贖罪の治癒師
エデュアルト・ブラウウェルは、名の知れた豪腕の剣士だった。
剣も槍も使いこなし、向かうところ敵なし、多くの領が彼を名指しで欲しがるほどの腕を持ちながら、戦闘中に利き腕である右腕に傷を受け、剣士を引退することになった。
エデュアルトの怪我を治したのは、森の近くに住む薬師のマノンだった。
大した治療らしい治療もされず、止血のために清潔でもない布が捲かれただけの状態で木の根元で休んでいたエデュアルトを見つけ、見かねて声をかけ、治療した。
痛むだろうに、本人は傷のことなどまるで人事のようだった。傷は思いのほか深く、化膿しており、腕を切り落とす事になるかも知れない。そう告げると、
「多くの人を殺めてきた罰だな」
と言って、諦めたような顔をした。
見るからにエデュアルトは戦いに疲れていて、この人は腕を失うと自ら命を絶ってしまうかも知れない。マノンにはそう思えた。
そこで、マノンは普段薬師としては使わない、魔法と精霊の力を使って治療を試みることにした。
エデュアルトを自身の家に連れて行くと、化膿している部分を聖水で丁寧に洗い流し、神木と言われる木から取った枝の一部を芯にして回復魔法を絡め、その腕の傷に埋め込んだ。そして治癒を高める効果のある葉を数種類混ぜてすりおろしたものを傷に当て、清潔な包帯で丁寧に傷を覆った。見慣れない治療法だったが、エデュアルトは黙って受け入れた。
経過観察のため、エデュアルトはそのままマノンの家に滞在することになった。森の近くにある家は古びていたが、二階建てで部屋数は多かった。かつてマノンの両親が健在だった頃は、ここで病人の治療を引き受けることもあり、病人を家に置くことにためらいはなかった。
マノンはほとんど部屋に閉じこもったまま過ごすエデュアルトに食事を出したが、他には特に何をしろと言うこともなかった。まずは食事を取れること。生きて行くには大切なことだ。
マノンに言われるまま一週間右腕を使わず、傷が塞がるのを待つと、傷は少しづつ癒え、痛みも治まり、軽く動かすこともできるようになった。
エデュアルトは腕を切らずに済んだことに感謝し、徐々に身の回りのことにも気を向けるようになった。自分が食べた物の片付け、薪割りや水汲みなど、気がついた事があれば進んでマノンの手伝いもする。それは生きようとする気持ちが戻ってきたことでもあり、マノンは喜んだ。
特に行く当てがなく、その後もマノンの世話になっていたエデュアルトは、マノンの用心棒になることを提案した。利き腕は使えなくなったが、反対の手でもそんじょそこらの者には引けを取らない。薬の材料を集めるにも、森には獰猛な獣がおり、時には魔物が出る。薬を売りに街に行く道中にもよからぬ者はいる。
マノンは、自分にはそういうものは不要だと言ったが、エデュアルトが傍にいることで時々受ける嫌がらせや薬の盗難はすっかりなくなった。
ある日、いつものように買い物と薬の納品に街に行くと、道端に腹を抱えてうなり声を上げる子供がいた。
マノンが駆け寄り具合を見たが、状態はかなり悪く、自分の手には負えそうもなかった。
町医者まで連れて行こうとエデュアルトが子供を抱えると、子供に触れた部分の右腕がもぞもぞと何だかくすぐったい感じがした。
まだ腕がちゃんと治っていないせいかもしれない。子供を落とすことがないよう慎重に抱え直した時、自分の右手の第一関節が子供の体に埋まっているのに気がついた。
服も通り抜けて、完全に突き刺さっている。
ぞわりとした感覚に襲われた。
意識した途端、自分の指先の変化を感じ取った。指先が更に枝分かれしながら子供の体の中を巡り、まるで根を張るかのように体中に広がっていく。
やがて、その中から腹部にたどり着いた一枝が、脾臓と腸に損傷を受け、血と体液が漏れ出ているのを感知すると、固まりつつあった血液をすすり、漏れ出た体液を吸い取りながら、更に細くなった根が体内の傷を縫い、塞いでいった。縫い終わった途端に傷は塞がり、合図でも送ったかのように一斉に根が指先へと戻ってきた。
マノンに声をかけられ、我に返ると、エデュアルトの手は子供の上、それも当然服の上に添えられていただけだった。
医者の所にたどり着いた時、子供はぴんぴんしていた。
服には大人の足跡がついていて、恐らく激しく何度も蹴られて腹痛が起こったのだろう、と思われたが、特に症状もなく、治療費も払えない貧民の子供だったこともあり、軽く様子を確認しただけで終わった。まだ様子を見てくれただけでも良心的だった。
