姫と盗賊
昔、都よりそう遠くない国に、たいそう美しい姫がおりました。
幼いころから、花盛りの桜の下に立てば桜は姫に注ぐ花びらを惜しまず、わずかひとときで散り尽くしてしまい、月の下に立てば月は光を失い雲間に隠れてしまうと囁かれるほどの美しさでした。
日、一日と長ずるにつれ姫はますます美しくなり、年頃になると家の者ですら姫の美しさに心霞むようでした。ですから姫は屋敷の奥深く、御簾を幾重にもおろして盲目の老女にかしずかれて暮らしておりました。
やがて姫の美しさは都の高貴な方の元まで届き、お召しによって姫は都に上ることになりました。
都に上るのには、二頭立ての大きく立派な牛車が仕立てられました。
普通の牛車では姫の美しさが透けてしまうので、幾重にも御簾や布をたらす必要があったのです。
大きな牛車は盲目の老女を従え、都から遣わされた屈強な家来達に守られて、しずしずと旅立ちました。
峠にさしかかった時、その牛車行列の行く手を阻むものどもがおりました。
盗賊の群れでした。
「これはこれは大きな牛車、それにみごとな飾りだ。女の車か。これならば女だけでなく、宝もたくさん積まれているだろう」
頭領らしい髭の大男が、鉈のような山刀をひらひらさせて脅します。
守護の都の家来衆は刀を抜いて、立ち向かいましたが、大勢の盗賊にはかなわず、切り伏せられてしまいました。
「さて、女と宝を見せてもらうとしよう」
頭領ははやる手下を制して御簾を上げました。
御簾の向こうはまた御簾が下がっております。
「ほう、これは丁寧な。さぞ尊いものが奥にあるのだろう」
頭領はからからと笑って牛車に半身を突っ込むと、ぐっと太い腕を突き出し、幾重にもある御簾や布をひっつかみ、思い切り引きちぎりました。
そのとたん、眩いものが頭領の目を射ました。
なんとも芳しい香りも、周囲に立ちこめました。
目の前には、まだ一枚の薄絹が下がっておりましたが、その向こうから眩いものも、香りもこぼれてくるのでした。
薄絹の前には、家来衆が戦っている間に姫を守ろうと牛車に乗り込んだ盲目の老女が座っており、血の気の引いた顔をきっと頭領に向けておりました。
「無礼は許されませんぞ。こちらの姫は高貴な方に召されて都に上るところ。
畏れ多いことがわかったら、退きなさい」
しかし、頭領の耳には老女の言葉の半分も届きませんでした。
薄絹を通しても美しい姫の影に、すっかり心を奪われていたのでした。
「こんなことがあるのか」
頭領は冷や汗が脇を伝うのを感じました。
薄絹を通した美しい影は、頭領の胸をかき乱し、息ができないほどの痛みを与えたのです。
布の奥で、さらりと衣擦れの音がしました。その音ですら音楽のように響きます。
峠を超える旅人から、様々な宝を奪ってきた盗賊の頭領でしたが、それらは今となっては足下の石ころほどにも思えませんでした。
「おかしら、どうしたんで?」
いつもと様子の違う頭領に、手下が車の外から心配そうに声をかけてきました。
「うるせぇ。黙ってろ」
頭領の一喝に手下どもは静かになり、いぶかしみながらも次の命令を待つ顔になりました。
そうです。盗賊の頭領がこんな事ぐらいで、動じてはいけないのです。たかだか非力な女一人。臆していては頭領などやっていられません。
気を取り直した頭領の耳に、また衣擦れが聞こえました。
その音は頭領の耳の奥を優しくふるわすのでした。
頭領はどうしていいかわからず、ただ薄絹の前で呆然としていました。
「姫の美しさを見れば、お前のような卑しい者は気が狂いましょう。己の身のためでもある。このまま去りなさい」
気配を察した老女が言いました。
頭領にはその言葉が真実のように思えました。
