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第三話:森の中で、俺は死にかけた

朝になるのを待っていた。

 窓から差し込む光で目を覚まして、すぐに動き始める。

 眠気なんてなかった。そもそも、あまり眠れなかった。

 布団は固いし、夜は静かすぎて耳が落ち着かなかったし、何より、明日が楽しみだった。


 ……たぶん、生まれて初めてだったかもしれない。

 明日が楽しみだなんて思ったのは。


 


 身支度を終えた頃には、もう日は高くなっていた。

 炉の火を確認して、最低限の工具を整理する。

 鉄は置いていく。今日は鍛冶をする日じゃない。


 


 腰には短剣。

 これは昔、自分で打った一本。

 戦えるかどうかはわからないけど、これしかない。


 


「行ってくる」


 


 そう誰に言うわけでもなく、ぽつりと呟いて、扉を開けた。


 


 外の空気は、森の匂いがした。

 湿った土、木々の樹皮、葉の青臭さ、それから朝露のひんやりした気配。

 全部が新鮮だった。


 


 父といた鍛冶場の空気とは、全然違う。


 熱と、鉄と、油の匂いじゃない。

 ここには、“生きた”匂いがある。


 


 小屋の裏手にまわって、小さな獣道を辿る。

 踏みしめるたびに、草がしなる音がする。

 細い枝が頬を掠めて、湿った葉が足に絡む。


 


 森は、思ったよりも、深かった。

 というより、俺が思っていた以上に、世界は広かったのかもしれない。


 


 鳥のさえずり。

 虫の羽音。

 遠くで木がきしむような音がして、一瞬だけ緊張する。


 手が、勝手に短剣の柄を握っていた。


 


「落ち着け……」


 


 小さく呼吸を整える。

 鍛冶場で火の前に立つときと、同じように。


 


 時間が経つのが、早いんだか遅いんだかわからなかった。

 太陽の位置を確認する余裕もなく、ただただ、森の奥へと足を進める。


 


 目的はひとつ。

 ゴブリンを見つけること。


 そして、魔石を手に入れること。


 スキルのない俺には、それしか方法がない。


 


 けれど、初めての森は想像以上に複雑で、どこを歩いても似たような景色ばかりだった。

 少し歩けば苔むした倒木。

 その先にシダが茂る岩場。

 獣の足跡らしきくぼみもあったけれど、それが何の動物なのかなんて、俺にはわからない。


 


 だけど──それでも、不安だけじゃなかった。

 どこか、胸の奥がわくわくしていた。


 


 これが、異世界なんだ。


 森の中にいるだけで、現実味が増していく。

 こんな空気、こんな匂い、前世じゃ一度も味わったことがなかった。


 


 俺は、確かに異世界にいる。

 鍛冶場の鉄の匂いじゃなくて、こういう場所に来たかったんだ。


 


 ──そう、思ったその時だった。


 


 耳に入ったのは、“音”だった。


 枝を踏みしめるような、ざっ……という乾いた音。


 足音。

 けっして、獣じゃない。

 もっと軽くて、小さくて──けれど、確かに“意志”を持った音。


 


 とっさに、短剣を抜いた。

 手が震えてるのがわかる。


 息を止めて、耳を澄ます。

 ……いる。近い。


 


 木の影から、何かが、ぬうっと姿を現した。


 


 小柄な身体。

 黄緑色の肌。

 細く、尖った耳。

 赤黒い目が、ぎらぎらと光っていた。


 


 ──ゴブリンだ。


 


 俺は、動けなかった。

 頭が、真っ白になった。


 


 ゴブリンも、一瞬だけ足を止めて、俺を見つめた。


 


 目が合った。


 


 心臓が跳ねた。


 体が震えた。


 逃げなきゃ、と思った。


 けど──足が動かなかった。


 


 そして──ゴブリンは、駆けた。


 


「くっ……!」


 


 短剣を構える。

 けれど、腕が重い。

 剣はぶれた。

 ゴブリンの爪が、すぐ目の前に迫って──


 


 痛い、というより、熱かった。


 


 肩口を切られて、後ろへ弾かれる。

 地面に転がって、泥と葉っぱと石が顔に当たる。


 体が動かない。

 頭が混乱してる。

 剣が、どこかへ飛んでいった。


 


 ゴブリンが、また近づいてくる。


 


 ──ああ、俺、死ぬのか?


 


 なんでだよ。

 せっかく、異世界に来て。

 やっと鍛冶の重さから抜け出して。

 これから、ようやく旅を始めるところだったのに──


 


 その時だった。


 


 「下がれ!」


 


 誰かの声が響いた。


 次の瞬間、ゴブリンの身体が吹き飛んだ。

 風が、斬られた音がした。

 血が飛び散って、地面を赤く染めた。


 


 視界の端に見えたのは、大きな剣を握った男の背中だった。


 


「おい、大丈夫か!?」


 


 声が、遠くから響いてくる。


 


 俺は、うなずけなかった。


 けど、目だけは、なんとか開けていた。


 空が、木の間から見えた。

 また、青かった。


 泣きそうなほど、きれいな空だった。

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