エデュアルトの手の中には、いつの間にか黒い種のような物があった。
これは一体何だろう…。
エデュアルトはそれをポケットに入れて持ち帰り、部屋に戻ると瓶の中に入れた。
数週間後、マノンは手製の薬を納めに街にあるなじみの薬屋へ行った。
薬屋の待合室にはずいぶん顔色の悪い年配の婦人がいた。薬局で処方される薬を待っているようだったが、今にも倒れそうな様子を見て、マノンが声をかけた。
「大丈夫ですか?」
「…ええ。間もなく薬ができますから…。受け取ったら家で休みます」
息も少し荒く、このまま待っているのも辛そうだ。
マノンが薬屋の奥に薬ができているか聞きに行く間、エデュアルトが婦人の肩に手を置き、倒れないよう支えていた。
すると、またしても右手が触れている部分がかゆみを帯び、自分の目の前で、ただ肩に置いていただけの手がゆっくりと婦人の肩の中に沈んでいった。そして細くなった指がさらに分岐しながら地面に根を伸ばすように体の中を巡り、異変を感じ取ると全ての根が心臓へと向かった。
心臓に近い血管に大きなこぶができていた。
鋭く尖った根がそのこぶに突き刺さると、ゆっくりと組織を吸い出し、別の根が固まりつつあった周辺の血の成分を吸い取った。徐々に広がった血管から血液が滞りなく流れるようになると、まるでそれを見届けたかのように瞬く間に全ての根が自分の指へ戻ってきた。
マノンが戻ってきた時には、エデュアルトの手は普通に肩の上に乗り、婦人を支えていただけだった。
「あら、何だか楽になったわ…」
足りなかった血が巡るようになり、婦人の顔色はみるみるうちに生気を取り戻していった。
またしてもエデュアルトの手には種のような物があった。今度は赤くて丸い形をしていた。
婦人はゆっくりと立ち上がると、親切に声をかけたマノンと、傍にいたエデュアルトに礼を言い、待っていた薬を手に家へと帰っていった。
薬屋の主人も、安心した様子だった。
「何だか元気そうになって良かった。時々様子を見ておくようにするよ」
薬屋の主人に言われ、マノンとエデュアルトはあとは薬屋に任せることにした。
病人が回復するのは良いことではあったが、その前の自分の手の動きが気味悪く、エデュアルトはマノンに相談した。
幻覚かもしれないが、と前置きした上で、体調の悪い人に右手が触れると、指が体に埋まり、指先から根のようなものが広がって全身を巡り、体の悪い部分を見つけるとそこに集まって「治療」のようなものを施し、さっと引いていく。気がつけば手は元に戻っている代わりに、奇妙な種のようなものを握りしめている。
前回と今回の種の入った瓶を見せると、マノンは指先でその種のようなものをつまみ、じっと見つめて、
「これが病気の原因なのかな?」
と言ってしばらく観察した後、瓶に戻し、蓋をしっかりと閉めた。
エデュアルトの右腕は元の力の復活は望めないものの、傷は想定以上に癒えていた。
「実は、あなたの腕を治療するのに、精霊の力が宿る神木のかけらを使ったの。あまりに腕の具合が悪くて、人の治癒力だけではどうにもならなくて…。もしかしたら、神木の力があなたの腕の治療を超えて、その手が触れた人にまで影響を及ぼしているのかもしれない」
マノンは不用心に魔法と神木を治療に使ったことをエデュアルトに謝った。しかし、エデュアルトは感謝こそすれ、マノンを責めることはなかった。
「俺は今まで、多くの人を傷つけ、殺めてきた。それは剣士である以上仕方がないことだったが、その力を失い、代わりに誰かを助ける力を得たとしたら、それはこれまで自分がしてきたことの償いをしろということなのかもしれないな」
エデュアルトは、自分が得た新たな力を受け入れ、かといってそれを積極的に広めることはせず、人に知られないままそっとその力を試すことにした。
その後も何度か体調の悪い人や自覚はないが内に大病を患っている人に出くわすと、同じようなことが起こった。自分には指が体の中に埋もれ、そこから体中を探る様子が伝わってくるのだが、他の人にはただ触れているようにしか見えない。マノンでさえ、目配せして今「治療」をしていると伝えられても、マノンの目にはエデュアルトの爪の先までちゃんと見えていて、体の外側で触れているだけで体にめり込むような様子は見られなかった。