布を通してもこれだけ美しい姫なのです。この布を取り払い、直接姫をみたらどうなるか、想像もつきません。
けれど、だからといって、頭領はここで引き下がるわけにもいきませんでした。外には何十人の手下が待っているのです。女の一人が怖くて略奪を止めたら、手下はもう頭領の言う事をきかなくなるでしょう。
頭領は己を奮い立たせて、牛車に膝をついて乗り込みました。
三たび、身じろぎが聞こえました。
天上の楽士が奏でたかと思うような、うっとりする音でした。
ぞくり、と熱いような冷たいようなものが頭領の背筋を走りました。
「盗賊なのですか?」
と宝玉でつくった鈴を思わせる、澄んで美しい声がいたしました。
その声は頭領の耳から首筋を通って、震えるように身体を抜けて行きます。
一瞬、気が遠くなりかけました。
薄絹を通して眩さがいっそう増したようであり、周囲の香りがより濃くなったようでもありました。
天女の国に足を踏み入れたのかとさえ思いました。
陶然としかける頭をぶるぶると振って、頭領は自分の横っ面をたたき思い切り息を吸い込みました。
そして精一杯虚勢をはり、
「俺は盗賊のかしらだ」
と姫に向かって、できるだけ恐ろしげに言い放ちました。
しかし、美しい声は怯える気配もなく、
「わたくしをお盗りになるのでしょうか?」
と尋ねます。
「そうだ。お前を盗んで俺のものにする。お前は盗賊の女になるのだ。どうだ、恐ろしいだろう」
その美しい影の崩れるところを何故か見たくて、頭領はわざとそんな風に言いました。
それは美しい花を見るとむしりたくなるのと同じ衝動でありました。
壊す事によって美しさを確かめ、永遠に自分のものにしたいという衝動です。
けれど、薄絹の向こうの姫に怯えた様子はありません。ただ物悲しいような美しい気配だけが伝わってまいります。
その気配が、目や鼻、耳、そして肌の表面から入り込み、血や肉のすみずみまでくすぐるようでした。
頭領はなぜか泣きたくなりました。けれどもちろん泣くわけにはまいりません。
歯をくいしばってその気持ちと戦いました。
「わたくしをお盗りになってどうなさるのでしょうか?」
美しい声は盗賊の言葉の意味を計り兼ねたように、不思議そうに問い返しました。
その言葉に、控えていた老女が慌てました。
姫に恐ろしい思いをさせるくらいなら、我が手で姫を殺めようと心を決めていた老女でした。
「姫様!」
「よいのです」
姫は穏やかに老女をいさめました。
「ほう、気丈なことだ。お前は美しいようだから、俺の女房にしてかわいがってやろう。毎日俺のそばにおいて、酌をさせたり……」
頭領の言葉はそこで途切れました。
今まで数えきれない罪を犯し、野方図に生きてきた盗賊の頭領でしたが、急に自分の言っていることが無力だと知ったのでした。
この姫を自分の女房などにできっこないのです。
姫を手に入れたら、深い洞窟の奥深くに住まわせ、誰にも見せず大事にしてしまう己の姿が見えるようでした。
「おやめなさいませ。あなたさまにはご無理でしょう」
自然の理を解くような声音でしたが、頭領にはそれが自分に対する挑発のように聞こえました。
「無理なものか。お前など……」
勢いにまかせて薄絹に手をかけました。
いっそのこと、傷でもつけてしまえばという思いが浮かびました。
そうなれば、こんな思いをしないのでは、と。
「いけませぬっ!」
老女の悲痛な叫びもかなわず、最後の布は一気に引き下ろされました。
何にもたとえがたい美しい姫が、頭領を見上げておりました。
真珠のような肌に、闇のように漆黒の髪が長く流れておりました。
顔はどんなたとえを用いても表すことができません。
姫の美しさの前に、金糸銀糸を織り込んだ衣は、生成りの布のように見えました。
目を灼き、心を一瞬に蒸発させるような美しさでした。
