第二話:山の空は青かった
朝の空は、やけに澄んでいた。
吸い込まれるような青だった。雲は高くて、風はまだ涼しかった。
鍛冶場の煙も、もう俺の背にはなかった。
小さな袋に着替えと工具を詰めて、腰には自作の短剣を差していた。
背中に背負ったのは、父が黙って貸してくれた工具箱。
中には最低限の鉄と、小さな炉を起こすための火打石も入っている。
「スキルが出るまで戻ってくるな」
あの一言が、今でも耳に残ってる。
けど、不思議と胸の奥は軽かった。
歩くたびに、草の香りがした。
土の道に積もった落ち葉を踏む音が、妙に心地いい。
森へと続く山道は、朝露に濡れて、ところどころぬかるんでいたけど、それすらも懐かしいような気がした。
この道を最後に歩いたのは、まだ幼かったころだったかもしれない。
父に手を引かれて、荷馬車で小屋に行った記憶がうっすらある。
重たい鍛冶槌を振るっていた毎日が、夢みたいだった。
朝から晩まで父の目があって、失敗すれば無言で叱られて、わずかなミスも許されなかった。
そういう日々から、ようやく少し、距離を置けた。
なんだ、息ってこんなに深く吸えるんだなって、思った。
山の木々はすらりと高く、陽が差し込む角度によって葉の色が変わる。
明るい緑、深い緑、時おり混ざる黄色い葉が、陽に透けて揺れていた。
鳥の声がする。
遠くで何かが跳ねるような音がして、一瞬だけ足が止まる。
けど、不思議と怖くはなかった。
ここには父の目も、無言の鍛冶場も、ない。
ただ、木々と風と、空の音があるだけ。
気づけば、口元が少しだけ緩んでいた。
「ははっ……まるで、逃げてきたみたいだな」
誰に聞かせるでもなく、そんな独り言が漏れる。
でも、それでもよかった。
鍛冶しか知らなかった自分にとって、森を歩くのは冒険みたいだった。
それに、森の奥には鍛冶の小屋がある。
小さいけど、ちゃんと炉も道具もそろってる。
父の若い頃が使っていた、昔の作業場らしい。
「山の中だから誰も来ねぇ。好きにしろ」
そう言われたときは、追放された気分だった。
でも今は、ちょっとだけ……自由になれた気がしていた。
小屋に着いたのは、昼を過ぎた頃だった。
木の扉を押すと、乾いた音がした。
中には埃の匂いがこもっていて、窓を開けるとそれが一気に抜けていった。
小さな炉。
使い込まれた作業台。
錆びついた道具の数々。
それを見て、不思議と胸の奥があたたかくなった。
俺のための場所じゃない。
でも、ここでなら……俺は、俺のままでいられる気がした。
袋から布を取り出して、道具を一つひとつ磨く。
鉄くずを拾い、散らばった灰を掃く。
黙々と働く手のひらが、ほんの少しだけ軽い。
いつもなら、父の視線を背に感じながら作業していた。
でも今は、俺しかいない。
誰にも見られない。
失敗しても、誰にも怒られない。
炉に火を入れたとき、ぱちっと木炭が弾ける音がした。
その瞬間、ふっと顔が綻んだ。
「……さて。やってみるか」
魔石を、小屋の机の上に取り出す。
薄く緑がかったその石は、光の加減で微かに光って見えた。
父から渡されたものだ。
投げるように渡された、小さな希望。
いや、もしかしたら試練か、罰だったのかもしれない。
だが、それでも。
あの日、父が初めて俺の剣を“認めた”そのあとの贈り物だった。
「魔石を剣に混ぜてみろ」
──その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
やり方は、教えてもらえなかった。
というか、教えるものじゃないらしい。
スキル《鍛治師》があれば、自然とわかると、皆は言う。
でも、俺にはない。
何度スキルを確認しようとしても、ステータスウィンドウなんて出てこなかった。
それでも、やるしかなかった。
鉄を炉に入れる。
火加減を確かめながら、じっくりと熱を通す。
耳を澄ませば、鉄が呼吸する音が聞こえる気がした。
ぱちり、と。
ひゅう、と。
まるで、生き物のようだった。
そして、魔石をそっと取り出し、鉄と並べる。
触れた瞬間、石の表面がほんのりと熱を帯びた。
思わず手を引いたが、すぐにもう一度、両手で持ち直す。
──叩く。
そう決めていた。
俺にはスキルがない。
でも、それでも、やってみたかった。
もしかしたら、努力すれば届くかもしれない。
あの日、父の目が少しだけ柔らかくなったように見えたから。
鉄を台に置いて、魔石をそっと重ねる。
そして──ハンマーを振り下ろした。
ぱきん、という音。
魔石は、一発で砕けた。
あまりにも、呆気なかった。
力を入れすぎた?
温度が合ってなかった?
そんなことを考えている間にも、粉々になった魔石が、炉の灰に混ざっていく。
……なんだよ、これ。
胸の奥に、黒いものが溜まっていく。
ため息は出なかった。
ただ、呆然とした。
だけど──不思議と、悔しくなかった。
ここでは誰も見てない。
誰も、怒らない。
やり直せる。
何度でも。
顔を上げたとき、山の向こうに陽が傾いていた。
空が、オレンジ色に染まり始めている。
まだ今日が終わるには、早い。
「……また、探しに行くか」
魔石は、まだあるはずだ。
森の奥に、ゴブリンがいる。
狩る術も、戦い方も、何も知らない。
だけど、今の俺は──あの鍛冶場の少年じゃない。
ようやく、少しだけ笑えるようになった、俺だ。
明日、森に行こう。
剣を握って、初めての“自分の魔石”を、手に入れに。