奇蹟の履行はエデュアルトだけにわかるものだったが、その恩恵は治った者なら誰でも、明らかに感じることができた。やがて口コミで噂が広がり、特別な治癒の力を授かった治癒師として森の薬師の用心棒のことが広まっていった。
贖罪として与えられた力なら、それを自分の栄誉とするのは本望ではなかったが、治りたいという人々の願いを叶えることこそ必要なことだ。エデュアルトは噂をあえて否定しなかった。
治療をする間の、根が体を巡る独特の感覚は少し気味が悪く、いつまで経っても慣れなかったが、希望をする者がいれば断ることなく施術した。街中だけでなく、時折近隣の貴族の館に呼ばれ、大した病でもないのに少し治療をすれば大金を得ることもあった。
本当は金銭の受け取りは避けたかったが、その金を使って高価な薬の素材を手に入れ、薬を作る器具を新調すると、マノンの作る薬は格段に質が良くなっていった。そしてそれが街の人々の恩恵にもつながった。
エデュアルトを囲おうとする者もいたが、エデュアルトが森の家にいなければこの力はなくなるだろうと言うと、それ以上無理を言うことはなかった。奇蹟の力があってこそ必要な男だ。
そのうち、どこで聞きつけたのか、王の叔父に当たる公爵から治療の依頼が来た。
公爵は寝たきりで動くことができないので、エデュアルトが出向し、治療に当たる必要があった。旅の馬車と路銀、それとは別に金貨が一袋用意されていた。それは依頼と言うより、命令に近かった。
金のためにしているのではない、とエデュアルトは言ったが、金で解決できないなら別の方法をほのめかされ、渋々ながら依頼に来た男に同行することにした。
マノンを家に置いておくのも心配だったが、同行させるのはもっと心配だった。マノンは、いつも納品する薬が間もなく切れる頃で、自分の薬がないと困る人もいるから、と、ここで帰りを待つことにした。
渡された金貨をこっそりとマノンに渡し、用が終わり次第戻る、と告げて、エデュアルトは旅立った。
マノンには、このままエデュアルトが戻ってこないような、嫌な予感がした。
馬車で五日かけて着いた公爵領は、広大で肥沃な土壌から生み出される農作物と、それを使った珍しい加工食材が有名で、他領との交流も盛んで、街は賑わい、人々の暮らしぶりは豊かだった。
街の中央にある公爵邸は、城と言った方がいい大きさだった。
公爵はもう半年ほど伏せっていて、どんな治療も効果が見られず、このまま放っておけばもう先は長くないのは見えていた。
エデュアルトはその日のうちに公爵の「治療」を行った。
公爵の体にはあちこちに「良くないもの」があった。複数の臓器に及ぶ黒い影は大小様々で、かなり衰弱していて、この影を取ったところで健康を取り戻せるかはわからなかったが、それでも「治療」を行うと体はずいぶんと楽になり、翌日には起き上がって食事を取ることもできるようになっていた。
エデュアルトの神業といってもいい「治療」に感動した公爵は、褒美として自身の娘を娶らせる、と言った。
しかし、エデュアルトにはその気は全くなかった。丁寧に辞退し、帰ろうとしたが、その力の価値を自ら実感した公爵は、エデュアルトを自らの元に置くために捕らえ、牢に入れようとした。
護衛を本業とする者六人と対峙するには、利き手が使えないエデュアルトには力が及ばなかった。三人に傷を負わせたが、逃げ切ることはできず、最後は牢に放り込まれた。
抵抗することなく公爵令嬢と婚約を結べば良かったのかもしれない。せめて承諾する振りだけでもすれば…。
しかし、エデュアルトには、それは共に暮らすマノンを裏切ることになると思えた。自分の思いを伝えたことはなかったが、エデュアルトは確かに、マノンと共に暮らす今の暮らしこそが自分の求めていたものだと感じていた。
しかし、もう戻ることはできないかも知れない。
エデュアルトは、公爵の治療で出てきたいつもより大きめの深緑色の種のようなものを、頭より高いところにある明かり取りの小さな窓から外に投げ捨てた。こんな風に種を扱う気持ちになったのは初めてだった。
何度か公爵が来て、エデュアルトの心変わりを問うたが、エデュアルトは何も答えなかった。
日に一度の少ない食事。粗末なベッドには薄い毛布しかない。奇蹟を起こす手が冷えて痛んだ。
その三日後、地響きと共にエデュアルトが入れられていた牢を持つ塔が崩れ始めた。
事情はわからなかったが、崩れたレンガの隙間から外へと逃げることが出来た。城の中にいた者達も慌て、逃げ惑っていた。
