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第5章:雨の夜(後編)

 草薙たちが「心の灯り」の白い案内板を見上げた日から、七日が経った。

 雨が降る夜だけは、時間が戻る。濡れたコンクリートの匂いが妙に鮮明で、胸の奥に残っている言葉まで引っ張り出す。

 足立区の築古アパート。二階。

 外壁はところどころ剥げ、階段の鉄は錆びて赤黒く、雨水が黒い筋になって流れていた。廊下の蛍光灯は一本だけが生きていて、点いたり消えたりを繰り返す。そのたび、水たまりが白く脈打つみたいに光る。

「部屋に着きました」

 先着の警官がインカムを押さえた。電話が切れてから繋がらないことから都の相談窓口の要請で、警察が確認のために派遣されたのだ。

 もう一人がドアをノックする。

「警察です。大丈夫ですか。開けられますか」

 返事はない。

 大家さんを呼び出し、鍵を開けてもらう。

 ドアの隙間から室内を覗こうとして、すぐに気づく。内側にチェーン。ドアを少しだけ開けても、金属が引きつれて、隙間は指二本ぶんで止まった。

「チェーン、かかってます」

 郵便受けには未回収のチラシが詰まり、封筒の角が何枚も突き出ている。赤い文字が混ざっていた。催促。期限。未納。

 生活の匂いが、ドアの外まで染み出している。

 警官がもう一度呼びかける。

「中にいますか。聞こえますか。返事してください」

 応答はない。

 雨音だけが、一定の強さで続く。

「……チェーン、切ります」

 工具の金属音。短い抵抗。

 チェーンが外れ、ドアが開いた。

 部屋の匂いが、いきなり濃くなる。酒、湿った布、長い放置の匂い。

 玄関からすぐの狭いキッチン。シンクには皿が重なり、スポンジは乾いて硬い。床には空き缶が転がり、紙が散っている。督促状、領収書、開けられていない封筒。

 懐中電灯の光が奥へ伸びる。

「……奥、います。……発見しました」

 室内の中央寄り。

 ロープ。踏み台。結び目。

 男が首を吊っている――そう見える角度で、静止していた。

 若い警官が呟く。

「……自殺、ですか」

 ◇   ◇   ◇

 そこから先は、すぐには進まない。

 現場は“片づける”前に、やることが多い。写真、部屋の確認、身元の確認、遺書らしき紙の保全。そして、無関係なものを触らないための段取り。

 発見からしばらくして、廊下には青いビニールシートが半分だけ張られた。住人の視線を遮るための、薄い壁だ。薄いのに、こういう壁が立つと「事件」になる。

 雨は弱まらず、蛍光灯は相変わらず点滅している。

 やがて、廊下の端から、濡れた靴音が近づく。

 迷いのない歩幅。急いでいるのに、焦っていない。

「村瀬さん」

 地元の警官が背筋を正した。

 四十代後半の男 -村瀬が入ってくる。雨に濡れたコートのまま、現場の空気を一度で読む目をしている。隣に、手帳を抱えた三上由紀。髪が湿っているのに、視線は乾いていた。

 村瀬はまず、遺体を一度だけ見て、すぐにドアへ視線を戻す。

「鍵、どうなってる」

「外の鍵穴は傷なしです。チェーンも、内側から掛かってました」

 先に着いていた三上が答える。

 村瀬が短く息を吐く。

「……自殺でもおかしくないってことか」

 村瀬は室内の踏み台に視線を置いたまま言った。

「鷹宮に回す」

 三上が頷き、手帳に走り書きする。

「通話履歴と、都のログ、突き合わせます」

「頼む」

 村瀬は、遺書らしき紙には触れずに言った。

 ◇   ◇   ◇

 廊下が、少し騒がしくなる。

 濡れた足音が早い。迷いがない。

「村瀬さん!」

 草薙美桜が入ってきた。

 黒髪を高い位置で結び、スポーツバッグの肩紐を掴んだまま、現場を一気に見る。整った顔立ちと、強い目力。立っているだけで、空気が少しだけ“前に出る”。

 美桜は遺体を見て、口元だけを硬くした。悲しみというより、嫌悪に近い反応だった。

 村瀬が美桜を見る。

「何か見えたか?」

 美桜は踏み台の近くへ行き、距離を取ったまま床を見る。

 踏み台の脚の周り。古い傷の上に、妙に新しい擦れ。乱闘の跡はないのに、最後に誰かが動かしたみたいな痕が残っている。

 美桜は言葉を選んだ。

「踏み台の周りに嫌な感じが残ってます。人が触った跡と、ちょっと違う」

 三上が息をのむ。

「霊的なやつ、ってことですか」

「そうですね。前の件と同じ匂いです。おそらく、被害者が台に上って、縄に首を通した後、台を移動させたんでしょうね」

 三上が小さく呟く。

「それって……自殺何ですか?」

 ◇   ◇   ◇

「遅れました」

 霧島連が現場に入る。黒いフード、細身。雨で濡れた髪を軽く払う。

 連は短く答え、村瀬に向き直る。

「河野のこと、少し分かりました」

 村瀬が眉を動かす。

「何が」

「昨日、心の灯りに行ったとき……小型のカメラを置いてました」

 三上のペン先が止まる。

「え」

「違法なのは分かってます。今は怒らないでください。必要なら後で謝ります。事件の時間帯、河野は別の相談者の面談中でした」

 三上が顔をしかめる。

「遠隔とか、自動とか、そういう可能性はないんですか?」

 草薙は、言い切らない口調のまま、要点だけを返す。

「可能性はあります。でも、この密室をここまで綺麗に作るには、その場の対応が必要です。勝手に動くタイプだと、融通がききにくい。高度な術ならできるけど……できるのは、かなり上の術者です」

 連が苦笑した。

「草薙さんクラスじゃないと出来ない」

 村瀬と三上が草薙の顔を見る。草薙は小さく肩をすくめる。

「確かに私なら出来るけど。こんな遠回りな面倒なことはしないわね」

 草薙が苦笑する。呪殺は法律の適用外だ。そのため、罪を逃れるためにわざわざ自殺に見せかける必要などない。

 村瀬が、遺体の方を見たまま言う。

「じゃあ、河野は、どうやったんだ」

「わかりません。しかし、このままでは埒が明かないですね」

 連が腕を組みながら何を考えているようだった。

「別のアプローチを考えました。力技ですが皆さんの協力を得られればやる価値があると思います」



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