第6章 ソフィアの記憶と少年
いつからであったろう。ソフィアはある時を境にそれ以前の記憶を全く思い出せないことに気づいた。
それはまるで夢から覚めた後突然に、その夢を忘れてしまったかのように。
神父や医師に診療を受けても、ソフィアの記憶は一向に戻る気配は無かった。
ソフィアが一番最初に思い出すことのできる記憶は、いつも通り1日の初めに地下室の少年に食事を運ぶことだった。
教会の地下室に住む少年の世話係。
それがソフィアがこの教会で与えられた役割であり、何よりも優先されるべき仕事であった。
「おはよう、ソフィア。今日の天気はどうだい。」
少年は決まってその日の天気を尋ねる。
毎日外に出ることのできない少年は、やはり外に出たいと望んでいるのだろうか。
ソフィアと少年はいわゆる看守と監獄の囚人のような関係ではなかった。
例えばソフィアがある日、地下室の部屋の鍵を閉め忘れた時のことだった。
今日のように朝食を与えた後のことだ。朝の掃除と洗濯を終え昼食を運ぶまで、ソフィアは朝食の後に地下室のドアに鍵をかけることを忘れてしまっていたのだ。
昼食のために地下室へ降り、ドアが開いていることに気づいたソフィアはまるで頭の上から冷水をかけられたように凍りついた。
もし、少年がいなくなってしまっていたら?神父様やマリアンヌ様にはどのような言い訳を?町は今頃大騒ぎなのでは?
しかし、ドアを開けるとその少年は静かに椅子に腰を下ろし、蝋燭の光のそばで本を読んでいたのだった。
そして、少年はこう尋ねた。
「やあ、ソフィア。鳥籠の入り口を開けたままにしておくと一体どうなると思う?」
神父への言い訳をいかにしようかと考えていたソフィアは咄嗟の質問に答えることができなかった。
「ソフィア、実のところ私もその答えを知らないのだ。」
そう言ってその子は静かに昼食を食べ始めた。
その少年の落ち着いた姿は不思議とソフィア自身を安心させたのだった。そしてソフィアは少年の質問に興味を惹かれた。
「ねえ、どうしてそんなことを考えていたの?やっぱり、私が鍵をかけるのを忘れてしまったから?」
そういえば、この子が私が鍵をかけ忘れてしまったことを神父様やマリアンヌ様に告げ口をしたらどうなってしまうのだろう。
だが少年と話しているとその様な心配は杞憂であろうと思われた。
「ソフィア、私は興味を惹かれたのだ。その鳥は外へ出たいと願っていたのだろうか。もし外に羽ばたいていったとして、また籠の元に帰ってくるであろうか。籠の外は内にいた時よりも魅力的に映るのだろうかとね。」
ソフィアにはその少年の言っていることを理解することができないように思えた。
「そういえば、あなたはいつも私の名前を呼ぶのね。私はあなたに名前を呼ばれることが心地いいの。」
そう言うと、その少年は驚いた顔をして唐突に尋ねた。
「なるほど、ソフィア。では私にも名前を与えて欲しい。」
「え、そんな急に?名前とは大切なものなのよ。そうね…しばらく考えてもいいかしら?」
少年は微笑んで答えた。
「何かを待つと言うことは退屈なだけではないのだな。」
そこには12歳と言うあどけない少年の笑顔があった。
そしてソフィアはやはり記憶を取り戻したいと思うのだった。
なぜなら彼女はその少年がどうして地下室に閉じ込められるようになったのかも、その少年がどこから来たのかも、どうしても思い出すことができなかったからだ。