見ると、塔の西側に見たこともないような蔓状の大きな木が生え、塔に続く城を巻き込みながら今なお天へ向かって成長を続けていた。大きくなる毎に城の壁面をなぎ倒し、固く巻き付きながら木化していく。
公爵もこの様子には驚いていた。
「あの治癒師が何かしでかしたのだ。即刻捕らえよ!」
外に出ていたエデュアルトを指さすと、城の兵がエデュアルトを取り囲んだ。
望んだ治癒を施したにも関わらず、剣を持たない者に剣を突きつけ、身に覚えのない罪で捕らえる。そんなことは許せなかった。
エデュアルトは若い兵を狙って剣を奪い取ると、最後まで抵抗する覚悟で突き進んだ。
治療を受けたが大して動かなくなったはずの右手で剣を持つと、あんなに重かった剣がずいぶんと軽く感じられた。
気がつけば、負傷する前のような力で、その場にいた城の兵十人を打ち倒し、うち二名は事切れていた。
せっかく人を救う力を手に入れながら、またしても人を殺めてしまったことに、エデュアルトは皮肉を込めて笑った。そのせいでこの力が尽きるなら、それもいいだろう。この力は、強欲な者の手に利用されていいものではない。
自分を守る兵を失い、うろたえながら後ずさる公爵の元へ、エデュアルトは一歩づつ近寄っていった。剣を肩の高さまで振り上げると、腰を抜かした公爵は這いずりながらもエデュアルトから離れようと必死に足をばたつかせていた。
「ま、待て、おまえを解放しよう。このことはなかったことにしてやるから、命だけは…」
命を救いに来て、その命を救ったにも関わらず、今は命乞いをされる。そのくだらなさ。
エデュアルトは剣を左に持ち替え、公爵の目の前で自らの右手に突き刺した。
「これで、もう奇蹟の力はありません。…私の力のことは、お忘れください」
震える公爵を背に、エデュアルトは剣を投げ捨て、城を出た。
エデュアルトが去った後も巨大な木は城を完全に打ち崩すまで伸び続け、種と同じ深緑色の花を枝いっぱいに咲かせると、ほどなくして立ち枯れ、やがて崩れていった。
公爵は城を捨てて別の館に移ったが、三日もしないうちに病に倒れた。それは治癒師が来る前に不調を起こしていたのと同じ症状で、あっという間に悪化し、一週間もしないうちに元の苦しみを完全に再現した。
あの木が花咲いた時に城にいた公爵夫人や令嬢、侍従、侍女、兵士を含めた全員、同じような体の不調に苦しめられ、先に亡くなった公爵を追うかのように、次々と命を落とした。
城から奪った馬を走らせ、エデュアルトが戻った先はマノンのいる森の家だった。
いつものように湯を沸かす煙が上がり、庭には包帯やタオルが干してある。
この時間なら薬を焚き、薬草を摘み、忙しそうに体を動かしているだろうに、マノンは庭にある長椅子に座って俯いたまま、物思いにふけっているようだった。
「すまないが、この傷を治せるだろうか」
エデュアルトが遠くから声をかけ、新たな傷を作った右腕を見せた。
マノンは無事帰ってきたエデュアルトの元に走り寄り、抱きついた。エデュアルトも怪我のない手でマノンを引き寄せ、再会を喜んだが、マノンはすぐに我に返ると、エデュアルトの傷の治療をした。
自らがつけた傷と戦いでついた傷で、右腕だけでなく、あちこちに怪我を負っていた。中でも一番深いのは、公爵を諦めさせるため、自らがつけた右腕の傷だ。
「今度は例え腕が動かなくなっても普通の治療がいい」
と言われ、マノンはこくりと頷いて、薬草での治療だけにした。
より筋力は落ちたものの、傷はうまく塞がり、痛みは伴ったが静かに暮らす程度であればさほど不自由することはなかった。
二人は薬師と用心棒の役割に加え、家族として森のそばの家で暮らすことになった。
エデュアルトが治癒を頼まれた旅先で怪我を負い、治癒の力を失ったことはあっという間に広まり、時々疑いと希望をもって治癒を頼みに来る者もいたが、奇蹟は起こらなかった。二人は元の静かで穏やかな暮らしを取り戻した。
その後も、街では病に苦しむ人が劇的に良くなることがあったが、神の気まぐれと噂され、特定の誰かが起こす奇蹟とはみなされなくなった。森の薬師の隣にいる用心棒が何気なく手を貸し、触れていたとしても、気付くことはなく…。
人が回復するたびに薬師の家には種のようなものが集まっていたが、決して地面に戻すことはないよう厳重に保管され、人知れず焼き払われた。