呪いの席
私の職場には“呪われている”と噂されている席がある。「単なる噂」と切って捨ててしまいたいところだけど、そうも言っていられない事情がある。
その“呪いの席”には、実際に被害者がいるのだ。
しかも何人も。
多田野さんという中年男性は、体調を崩して長期休暇を取ってしてしまったし、その後にその席になった塚原さんというOLは「幻聴が聞こえるようになった」と言って病院の精神科に通い始め、遂には会社を辞めてしまい、その次にその席になった間君は理由も言わずに移動願を出して、別の課に移ってしまった。
そして、今、その席に座っているのは、杉平君という若手の“情報技術者枠”で入社した男性社員だった。
彼は少々、コミュニケーションが苦手なところがあり、何か不調があっても周りに助けを求めたりしそうにない。
だから私は特に気にかけていたのだ。
そんなある日、杉平君がとても青い顔をしているのが目に入った。私は心配して「何かあったの?」と声をかけてみた。すると、どうも誰にも言えなかっただけで本当は不安に思っていたのか、
「幻聴が聞こえるんです」
と、そう彼は私に訴えて来た。
「幻聴?」
「はい」
それで私は思い出した。辞めていった塚原さんも「幻聴が聞こえる」と言っていた。彼女はそれから精神科に通い始めたのだ。
私はどうしようかと悩んだのだが、どんな幻聴が聞こえるのか訊いてみた。
「僕の悪口が聞こえて来るんですよ。小さな囁き声なんですが」
それを聞いて私は表情を曇らせる。
「それ、幻聴じゃなくて本当に言われているのじゃないの?」
思わずそう言ってしまった。
ところが彼は首を横に振る。
「他の人に訊いてみても、誰もそんな悪口は聞いていないって言うんです。つまり、僕の耳にだけ聞こえるんだ」
彼はとても深刻そうな表情だった。私はそれでかける言葉を失くした。しばらく迷った挙句、「あまり気に過ぎないことよ。きっと疲れているだけだと思うわ」と、そんな当たり障りのないことを言った。
「病院に行ってみたら」とは、先の塚原さんのケースを思い出して、アドバイスできなかった。
自席に戻って検索をかけてみると、幻聴が聞こえるという症状は、統合失調症でも起こるらしいと出て来た。
……これは、まずいかもしれない。
ところがそんなある日、偶々、彼の席の近くを通りかかった私は、こんな囁き声を聞いたのだった。
「……まだ会社に来ているわよ。杉平」
「……本当に気持ち悪い」
「……よく出社して来られるわね」
とても小さな声だったが、それは確かに私の耳にも届いていた。彼を見てみると、苦しそうな表情を浮かべている。
――まさか、本当に悪口を言われていた?
私が幻聴を聞いているのでなければ、そういうことだろう。
そこで私は思い出した。
今まで、“呪いの席”になってこの課を離れていった人達は、皆、何かしら多少なりとも性格などに問題があるとされていた人達だったことを。
もしかしたら、あの席で彼らは嫌がらせを受けていたのか? ところが、それを訴えても口裏を合わせられて、幻聴か何かにされてしまう……
――そんな、もしそうなら、いくら何でも陰湿過ぎる!
私は真相を確かめようかしばらく悩んだ。このままでは、杉平君も犠牲者になってしまう。少々人付き合いが苦手なだけで、とてもいい子なのに……
が、その私の心配は空振りに終わった。
「いやぁ、杉平君がやってくれたよ」
情報技術に疎い私にはよく分からなかったのだが、プログラミングのとても役に立つ共通部品を杉平君が作ったらしい。
それは他の課でも大いに重宝され、うちの課の評価もお陰で上がったのだとか。
もちろん、彼に課を出て行かれては困る。課の手柄がなくなってしまう。
そしてそのタイミングで、彼は例の“呪いの席”から移動になったのだった。
これは穿った見方に過ぎるのかもしれないが、彼が課にとって必要な人材になったから、席を移動されたのかもしれない。
単なる想像だけれども。
だけど、もしその想像の通りだとするのなら、あの“呪いの席”は、課にとって邪魔な人間を追い出す為に用意された、断罪の場なのかもしれない。
もっとも、次に“呪いの席”に座らされる人が現れるまで、それは確かめようもないのだけど。
そんなある日だった。
「悪いのだけど、席を移動してくれないかな? 新しいプロジェクトが始まってね、メンバーだけで席を固めたいんだ」
そう、私は課長から言われた。
私が移動してくれと言われた席は例の“呪いの席”だった。別に私に問題がある訳じゃない。ただの仕事上の都合で移動するだけだ。
私はそう思おうとした。
だけど……
「――これから、よろしくお願いします」
そう挨拶した私を見る周囲の人達の顔は、何かとても嬉しそうだった。それはまるで、「また生贄がやって来た」と喜んでいるように私には思えた。