第5章 マリアンヌの教室
第五章 マリアンヌの教室
マリアンヌは6年前のある日のことを思い出していた。
彼女にとって、教えることは生涯において一番大切なことだった。マリアンヌが若い修道女の頃から、孤児たちが成長した後も賢くたくましく生きていけるように教育を施すことが使命なのだと信じて疑わなかった。
ある日、彼女が孤児院で神学を教えいた時のことだ。マリアンヌはその日、あまり気乗りのしない神学のレッスンを早めに切り上げ、子供達の遅れている算数の授業を進める予定だった。
そう、あの子が語り出す前までは。
その日は悪魔についてのレッスンだった。マリアンヌは天上で起こった大戦争の話、そしてもっとも美しい熾天使と言われた天使が地に落とされた話から始めた。創世の時代、悪魔は天使であったのだ。
「マリアンヌ、では悪魔に王はいるのか。」
あの子は12年前に突然現れたはずなのに、それよりも随分と前から彼女の授業に参加しているような、そんな気分にさせる不思議な子だった。
「そうね。爵位を与えられた悪魔がいるのだから、王がいるに違いないわね。」
そう答えるとあの子は表情を変えずに続けるのだった。
「マリアンヌ、ではその王とは誰なのか。」
たった6歳の子に初めて威厳のようなものを感じたのは長年子供達を教えてきたマリアンヌにとって驚きだった。
「もし王と言われた悪魔がいるとしたら明けの明星と言われたこの熾天使のことでしょうね。彼がすべての悪の始まりなのだから。」
そしてあの子は少しだけ悲しそうな顔をして答えた。
「そうかマリアンヌ。明けの明星が落ちたのだから朝日は清々しいのだな。」
マリアンヌは時折、その子から何か特別なものを感じていた。明らかに他の孤児たちよりも聡明だったのだ。教えていると言うよりも、教わっていると言うような感覚をがあった。
そしてあの子はいつも空中を見つめていた。その眼差しは虚無のようであり、時折悲しいようでもあった。あれは失踪した母を想う寂しさだったのかもしれない。
それともこの世界に興味を持とうとした何か別の存在なのだろうか。
そう想うとマリアンヌは言い知れぬ恐れを感じたのだ。
そのレッスンから数日後、突然中央聖教会に所属する聖騎士の小隊が一通の封書と共に教会に現れた。
事前の通告は無かった。
『神父よ、今すぐにこの教会付属の孤児院に在籍する子供達の全員引き渡しを命ずる。ただし、1人を覗く。引き渡しは本日とする。』
子供達には数時間しか与えられず、その間に荷物を整理し、小隊の馬車に乗せらえて行ってしまった。
一切の質問は許されなかった。
マリアンヌは子供達を一人一人抱きしめ、お別れを言うことしかできなかった。また会えると空約束をする自分が不甲斐なかった。
泣き出す子供達の声が今でもマリアンヌの耳に残っている。
こうして彼女の大好きだった教師の仕事は、ある日突然なくなってしまった。
生徒達がいなくなってしまったのだから。
そしてあの子だけがこの教会に残された。