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動画サイトで生放送を視聴してみた②

作者: ムクダム

①の続きです。作品種別の設定を間違えてしまった・・・。

 投げ銭をしてみようとコメントボタンをクリックしたが、ふと手が止まってしまった。次々と現れては消えていくコメントの波を目で追いながら、なぜ投げ銭をするのかという疑問がやはり拭えなかった。自分のコメントを読んでもらいたい、配信者を応援したいという気持ちは理解できるが、その手段に違和感がある。

 コメントを目立たせるために払うお金で、もっと別の楽しみが得られるのではないか。仮に読まれたとしても、1〜2行の内容で、読む方だって次々流れるコメントから拾うものを選ぶのに忙しいだろうから内容を吟味はしていないだろう。むしろ、吟味しなくても良いように投げ銭、スーパーチャットという制度があるのかも知れない。そんな風にコメントが読まれることに、お金を払うだけの価値があるとは私には思えなかった。

 応援するためにやっているから読まれなくても問題ないという考え方もあると思うが、投げ銭と応援の間に隔たりがあると感じる。なんらかのパフォーマンスへの対価としての投げ銭であれば腑に落ちるが、多くの配信は基本的に他愛のないおしゃべりだ。それは果たしてパフォーマンスと言えるだろうか。捉え方は人それぞれだが、応援とは何かを頑張っている人の力になりたいという気持ちから出てくるもので、ただのおしゃべりにお金を投げつけることを応援と言えるのだろうか。

 結局、投げ銭をすることなく生放送が終わった。その一日を振り返ると、生放送のスケジュールに自分の生活リズムを支配されていたという印象が強い。他人の都合で自分の時間をコントロールされるのはストレスフルだ。家族や友人のためにプライベートの時間を調整するのは別に苦ではないが、相手方がこちらの名前も顔も知らない、いわば一方通行の関係で時間を支配されるのは人間としての尊厳が損なわれる気分になる。生放送を観ると決めたのは自分自身であり自業自得なのだが、今回の経験を通じてやはり自分の価値観とは合わないものだなということを確かめることが出来た。

 一方で、これに入れ込む人の気持ちも何とくなく理解できたような気がする。チャンネル登録して生放送を心待ちにする相手というのは、世間的な評価に関わらずその個人にとっては憧れの対象、スターと言える。自分にとってのスターが自分の言葉を受け取ってくれるかも知れない、という期待は人を惹きつけてやまないものであり、古来、ファンレターを書く人の心理はそこに根付いていると思われる。ファンレターが読まれたり、その返事が貰えたりする可能性に比べれば、生放送でのコメント読み上げは大いに期待が持てる。それが投げ銭やスーパーチャットが活況を見せている理由なのだろう。

 しかし、なぜコメントを読んでくれるのかというと煎じ詰めればお金を払っているからである。対価を払ってサービスを受けるというのは、ごく一般的な取引関係のありようだが、スターとファンの関係はそういったものと同じなのだろうか。自分にとってのスターという存在は、もっと特別なものでありその関わり方ももっと厳粛なものであって欲しいと私なら考えてしまう。お金と引き換えに読まれるかも知れない短いコメントの投稿に血道を上げるよりも、例えば、自分の気持ちと向き合い真摯に筆を動かした手紙を送る方がスターとの関係においてはより価値のあることだと感じられる。その手紙が読まれなくとも、書くのに費やした時間は宝物として自分の中に堆積していくのではないだろうか。即物的な快楽のために投げ銭をして手軽にその返礼を受け取るというのは、より充実した時間をみすみす手放しているのと同義のように思える。

 無論、お金をどのように使うかは自由だ。だが、多くの人はお金を得るために仕事をし、仕事のために自分の持ち時間、いわば命を削っている。命と引き換えに得たものを何のために使うかは、十分に吟味したほうが良いと思う。

 誰かに貢ぐという行為は遥か昔から行われてきたものであるが、現代社会はこの行為をかつてないほど容易に、そして幅広い人間ができるようにしてしまった。未成年であっても、お金があればボタンひとつで好きな相手に貢ぐことが可能になったのだ。この行為に慣れ切ってしまうと、大人になってより深い闇に足を掬われるのではないかという危惧を覚える。

 昨今の世の中は何かを好きになるということがひたすらに肯定される。それこそ好きなものを作ることが半ば強要されていると感じるほどに、好きという気持ちを大事にしようとメディアやフィクション作品が煽り立てている。大切な気持ちではあるが、節度を持って向き合いたいものだ。自分の身を滅ぼすほどの好きという気持ちは一見素晴らしいものに思えるが、その気持ちが誰かに誘導されて芽生えた気持ちだったとしたら、ひどく醜悪な様相を呈する事になる。おかしなものに振り回されないために、いったん立ち止まって、自分の気持ちを見つめ直す時間も必要ではないだろうか。終わり

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