立てなかった。
足音も、服の擦れる音もない。ただ、私の影が伸びるのに合わせて、こちらへ滑ってくる。近づくほど、微かな匂いがした。洗い立てのタオルみたいな、柔らかい匂い。
春香は、フェンスの方へ一歩進んだ。
足元のコンクリが、思ったより冷たい。ヒールがカツ、と鳴って、その音だけが変に現実だった。
「……ねえ」
声が震える。嬉しいのか、怖いのか、自分でも分からない。
「私、ちゃんと……天国に行ける?」
天使は、返事をしない。
でも、返事なんて要らないって感じで、天使は手を伸ばした。
指先が、春香の頬に触れる直前。
屋上の扉が、ガンッ、と乱暴に鳴った。
その瞬間――
「待て!」
鋭い声が、夜を切り裂いた。
春香は反射的に振り向いた。
屋上の扉が開き、黒髪のポニーテールの女性が飛び出してくる。
天使の光が、わずかに揺れた。
春香は、思わず叫んだ。
「……誰!? 邪魔しないで!」
扉の向こうの非常灯が、赤く点滅している。その光の中に、黒いポニーテールの影が飛び込んできた。スポーツバッグみたいな長物を抱えて。
草薙美桜だった。
草薙はスポーツバッグの中から黒い鞘を抜く。 刀だ。
夜の光を吸って、刃が静かに光る。派手なギラギラじゃない。水面のような光。長い。まっすぐ。持ち手には白い布が巻かれていて、手に馴染むように少し擦れている。
――何それ。
春香の脳が追いつかない。
「……あんた、何してんの? 撮影? コスプレ?」
美桜は、目だけで春香を見る。
「違う」
短く言って、次に視線が天使に向いた。
「春香さん、そいつから離れて!」
美桜が叫ぶ。
でも、春香は首を横に振る。
「邪魔しないで!」
春香が叫ぶ。
「私、やっと天国に行けるの! やっと……やっと楽になれるの! なんで、なんであんたが邪魔するのよ!」
春香の目には、涙が浮かんでいる。でも、その涙は悲しみじゃない。安堵だ。そして――怒りだ。
天使が、春香を抱きしめる。
「大丈夫。もうすぐです。もうすぐ、あなたは救われます」
その声が、春香の耳に染みる。
美桜が、一歩前に出る。
「春香さん! それは天使じゃない!」
春香は、美桜を睨む。
「嘘つき! これが天使じゃなかったら、何なのよ!」
美桜が、低く言う。
「あなたには天使に見えるかもしれないけど、それは天使じゃない。怪異だ。化け物だ」
「かまわない!」
春香が、全身で叫ぶ。
「化け物だって何だっていい! 私を楽にしてくれるなら、何だっていいのよ! 生きてるより、死んだ方がマシなのよ!」
その悲痛な叫びが、雨の降る屋上に虚しく響き渡る。 春香は、自らの意思で、その身を「天使」の腕の中へと預けた。 もはや美桜の声は、彼女の心の奥までは届かない。




