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プロローグ:微笑む墜落

 泣くのって、体力を使う。


 涙は勝手に出るくせに、喉はカラカラになるし、息は浅くなるし、頭の内側だけが熱を持っていく。世界はいつも通りに回ってるのに、自分だけが置き去りにされる。たぶん、こういうのを「孤独」って呼ぶんだろうね。便利な単語だ。説明を丸ごと省略できる。


 ――もう、疲れちゃった。


 その言葉を、家では言えない。


 言った瞬間に「甘えるな」って返ってくるのが分かってるから。机の上の参考書の山と、塾のプリントの束と、スマホの通知と、父の声。全部が「まだ足りない」と言ってくる。足りない、足りない、足りない。私が足りない。私の人生が足りない。


 だから私は、ここにいる。


 五月の終わり。通学時間帯の新宿。


 ビルの屋上は、地上の喧騒が嘘みたいに遠かった。風は強めで、制服のスカートがひゅっと持ち上がる。髪が頬を叩いて、目に入って、でもその不快感すら、今は「どうでもいい」に分類される。


 コンクリの床は、夜露になる前の湿り気を薄く抱えている。靴底が少しだけ吸い付いて、「きゅ」と鳴る。屋上の隅には錆びた室外機が並び、白い配管テープはところどころ剥がれて黒ずんでいた。手すりは冷たく、金属の匂いがした。


 私は縁に立った。


 高いところが怖いかどうか、今はよく分からない。怖いって感情が、どこかに置き忘れられてる。


 スマホの画面には、通話時間だけが伸びていた。


 00:01:41、00:01:42……秒だけが律儀に増えていく。


 相手の言っていることは、良く判らない。


 でも、“優しい”ってことだけは分かる。布団の中みたいにぬるくて、頭を撫でられてるみたいで、呼吸の仕方まで思い出させてくれる。


 「……怒らないんだ」


 声が擦れて、自分の声じゃないみたいだった。


 「じゃあ、“罪”じゃない?」


 優しく肯定される。


 息が整っていく。涙が止まるとか、気が晴れるとか、そういう優しい変化じゃない。胸に刺さっていた針が、誰かの手で一本ずつ抜かれていくみたいに、痛みの“意味”だけが薄くなる。


 「約束だからね」


 その言葉を言った瞬間、口角だけが先に上がった。


 笑う予定なんて、なかった。今朝だって鏡の前で口角を上げる練習をしたのに、上手くできなくて、逆に腹が立ったのに。


 風が髪を乱す。


 なのに、身体は妙に安定していた。迷いの揺れが、ない。


 縁のコンクリに手を置くと、冷たさが骨まで染みて、その冷たさが逆にありがたかった。現実ってこういうものだよね、って最後に確認できる。


 スマホを握り直す。


 相手は何か言っている。たぶん止めてるのかもしれない。あるいは背中を押してるのかもしれない。どっちでもいい。


 だって、その声は優しいから。


 それで――私の視線が、スマホの向こうじゃなくて。


 空に合った。


 星でも、飛行機の光でも、ビルの赤い点滅でもない。何もないはずの一点。そこに“誰か”がいるみたいに、私は見つめた。見つめてしまった。


 「……これで、天国に行ける」


 自分の声が、願望じゃなくて確信に聞こえた。


 ためらいって、こんなに簡単に消えるものだったっけ。


 柵の向こうに見えたのは、新宿の朝だった。


 改札へ急ぐ人の波、バスの白い車体、ガラスに反射した空。街が、私のほうへ迫ってくる。


 ――飛んでいる。


   ◇   ◇   ◇


 その瞬間が「飛んだ」のか「落ちた」のか。


 誰も、正確には言えない。


 新宿の交差点は、朝の匂いがしていた。


 通勤のスーツ、通学の制服、観光のキャリーケース。信号待ちの人たち。ビルの壁はガラスで、空を反射して、偽りの雲が見える。


 ――それが、割れた。


 上から落ちてきたのは、制服の少女だった。


 落下の音は、遅れて届いた。まず悲鳴が上がり、次に群衆が一瞬だけ硬直して、そして一斉に後ろへ引いた。誰かが叫ぶ。誰かがスマホを構える。誰かが走り寄ろうとして、足が止まる。


 アスファルトに叩きつけられた身体は、誰が見ても助からない。


 なのに、即死ではなかった。


 赤い血がアスファルトに羽のように広がる。口元から泡混じりの血があふれて、制服の襟を濡らす。胸が上下する。微かに。


 そして――少女は、笑っていた。


 苦痛死のはずなのに、眉間の皺が少ない。目の焦点が合っている。口元だけがほどけていて、その笑顔が「耐えてる」じゃなく、「安心してる」に見えた。


 駆け寄った通行人が、震える手で近づく。


 触れたら崩れそうで、触れたら現実が確定してしまいそうで、手が宙で止まる。


 少女は、その人の目を見た。


 「これで天国に行ける」


 息のはずの言葉が、血と一緒に吐き出された。


 願望じゃない。祈りでもない。


 確信だった。


 遠くでサイレンが鳴り始めた。


 街の音が一段だけ遠くなる。


 ……この出来事は、あとで「自殺」と呼ばれる。


 そう呼ぶための条件が、いくつも揃っているからだ。


 でも、その条件の隙間に、ひどく柔らかい何かが入り込んでいた。


 それが何かを、まだ誰も知らない。



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