あの喫茶店で待ち合わせ
駅前には公園が2つある。
ひとつは、大きな広場や噴水のある、昼間は子供連れのママ達がにぎやかで、放課後の時間は近所の小学生達が駆け回っている広い公園。
もうひとつは小さな広場にベンチがいくつかあるだけの、駅の裏手のほうにある目立たない公園。
その小さな公園の奥にさらに目立たない細い路地があって、公園に並ぶ木に隠れるように古い建物が並んでいる。
どれも二階建ての同じような造りの灰色の住宅なのだが、そのうちのひとつには小さく、それと分からないようにドアに『春夏冬中』と札がかけられていた。
『図書室』
それがその店の昼間の名前である。
昼間はコーヒーを出す喫茶店。
夜は店名も『ファム・ファタル』と変わり、ワインバーとなる。
店主の酒好きが高じてワインバーを始めてみたものの、当然だが昼間は客足がさっぱりであった。
そこで昼から夕方までの短い午後の時間をコーヒーを出す喫茶店として開けている。
酒ならなんでも来い、という呑兵衛にも関わらずワインに限って提供している偏屈者の事である。
当然、喫茶も偏屈者らしくホットコーヒー1本だ。
そんな来る者を選ぶどころか拒んですらいそうな店だが、昼は昼なりに、夜も夜なりに客があり、そこそこの儲けを出しながら今日も街の片隅でひっそりと営業中であった。
小桃は学校が休みに入ると、毎日のように出かける場所がある。
それが、駅前の喫茶『図書室』だ。
特にこの季節、桜の咲く季節になると全ての誘いを断って、お店の特等席であり彼女の指定席でもある、公園を眺める大きな窓に向かう席で本を読む。
桜の木が枝を伸ばして毎年見事に咲くのを、コーヒーの香りに包まれながら本を片手に眺めるのが好きなのだ。
ひらひらと花びらが舞い散る様を、時折思い出したように読みかけの本から顔を上げてぼんやり眺めていると、幼馴染の修がコーヒーの入ったカップをそっとそばに置いた。
このお店は修の父親が昔住んでいた古い建物を使って始めた店だ。
もう誰も住んでいないのだが、思い出があって取り壊すのは忍びないのだそうだ。
隠れ家的な店、というよりは近所の寄り合い場所のようになっている。
昼はコーヒー好きの暇な老人たちの、夜は近所の酒呑みたちの、だ。
どちらにもおしゃれな雰囲気はかけらもない。
豆もワインも銘柄が限られていて、『客は文句を言ってはいけない』が合言葉だ。
店主も客も、店という意識はなさそうである。
以前、店で飲んでいる父を迎えに来てみたところ、店主は騒がしい中で他の客と飲み比べの最中で、小桃の父は厨房で自分用のツマミを作っていた。
ダメな大人の集まりだと噂される夜の部だが、昼は逆に静かすぎて小さな音でも大きく響く。
白いシャツに黒のエプロンをした、無口で愛想のない幼馴染には店のその雰囲気がよく似合って、小桃は小さく笑みを浮かべた。
公園の桜の枝に小鳥が集まり、枝から枝へと渡りながら何事か鳴き交わしている。
花をくわえたスズメを見かける事もある。
静かな時間と、コーヒーの香り。時計の音。
時折、階下でチリンとドアベルの音がして誰かが入ってくる。多分、近所の誰か。
みんな顔見知りで、小桃や修の事も赤ん坊の頃から知っていて、お店の事もよく知っている。
コーヒーの豆がいつも1種類しかない事も、最近は修がカウンターに入っている事も。
小桃はここが好きだった。
このお店の空気が、ここに来る人たちが。
駅の裏手で、一本奥に入っただけなのにとても静かなここで過ごす時間が好きで、そして幼馴染の淹れてくれるコーヒーが好きだった。
けれど、それも今年限りかもしれない。
4月になれば、小桃は地元の大学へ。
幼馴染みは離れた街の専門学校へと進学する。
製菓の勉強をしたいのだそうだ。
調理師の免許を取りバリスタの資格も取って、このお店を継いで、コーヒーと一緒に手作りのケーキを出すような、そんなお店にしたいらしい。
それを聞いたとき、小桃は応援した。
そんな遠くまで行かなくても、とか、もっと儲かる仕事にしなよ、とか、反対するような事は口にしなかった。
修が頑固で一度決めた事は曲げない性格だと分かっていたから、ケンカしたくはなかったのだ。
でも卒業式が終わり、修が地元を離れる日が近づいてくると、どんどん気持ちがふさいでくる。
次はいつ会えるんだろう?
お休みには帰ってくる?
会えなくなったら少しはさみしい?
人は変わる。
1年たって、2年たって、いつか帰ってくる修は小桃の知っている修なのだろうか?
小桃は、今のまま、修の幼馴染のままの自分でいられるのだろうか?
帰ってこなかったら?
どちらかに恋人ができたら、もう友達ではいられない?
