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第7章:天使

 恩田正美は、電話越しに微笑んでいた。

 誰も見ていない部屋で。誰にも見せない笑顔で。

 スマホの画面には、通話時間だけが伸びていく。

「春香さん。あなたは、もう十分頑張りました」

 恩田の声は、優しかった。本当に、優しかった。

 嘘じゃない。演技じゃない。心の底から、本気で、そう思っていた。

「もう、無理しなくていいんです」

 恩田は、窓の外を見た。

 夜の東京。

 ビルの明かり。

 その中で、誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが死のうとしている。

 恩田は、そのすべてを救いたかった。

 でも、救えなかった。

 何人も、何人も、救えなかった。

 病院で。相談所で。電話口で。

 恩田の前で、人は死んだ。

 自分で命を絶った。そして、地獄に落ちた。

 ――それが、恩田には耐えられなかった。

「私、もう、疲れました。もう決めたんです。生きているのが辛いんです。天国に行きたいんです」

 春香の声が、震えている。

 恩田は、目を閉じた。

 ああ、また。

 また、この声を聞く。

 救いを求める声。終わりを求める声。

 恩田は、知っている。

 自殺は、地獄に落ちる。

 神様は、そう決めた。

 自分で命を絶った者は、天国には行けない。

 永遠に、苦しみ続ける。

 ――でも。

 他殺なら、違う。

 殺された者は、天国に行ける。

 被害者は、救われる。

 恩田は、それを信じた。

 いや、信じるしかなかった。

 じゃなければ、恩田が救えなかった人たちは、みんな地獄にいる。

 それは、恐ろしすぎた。

 耐えられなかった。

「分かります」

 恩田が、短く答える。

「じゃあ、楽になりましょう」

 春香の息が、止まる。

 楽に、なる?

「春香さん。あなたは、天国に行けます」

 天国。

 その言葉が、恩田の胸を温める。

「苦しみから逃げることは、悪いことじゃない。あなたは、救われていいんです」

 恩田の声が、耳の奥まで染みてくる。

「今から、迎えに行きます。あなたはすべてを受け入れてくれれば良い」

 恩田は、目を開けた。

 机の上に、小さな写真立て。

 病院時代の、患者たちの写真。

 みんな、笑っている。でも、みんな、もういない。

 恩田の手から、零れ落ちた命。

「――私は、あなたを救います」

 恩田が、呟く。

「今度こそ。今度こそ、救います」

 恩田の目から、涙が一筋だけ流れた。

「だから……許してください」

 誰に向けた言葉なのか。

 恩田自身も、分からなかった。

 恩田は、目を閉じる。そして、祈る。

 祈りながら、自分の中の何かを――切り離す。

 胸の奥から、黒いものが這い出す。

 それは、恩田の執念。恩田の願い。恩田の、歪んだ愛。

「――行きなさい」

 恩田が、囁く。

「春香さんを、天国へ」

 黒いものが、部屋の影から消える。

 恩田は、椅子にもたれた。

 体が、重い。頭が、痛い。

 でも、胸の奥だけが、少しだけ軽くなった気がした。

「……これで、いいんです」

 恩田が、誰もいない部屋で呟く。

「これが、救済なんです」

 スマホの画面が、暗くなる。

 通話は、まだ続いている。

 恩田は、春香の呼吸の音を聞く。

 浅い。速い。

 もうすぐ、終わる。

 もうすぐ、春香は救われる。

 ――そう、恩田は信じていた。


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