第四話:情けない俺に、道が一つ
焚き火の音がしていた。
ぱち、ぱち、と木が割れるような音。煙の匂いが鼻をついて、むせそうになった。
「おい、起きろ。目ぇ覚ませ」
誰かの声。
低くて、怒ってるような、でも焦ってもいるような。
まぶたをゆっくり開けると、眩しさとともに、でかい顔が視界に飛び込んできた。
「……っ、あ……?」
何がなんだか、すぐには思い出せなかった。
でも、頬に触れる冷たい草の感触。ずきずきと疼く肩の痛み。
そして、あの赤い目と、緑の肌──
……ゴブリン。そうだ。襲われて、剣を落として、何もできなくて──
「はぁ……マジで間一髪だったな」
その男──冒険者風の男は、顔をしかめて立ち上がると、俺の肩に濡れた布を押し当ててきた。
思わず声が漏れる。
「痛っ……!」
「効いてる証拠だ。黙ってろ」
言葉は乱暴だったけど、手つきは丁寧だった。
大きな手。節だらけの指。何度も剣を握ってきた男の手だった。
目の前には、焚き火と、それを囲むように置かれた荷物。
男の背後に見える倒木の上には、血のついた大剣が立てかけられていた。
助けられたんだ。
俺は、あのまま死ぬところだったんだ。
「……ありがとう、ございます」
かすれた声でそう言うと、男は片眉を上げた。
「……おい坊主、お前、いったい何者だ? なんでこんな森の奥で、ゴブリンに殺されかけてんだ?」
どう答えればいいのかわからず、口を開いたまま言葉が出なかった。
「……いや、待てよ」
男の視線が、俺の腰に向けられた。
そこには、鉄でできた小さな工具袋──炉の前で使っていた、慣れた道具たちが入っている。
「……その袋。火ばさみに、革手袋、ハンマー……鍛冶屋か、お前?」
その言葉に、小さくうなずいた。
「……はい。鍛冶屋の、息子です」
「ったく、どうりで剣の構えもなってねえと思ったわ……」
男はため息をつき、大げさに頭を振った。
「何してた? まさか狩りの真似事か?」
その言葉が、胸に突き刺さった。
「……魔石が、欲しくて……自分で取るしかなかったんです」
「はぁ?」
さすがに意味がわからなかったらしい。
俺は、ゆっくりと、言葉を選びながら話し始めた。
「俺……《鍛治師》のスキルが出なくて。父に教わって、十年ずっと鍛冶してきたのに、スキルが出ないままで……魔石を混ぜろって言われても、やり方もわからなくて」
火の揺らめきが、俺の影を歪めていた。
森の夜は静かで、俺の声だけがそこに響いていた。
「……魔石、何度も割っちゃって。父には『戻ってくるな』って言われて、山小屋で鍛冶を続けてて。でも、それだけじゃダメだと思って……自分で魔石を取ろうとしたんです」
そこまで言って、言葉が途切れた。
喉が詰まりそうだった。
情けない。
何もできなかった。
剣を持って、夢みたいに森に入って、何一つうまくいかずに──死にかけた。
男は、焚き火に小枝をくべながら、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「……真面目なガキだな、お前は」
「……え?」
「スキルが出ねぇのに鍛冶続けて。親に追い出されても諦めねぇで。しかも、命かけて魔石取りに行くなんて。馬鹿だけど、真面目だ」
言われて、なんだか泣きたくなった。
「でもな」
男はぐっと身を乗り出して、俺の目を真正面から見た。
「真面目だけじゃ、死ぬぞ。特に、こんな世界じゃな」
その目に、怒りはなかった。
あったのは、本気だった。
俺のために、怒ってくれていることが、なぜか伝わってきた。
「お前、剣を使ったこともねぇのに、魔物狩りに出るなんて……それは無謀って言うんだよ。違うか?」
「……違いません」
正直にうなずいた。
男は、もう一度ため息を吐いて、それから鞄を引き寄せた。
中から取り出したのは、薄く折り畳まれた布の包み。
それを広げると、中には地図のようなものが入っていた。
「アリオンって村がある。知ってるか?」
「……聞いたこと、ないです」
「山を下りた先だ。そこにな、“アリオン道場”ってのがある。剣を教えてる道場だ。昔は騎士団仕込みの厳しいとこだったが、今は一般の若者にも開いてる」
俺はその地図を見ながら、小さく眉をひそめた。
「……でも、俺、鍛冶屋です」
「知ってるよ。お前の腰袋見りゃ、嫌でもわかる」
男は笑った。
その笑顔は、さっきとは違って、どこか子供っぽいくらいあたたかかった。
「でもな、鍛冶屋だからこそ、武器のことを知るべきだろう? 使い方も知らねぇやつが、どうしていい武器を作れる?」
その言葉に、目の奥がじわっと熱くなった。
「……俺なんかが、行っても……」
「そう思ってるうちは、まだ“鍛冶屋の子供”だ。けど、死ぬのが怖くて、でも生きて帰ってきた“今のお前”なら、行けるよ」
言葉が、心の奥にすとんと落ちた。
道場。
剣の修行。
鍛冶だけだった自分にとって、それはまるで異国みたいな響きだった。
でも──行きたいと思った。
今度こそ、ちゃんと“やり直したい”と思った。
俺は、目の前の男を見た。
「……ありがとう。道、教えてくれて」
「礼なら、生きてから言え。もう死ぬなよ」
男はそう言って、焚き火の向こうであくびを噛み殺した。
その夜は、あたたかかった。
初めて、人に肯定されたような気がした。
火の匂いが、鍛冶場とはまるで違って、静かに心に染みていった。