いろんな事を言葉にできないまま、これから先もこうして幼馴染みのいないこのお店へ通い続けるのか、小桃はまだどちらとも決めていなかった。
閉店の時間が近づき、小桃は席を立つと店内の他のお客たちに軽く会釈して表へ出た。
風が少しだけ出てきて、満開の桜を散らしている。
ソメイヨシノはピンク色というよりごく淡い色をしている。
遠目に見ると、少しだけ色がついた優しい白のようだ。
毎年、店内の窓から降り始めの花びらに気がついたときは、雪が降り始めたかとどきりとする。
薄紅に見えない薄紅。
美しい薄墨の色づく紅。
確かにピンクの桜色なのに、まるで薄墨を淡く滲ませたようだと小桃はうっとりと引き込まれる。
見上げていると、さらに強い風が花を散らした。
一緒に風に舞う長い髪が邪魔で押さえる。
背後のドアベルが鳴るのを、小桃は風のせいだと思った。
「小桃」
だから、声をかけられて小桃は「なぜ」と感じながら振り向いた。
今まで1度も、見送りに出てきた事はなかったのに。
「帰るのか」
「うん」
「ちょっと中で待っててくれ、送ってくから」
「いいの?」
「うん。それとも、この後用事か?」
「ううん。帰るだけだけど……」
「じゃあちょっとだけ」
「うん。あ、でも、外で待ってる」
「そうか?」
「うん。ゆっくりでいいよ」
「ああ」
少し意外な気分で修を見送ると、小桃は公園のベンチに座った。
子どもはみな、駅の反対側にある大きな公園へと行く。
小桃もその例に漏れず、幼い頃はこちらではないほうでみんなと遊んだものだが、お休みの日は仲の良い父親どうしが店に集まるため、修と小桃も連れて来られた。
修の父が作ったサンドイッチやおにぎりをこの小さな公園で一緒に食べる。
それがものすごく楽しくて、小桃にとってこの小さな公園は特別な場所だった。
今は、公園もその目の前のお店も含めて特別な場所だ。
ふたたび本を開いてのんびり待っていると、店内からお客たちが1人、また1人と出てきて、20分ほどで修が最後にドアに鍵をかけた。
「ごめん、待たせた」
「大丈夫、そうでもないよ。みんな今日は早かったね」
「うん。隣、いい?」
「うん」
小桃が体をひとつぶん寄せると、修が腰を下ろす。
そして話し出した。
「俺、明日引っ越すだろ」
「うん、そうだね」
「むこうでバイトする予定なんだ。喫茶店で」
「そうなんだ」
「だから、休みの日は多分帰ってこれない」
「そうだね」
「だけどさ、」
修は小桃の顔を見て何か言いかけ、そして黙った。
「だけど?」
「遊びに来たりとか……しないよな」
視線を逸らした修の顔が赤くなっているようで、小桃は緊張が高まる。
「忙しい、かな。きっと」
だから、わざとぶっきらぼうに返した。
声が震えないように、期待しないように。
でも、なんで期待しちゃいけないの?
「そっか……そうだよな」
修の普段無表情な顔が少しだけ赤く染まっている。
それは、桜の花くらい。
ほんのわずかに、分からないくらいに、遠くから見たら優しい白に見えるように。
薄墨で色をつけてみたような、分かりにくい赤。
言葉数が少なくて、無表情で、愛想のない頑固者。
白と黒の彼。墨と薄墨で描いたような。
ほんのり、色づいて。
小桃はふふ、と笑った。
仕方がない、負けてあげる。
「修、これ」
バッグの中からそれを取り出した。
白い紙袋には朱色の『上』の文字。
夜、修の父にお願いして渡してもらうつもりだった。
「今朝、早起きして行ってきたの。神社」
縁結びで有名な神社だが、勇気がなくて縁結びのお守りではなく普通の身体堅固のお守りだ。
縁結びのお守りは花のデザインの可愛らしいものだったのだが、あげる勇気もなければ、修にあまりの似合わなさにつけてもらう勇気も出なかった。
「その、気をつけてね。それで、その」
小桃は顔を伏せた。
「元気で……帰ってきて。待ってるから」
言えない。
負けてやろうと思ったのに、やっぱり言えない。
心臓が早鐘のように鳴って、頬が熱い。
帰ろうと立ち上がった小桃に、修が声をかけた。
「俺も」
修が小桃を見上げている。視線が合って、胸の痛みが小桃を襲う。
「俺も、買ってきた、お守り」
そう言って手渡されたのは、小桃が勇気がなくて授けて欲しいと言えなかった、花のお守り。
受け取って、小桃は涙があふれて泣きそうになる。
「縁結びのやつ。持ってて。必ず、帰ってくるから」
言葉にならず、小桃はお守りを握りしめて大きくうなずいた。
あんたどんな顔して受けたの、これ。
お守りはね、『買う』んじゃなくて『授かる』とか『受ける』って言うんだよ。
欲しかったの、このお守り。
すごく可愛い、ありがとう。
縁結びってことは、そういう事だよね。
期待していいんだよね?
「泣くなよ」
困ったように言いながら、修は小桃の手を引いてベンチに座らせると言った。
「LINEする」
「毎日?」
「毎日!? いや、それはちょっと……」
じとっと小桃が涙目で見上げると、修は顔を歪めて観念したようにうなずく。
「毎日……」
「うん」
「でもできなくても怒るなよ!? 頑張るけど、できないかもしれないからな!」
「いいよ。あたしがするから。だからスタンプでいいからちゃんと返して」
「わかった」
その言葉に笑顔になった小桃から、修はまた視線を逸らす。
そして小さくつぶやいた。
「なんだよ……いつも俺が負けてやってばっかじゃん……」
「なに?」
「なんでもない」
ため息とともに返すと、修は小桃のほうを見る。
辺りはそろそろ薄暗い。
「お店で、待ってるね」
あのお店で。『図書室』で。
そう言った小桃の頬に修がそっと触れて、顔を寄せた。
小桃はそれに目を閉じる。
目を閉じる寸前に見えたのは、薄く薄く色づいた、修の唇。
それはまるで桜の花のような。
とても分かりにくい色だから、だから人は触れたがるのかもしれない。
確かめたくて。
そんな事を思いながら、柔らかく暖かい初めての感触に溺れていった。