頭領の目には姫が太陽のように輝き、熱を放っているように感じました。
ほんの一瞬見ただけで、頭領は後ろに退き、固く目を閉じました。
そうでないと目が潰れ、息が止まるかと思ったのです。
目を閉じたにもかかわらず、かいま見た姫の美しさは頭領の心に入り込み、炎を飲み込んだようにいかつい身体の内側から灼きました。
なのに、たった今見た姫の美しさを心に浮かべようとすると、手のひらの雪のようにすっと消えてしまうのでした。そして、また姫をみたいという思いがぐいぐいと喉の奥から持ち上がり、まぶたをこじあけようとします。
今、また姫を見たらどうにかなっちまう。
頭領は内からこみ上げるものと必死に戦いました。
狂おしいほどの欲望が身体の中を暴れ回り、喉や目、耳から、そして肌の毛穴という毛穴から吹き出しそうでした。
「うおおおおぉぉぉぉっっっっ!」
ついに喉から絶叫を押し出して、頭領は牛車を飛び出しました。
「おかしらっ!?」
手下どもが戸惑いながら集まってくるのが目に入りましたが、それどころではありません。心の中では、美しい姫をもう一度見たいという思いだけがどんどん膨らんで行きます。
喉から血を吐くほどに叫んでも、その思いは振り切れません。
もうだめだ。もうだめだ。あの姫の美しさは俺の心を殺してしまった。もう何を見ても、何をしても、俺は美しいとも、楽しいとも、うれしいとも思う事はないだろう。恐ろしいとも悲しいともさえ思う事はないだろう。俺の心の中には、姫の美しさだけがある。自分では思い出す事もできない美しさに支配されてしまった。あの姫をもう一度見たい。しかし、もう一度、たとえ瞬きの間でも見たならば、心の臓は止まり、死んだままこの世をさまよう亡者になってしまうに違いない。あれはこの世の美しさではないのだ。あやまってこの世に現れてしまったものなのだ。それを見てしまった俺はもう終いなのだ。
「何があったんでっ!?」
腹心の手下が覗き込んできます。
頭領は手にしていた山刀に、虚ろな目を落としました。
それから山刀を振り上げると、腹心の首をすっぱりと断ち切り、成り行きのわからないまま呆然としている他の手下どもに、切り掛かって行きました。
突然の頭領の乱心に、手下どもは立ち向かうことも忘れ、悲鳴を上げながら散り散りに逃げていきました。
あとには都の家来衆や手下の屍が、嵐の後の落ち葉のように残っただけでした。
頭領は方で息をしながら、牛車を振り返りました。
大きくきらびやかな牛車の中には、盲目の老女にかしずかれた、世にも美しい姫がいるのです。
盗賊の頭領は、こみ上げてくる喉の乾きのように切羽詰まった欲望を、無理矢理ねじ伏せて歩み寄ると、二頭の牛の尻を蹴りつけました。
牛たちはそれぞれに頭を振って、ゆっくりと歩き始めました。
ぎいぃぃし。ぎいぃぃし。ぎいぃぃし。
山道に、車のきしむ音だけが響き、徐々に小さくなっていきます。
頭領はその音が聞こえなくなるまで立ち尽くしていました。
その後のことはわかりません。
美しい姫を乗せた牛車は、都にたどり着く事なくいずこへと消えたとのことです。
<了 >
美しさとはなんだろう、と思います。
夕焼けは美しいし、花も美しい。冬の凍ついた星月も美しい。
あるいは、絵画や彫刻、写真などのアート作品。
その美しいと感じるもとはなんだろうと。
それがなんであれ、心揺さぶられ、抗えずに魅了され、深く心に刻み込まれる「事象」であるといって差し支えないと思います。
最近では脳の認知科学の観点からのアプローチもあるようですが、まだ始まったばかりの研究の様子。
もし「究極の美しさ」というものがあったら、人間はどうなってしまうのでしょう。
そんな興味からの一作。