道にハードカバーの分厚い本が落ちている
「……本が落ちてる」
高校から帰るいつもの道に、見慣れない物がある。違和感を通り越して非日常を感じた私は思わず手に取る。
「ハードカバー。題名は……掠れて読めないなぁ」
とても古い本なのか、金箔の題名も剥がれ落ち、ボロボロで傷だらけだ。
私はどうしても内容が気になったので、硬い表紙をめくる。キシキシと使い古された本特有の音がする。
「『私は運命を拾った』……ねぇ」
特に何も思わず、けれどページを進める。二ページに渡る目次を飛ばし、プロローグに差し掛かろうとしたその時。
「おーう。めぐちゃんや、お帰りなさい」
「あ、佐藤さん」
ご近所付き合いの長い、同じアパートの佐藤さんというおじいさんが私に気づいて声をかけてきた。
「こんにちは」
「こんにちはぁ。ほいでー、めぐちゃんや。ずっと立ち止まってどうしたんか?」
「ちょっと本を拾って」
私はそう言って本を軽く持ち上げる。しっかりと読んでいたページに人差し指を挟んで。
「今から交番に届けようかと思ってたんです」
「そうかいそうかい。良いことじゃ、良いことじゃ。なんなら、交番で読ませてもらうのもええかもな」
「そうですね」
確かに。待っている間に読めばいいのか。
「ありがとうございます。では」
「ほいほい。じゃあの」
軽く会釈をして佐藤さんの脇を通る。今度は立ち止まらず、真っ直ぐに近くの交番へと向かった。
このちょっとした田舎町の数少ない交番だ。
“緑交番”と書かれた看板の前で立ちどまり、私は扉を開ける。
「こんにちはー」
「どうも、緑交番です」
控えめに挨拶をすると、中央にある長机の向こうで座っていた中年の警官さんが立ち上がる。
「どうかいたしましたか?」
「はい。あの、本を拾ったんですけど。ハードカバーの」
「そうですか……少々お待ちくださいね」
そう言って、入口からすぐ右にある別の机の前に立ち、その上のパソコンをカチカチと操作する。
「そうですね。まだそのような本の落し物の情報は無いみたいです」
「そうですか。じゃあ、ここで少しこの本を読んでいてもいいですか? 他の人のものですけど、気になっちゃって」
「ええ、大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げ、私は長机の一番端に座って、ずっと挟んでいた人差し指から本を開く。
その本では、最初に主人公が道端に落ちていた不思議な形の鍵を拾うところから始まった。もちろん警察に届けるのだけれど、こんなものは預かれないと突き返される。
困った主人公は、今度は鍵の持ち主を探すことにする。だけれど見つからない。その代わりに、鍵の使い場所を見つけてしまう。
変梃な鍵穴に、不思議な鍵を差し込むとーー
「こんにちは」
誰かの声が聞こえて、私の意識は本から引き剥がされる。
大人の女性の声。落ち着いた雰囲気の声の方向を見ると、大人しそうな長い黒髪の女性が扉に手をかけ立っていた。
「こんにちは。どうかいたしましたか?」
「こちらに本の落し物が届いていないものかと思い伺ったのですけれど……。ボロボロの、ハードカバーの本なんですが」
それを聞いて、私ははっとして本を閉じた。指は挟んでいない。
パタンと鳴った音に気づいてか、女性が私の方を見る。女性が何かを言う前に、私は口を開いた。
「あの、すいません。少しお借りしてました。ごめんなさい」
なんだか急に申し訳なくなって、失礼なことをしている気がしてきて、私は本を差し出す。
何を言われるかとドキドキしていると、クスリと笑う声。
「大丈夫ですよ。ありがとうございます。でも、それは私のじゃなくて、母のなんです。それも、売りに行った帰りの」
そう言って、微笑んだまま本を受け取る。
「でも、売れなかったのでどうしようかと思っていたんですが……」
一度表紙に目を落とし、小さく息を吐き出して、意味ありげに私の方を見た。
「読んでくれる人がいるならば、きっと喜ぶでしょう。よければ受け取って貰えませんか?」
「い、いいんですか?」
そう尋ねつつも私の手は既に胸の横まで上がっている。身体は正直だ。
「ええ。いいですよ」
「じゃあ……お言葉に甘えて」
改めて持ち主の手から差し出されたその本を、私は両手でそっと持った。
「……ありがとうございます」
なんだか無性に嬉しいし、楽しい。非日常の気分。ファンタジーの気分だ。
抑えきれない笑みを浮かべながら、なんとなく表紙をなぞる。
「……きっと、母も喜びます」
ぽつりと正面で、何気なしに女性が言う。
「どうしてですか?」
私もそれに釣られてなんとなく聞いてしまった。
「それ、母が書いたんです」
その微笑みは、寂しそうで、嬉しそうで、でもやっぱり寂しそうで。
「読んであげてください。私は……たくさん読んだので」
そう言って会釈をして、警官さんにも声をかけて、その女性は交番を出た。
私は、改めて本の表紙に目を落とす。
その題名は私にはやっぱり読めないけど、あの女性には読めるんだろうな。




